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第8話

Auteur: 歓乃
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。

「なんでこんなに遅いんだ?」

「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。

智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」

「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。

「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」

「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も眉をひそめた。「俺をだましているんじゃないだろうな」

「あなただってサインしたじゃない。私があなたをだましてどうするの。大きい会社は手続きが面倒なのよ、仕方ないでしょ」

凛はコップを置くと、部屋に入ろうと背を向けた。

しかし智也が、彼女の服のすそを掴んだ。「腹が減った」

智也の視線が、凛からキッチンへと移る。

凛は彼を振り返り、その顔をじっと見つめた。

今までどうして気づかなかったのだろう。このセリフを言う時の智也が、こんなにも偉そうだったなんて。

以前の自分は、ただ智也にお腹を空かせてはいけない、ということしか考えていなかった。彼は胃が弱く、決まった時間に食事をとらないと、すぐに胃が痛くなってしまうからだ。

「分かったわ」

そう言って部屋に向かう凛。智也は、掴んでいた服のすそが手からすり抜けていくのを見ると、すぐに立ち上がり、大股で彼女に近づき、その手首を掴んだ。

智也は不満そうに言った。「『分かった』って、どういう意味だ?」

「聞こえたって意味よ」

凛は顔を上げて、智也の怒りに満ちた目を見つめた。かつての、あれほど優しかった夫は、まるでシャボン玉の中の夢のよう。指で軽くつつけば、すぐにはじけて消えてしまう。

「夕飯を作れ。今日はあら汁が飲みたい」

「家に新鮮な魚なんてないわ」凛は冷蔵庫に目をやったが、ここ数日、何も買い足していなかった。

智也は彼女を引っ張った。「今から買いに行け」

「もうこの時間じゃ、どこも開いてないわ」

凛が腕を振りほどこうとすると、智也はさらに強く掴んだ。そして、探るような目で彼女の顔を何度も見つめた。

「意地を張ってるのか。仕事をやめさせるからか?」

凛は冷たく言い放った。「そうよ」

「あんな安月給の仕事の、どこがいいんだ?」智也にはまったく理解できなかった。「社会の役に立つわけでもない仕事のために、俺に逆らうほどの価値があるのか?」

「じゃあ、その安月給の仕事が、簡単に見つかると思ってるの?」凛はこれ以上言い争うのをやめた。「手を離して。魚屋さんに電話して、まだ残ってるか聞いてみるから」

智也はようやく手を離した。

「これからは毎月35万円やる。お前の給料の倍以上だ」

凛は胸が詰まる思いだった。

自分が専業主婦になって、子供まで産むっていうのに、もらえるのはたったの月35万円?

それに比べて、柚葉は何もしなくても、ただそこにいるだけで月に6000万円ももらっている。高価な宝石やブランドバッグは、言うまでもない。

その時、電話が繋がった。

「山本さん、まだ鯛はありますか?」

「ああ、凛さん。旦那さんにご飯を作るんだろうと思って、ちゃんと一匹とっておいたよ」

「あら、もう売り切れですか?」凛はわざとらしく独り言を言った。「大丈夫です。次からはもう、私のために取っておかなくて結構ですから。必要なときは、自分で買いに行きますので。

ありがとうございます、山本さん。では、失礼します」

彼女は電話を切った。「魚、売り切れだったわ」

智也は眉をひそめた。

凛は何事もなかったかのように尋ねた。「小林さんはいつ帰るか、聞かなくていいの?手の怪我、まだ治ってないんでしょ。どこかにぶつけでもしたら、研究に差し支えるわよ」

その言葉で智也は、ようやく柚葉のことを思い出した。凛の手首を掴んでいた力がふっと緩み、彼はスマホを取り出して柚葉に電話をかけた。

電話の向こうで、柚葉が言った。「まだ研究所なの。祖父にちょっと用事を頼まれていて」

「分かった」智也の声が優しくなる。「今夜、何か食べたいものはある?凛に作らせるからさ」

「いいの?」

「もちろん。お前に怪我をさせたんだから、彼女がお前の世話をするのは当然だ」

「凛さんのせいじゃないわ。私自身が不注意だったのよ……あの、豚の角煮が食べたいな、お願いできるかしら?」

「もちろん」智也は快諾した。「仕事が終わったら連絡してくれ。迎えに行くから」

妻の目の前で、臆面もなく他の女を迎えに行くと言う。凛の心は、もうとっくに麻痺していた。

智也は振り返って言った。「柚葉が豚の角煮を食べたいそうだ。今夜、魚はやめにする」

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