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第983話

Penulis: 歓乃
「違う」海斗が低い声で否定した。

凛は怖がっているわけではない。ただ、いろいろな感情が入り混じって、自分でもうまく言葉にできないのだ。

利明はそれでも凛が気になった。心配されたところで、凛がそれを必要とも望んでもいないことはわかっている。

それでも隣の椅子に腰を下ろし、頭の中を整理しながら口を開いた。

「美雪は柚葉をそそのかした件に加えて、今度は誘拐に警察官への暴行まで起こしたから、もう法的責任からは逃れられないだろう。母さんは声が出るようになったけど、正気に戻ったり取り乱したりを繰り返してて、まだどういう状態なのかわからない。

今は車から出られないようにしてあるけど、父さんの容体が落ち着いたら、一緒にB市へ戻るつもりだ。

将希お爺様も、父さんが神谷観光を離れることにはもう同意したし、父さんもずっと前から準備してたみたいだから、金銭的にも大きな損はない。A市のチームも、父さんが神谷観光から連れていくために選んでた人たちで……」

そこまで話して、利明はふと口を止めた。自分でも、なぜこんなことを凛に話しているのかわからなかった。何か話していたかっただけなのかもしれないし、ある
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    凛が海斗の腕から降りると、次の瞬間には日和にぎゅっと抱きしめられた。「本当に心配したんですから!」凛は日和の背中を軽く叩き、笑いかけた。「大丈夫、大丈夫。私も海斗も、ちゃんと帰ってきたでしょ?」日和はこくこくと頷いて凛から離れると、今度は海斗の前に立った。「お兄ちゃん……」いかにも心細そうな声を出す日和の頭を、海斗が撫でる。「見ての通り、無事だ」日和は口を尖らせた。「私、一人で家のこと全部背負うの嫌だからね!」言った途端、海斗に額を小突かれた。「凛さん、海斗様、本当に大丈夫ですか?でも、無事でよかったです。隆様と瑶子様から聞いたときは、もう心配で心配で……」美穂子も二人を上から下まで見て、怪我がないことを確かめてようやくほっと胸を撫で下ろす。凛はそんな美穂子を軽く抱きしめてから玄関を開け、皆で中へ入った。策はそのままゲストルームへ向かう。「命に関わることじゃなきゃ起こさないで。俺、寝るから」そう言い残し、扉を閉めた。凛は美穂子を見る。「そういえば、美穂子さんはどうしてここに?」「お二人とも、しばらく家には戻れないだろうからって、隆様と瑶子様に頼まれたんです。ほかの人じゃちゃんとお世話できるか心配だったみたいで。それに、植田さんと岩崎さんもこちらに合流していて、今は支社の方にいらっしゃいます。森田さんは本社で待機しているそうですよ」「ああ」海斗は頷くと、美穂子に言った。「凛、ここ2日ほとんど食べてないから、辛いものは出さないで」凛が横からじろりと見る。海斗も凛を見返した。「本当に駄目だからな」「そうですね、今はあっさりしたものにしましょう。すぐ何か作ってきます」美穂子は頷いてから、ふと思い出したように続けた。「あ、それから凛さん。康平くんに電話してあげてください。凛さんがなかなか帰ってこないうえに、私までこちらへ来たと知って、何かあったんじゃないかって心配してましたから。危うく一緒についてくるところだったんですよ。でも、お二人とも今はいろいろ大変でしょうから、今回は紗枝先生のところで面倒を見てもらっています」「分かりました」時計を見ると、もうすぐ昼だった。この時間なら、康平にビデオ通話をしても大丈夫だろう。電話をかけると、待ち構えていたかのようにすぐつながった。画面には康平と、その隣に紗枝

