LOGIN雪枝は心臓が凍りつくような感覚に襲われた。裕也の射抜くような視線に、背筋が粟立つ。まさか、あの子は何か知っているのか?いや、あり得ない。雪枝はすぐさま気を取り直し、怒りを露わにしてまくし立てた。「裕也、あなたが優秀なのはわかっているわ。藤原家の全権を握っているのもね。でも、たとえ和也に非があったとしても、ここまで痛めつける必要があったの?弟に対する情けはないの!」雪枝の言葉には、非難の色が濃く滲んでいた。裕也が先ほど放った言葉に、他の三人はまだ呆気にとられている。和也は歯を食いしばり、悔しげに言い放つ。「兄さん、何と言おうと、俺と絵里には婚約があるんだ。やり方がまずかったのは認めるけど、どうせあいつは俺の嫁になるんだぞ。夫婦の真似事を少し早めただけじゃないか」寧々は彼以上に、それが当然であるかのように口を挟んだ。「そうよ。和也と絵里は元々愛し合ってるじゃない。絵里はあんなに和也に夢中なんだもの。既成事実を作ってしまえば、絵里の機嫌だって直るかもしれないわ」「言い訳は終わったか?」裕也の眉目には生まれつきの冷厳さが漂っている。その視線が彼らを薙ぎ払うと、威圧感に場の空気が凍りついた。「絵里はとうに婚約破棄を申し出ている。和也との婚約は事実上消滅しており、あとは両家が顔を合わせて正式に破談にするだけだ」「それからお前だ」裕也の鋭利な刃物のような視線が和也を射抜く。「薬物投与、準強制性交等未遂罪。実刑なら最低でも三年は堅いな」和也は愕然とした。「絵里のために、俺をムショにぶち込む気か?俺はあなたの実の弟だぞ!」実の弟?裕也は口元に嘲笑の弧を描いた。これ以上、言葉を費やすつもりはない。「選べ。婚約破棄を受