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    茂がゆっくり目を開けると、もう辺りは暗闇ではなかった。見回してみても、あの廃工場ではなく、鼻をつく消毒液の匂いで、病院にいるのだとわかった。麻酔が切れ始めたのか、腕にはじわじわと痛みが戻ってきている。手首にもガーゼが巻かれ、頭はひどく重い。ぼんやりと視線を動かした茂は、ふと一人掛けのソファに座る細身の人影に気づいた。片手で頭を支えたまま、眠っているらしい。そのとき、入口から小さな足音が聞こえ、海斗が入ってきた。海斗は厚手の上着を手に近づき、凛の身体へそっと掛ける。その気配で凛が目を覚ました。二人は顔を見合わせ、海斗が凛の頭を撫でた。「ホテルに戻って寝るか?」「B市に戻ってから、ゆっくり休む」「分かった」説得しても聞かないとわかったのか、海斗はそれ以上言わず、声を落とす。「茂さんが目を覚ましたよ」茂は一瞬驚いた。海斗とはまだ目も合っていなかったのに、いつ自分が目を覚ましたと気づいたのだろう?だが、そんなことはどうでもいい。自分が誘拐されたと知って、娘がここまで来てくれたし、おそらく、一晩中この病室にいてくれたのだ。嬉しさと申し訳なさで、茂の目が赤くなる。「……凛」まだ熱が下がりきっておらず、声はひどく掠れていた。静かな病室には、その小さな声もはっきり響いた。凛にも海斗にも聞こえている。それでも凛はすぐには立ち上がらなかった。しばらくしてからようやくソファを離れ、ベッドのそばへ向かう。「気分はどう?」凛は茂に問いかけた。凛は茂に責める言葉も恨み言もぶつけなかった。それでも今日まで一度も、「お父さん」と呼んだことはない。それに、茂もそれを望むつもりはなかった。彼は弱々しく笑う。「大丈夫だ。凛も海斗くんと戻って、ちゃんと休みなさい」海斗が口を挟んだ。「茂さんにはB市の病院へ転院してもらいます。美雪は逮捕されました。今回の件は神谷家と草壁家の両方で情報が広がらないよう動いてますが、昨夜は騒ぎが大きすぎましたから……それに、神谷家という大きな家のことですし、長くは抑えられないと思います」茂はゆっくり頷いた。「そうか。じゃあ、戻ろう」「はい」海斗はさらに、利明も熱を出して診てもらっていることを伝えた。もうそろそろ熱も下がっているだろう。茂は頷いただけで、美雪や彰菜がどうなったのかは聞かなかった。だ

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    「違う」海斗が低い声で否定した。凛は怖がっているわけではない。ただ、いろいろな感情が入り混じって、自分でもうまく言葉にできないのだ。利明はそれでも凛が気になった。心配されたところで、凛がそれを必要とも望んでもいないことはわかっている。それでも隣の椅子に腰を下ろし、頭の中を整理しながら口を開いた。「美雪は柚葉をそそのかした件に加えて、今度は誘拐に警察官への暴行まで起こしたから、もう法的責任からは逃れられないだろう。母さんは声が出るようになったけど、正気に戻ったり取り乱したりを繰り返してて、まだどういう状態なのかわからない。今は車から出られないようにしてあるけど、父さんの容体が落ち着いたら、一緒にB市へ戻るつもりだ。将希お爺様も、父さんが神谷観光を離れることにはもう同意したし、父さんもずっと前から準備してたみたいだから、金銭的にも大きな損はない。A市のチームも、父さんが神谷観光から連れていくために選んでた人たちで……」そこまで話して、利明はふと口を止めた。自分でも、なぜこんなことを凛に話しているのかわからなかった。何か話していたかっただけなのかもしれないし、あるいは、せめて父と凛の関係だけでも、今より少しはよくなってほしかったのかもしれない。母娘の関係は、もう修復できるようなものではないし、自分と凛の関係も、いまだに冷え切ったまま。ならせめて、父娘までこのままでいてほしくなかった。「父さんは離婚届にも必要な書類にも署名してる。母さんのほうはまだだけど、今の状態じゃ本人に任せるわけにもいかないから、B市に戻ったら療養できるところへ移して、きちんと人をつけるよ」今は利明自身、母親に対して強い嫌悪を抱いている。それでも母親であることに変わりはないため、必要な世話は自分がするつもりだった。利明は凛の横顔を見つめた。やはり父に似ている。それに比べれば、自分は母親に似ているのかもしれない。30年近く父のそばで育ったというのに、その考え方も振る舞いもほとんど身につかなかった。家に縛られ、母親から強く押さえつけられて育つうちに、むしろ傲慢で自分本位な人間になっていた。母親に代わって凛へ謝りたい気持ちはあったが、そんな資格は自分にはない。間違いを認めるのも、謝るのも、悔いるのも、本来は彰菜自身がするべきことだ。手術室のドアが開き、策

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    策が救急バッグを手に船へ乗り込み、身をかがめて船室へ入ると、真っ先に凛の声が聞こえた。「策先生」わずかに緊張を含んだ声だったが、表情はまだ落ち着いている。その隣には海斗が立ち、片手で凛の背中をゆっくり撫でながら、策へ視線を向けていた。船室には血の匂いが漂っている。策がすぐに茂の状態を確認すると、一番ひどいのは腕の切り傷で、すでにガーゼで応急処置がされていた。それを外すと、斜めに走った長い傷が現れる。切れた皮膚は開き、まだ完全には血が止まっておらず、傷の周囲には赤みも出始めていた。「刃物の傷に加えて、雨にも濡れてるし、熱も出てる。感染のリスクがかなり高いから、この傷はきちんと洗浄して縫合する必要があるんだけど、ここじゃ処置できない。できるだけ早く病院へ運ぼう」その言葉に、海斗の手の下で凛の背中がわずかに強張った。「わかった。今すぐ病院へ」海斗が即座に指示する。ちょうどそのとき、ずぶ濡れになった利明が船室へ入ってきた。疲れ切った様子でベッドへ駆け寄り、青ざめた顔で意識を失っている父親を見る。「父さんの容体は……?」策は海斗の側の人間だ。海斗が神谷家に好意を持っていない以上、自分から利明に話しかけるつもりもなければ、わざわざ質問に答える気もなかった。焦る利明を見かねたのか、海斗が策へ目で合図する。そこでようやく、策は茂の状態を簡単に説明し、それから、少し呆れたように付け加えた。「神谷家で育った人って、身体が弱くてもやることは随分大胆なんですね。育ててもらった両親を人質にして、養父をここまで怪我させたうえ、大雨の海まで連れ回すなんて」利明は何も言い返せなかった。唇を震わせ、しばらく俯いていたが、やがて頭を下げる。「お願いします。父さんを助けてください」策は小さく笑って立ち上がった。「あなたのために助けるわけじゃありません」茂は凛の父親であり、海斗にとっても将来義父になる相手なのだ。「とにかく、早く病院へ運ぼう」茂を病院へ搬送する途中、策は先ほど港で目にしたことを二人に話す。「彰菜さんが、美雪さんの胸元を尖った石で何度も殴ったんだ。近くで見たけど、服が破れて出血してた。かなりひどかったから、もう警察が病院へ運んでると思う。どんな罪に問われるにしても、まずは命が助からないと始まらないからな」海斗の目が冷える。「B市

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    海斗から利明に返ってきたのは、たった一言だった。「向こう行ってろ」利明は歯を食いしばったが、仕方なく離れた場所へ移動する。その時、海斗が凛に向かって言った。「あのクルーザーの燃料じゃ国境線までたどり着けない。残り200メートルのところで止まるはずだ。背後には警察、目の前には逃げ切れるかもしれない場所がある。美雪ならどうすると思う?」凛は少し考えた。「人質を捨てて、泳ぐ?」「200メートルなら、普通の人間で10分くらい。ルースって男なら、その半分もかからないだろうな」「でも、そこで止まってまた交渉を始めるかも」「俺たちが追いつくのと、向こうが泳ぎ切るのと、時間はそう変わらない」そこまで聞けば、海斗の狙いはわかった。生きるか死ぬかという状況で、すぐ目の前に逃げ道があるなら、美雪はそちらを選ぶ可能性が高い。まして、彼女は何としてでも逃げようとしている。ふと、凛は気づいた。「でも、美雪さんは心臓が悪いから、200メートルも泳げるかわからない。あの男の人に助けてもらえば何とかなるかもしれないけど、そのぶん遅くなるよね?」「ああ」と海斗は鋭い目を細めた。「そこで、美雪が雇った男が残りの報酬を取るか、自分の命を取るかだ」「私は命だと思う」金があったとしても、死んでしまえば何の意味もないのだから。そのころ、燃料が尽きたことに気づいたルースは、自分たちが嵌められたと悟っていた。怒りに任せて彰菜を何度か蹴りつけ、罵声を吐き、そして戸惑う美雪に、即座に告げる。「泳ぐぞ」美雪は前方を見つめた。国境までは200メートル。振り返れば、警察の船がすぐそこまで迫っている。あと少し。逃げ切れるかもしれない場所は、もう目の前だ。美雪は腹をくくる。「二人はもういいから、飛び込んで!」続けて二つ、水音が上がった。ルースは予想どおり速かったが、美雪はほとんど泳げないため、すぐに動けなくなり、先へ進んでいたルースが引き返して助けるしかなくなった。雨の降る夜の海は荒れ、時折波も押し寄せてくる。そこへ一人を抱えて泳ぐとなれば、さすがのルースも速度は大きく落ちた。警察や凛たちの船が動かなくなった高速艇へ追いついたころ、美雪たちはまだ大して進めていなかった。海の中にいて、人質もいない。もはや完全に追い詰められた二人。全身を冷え切ら

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    「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用

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    智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける

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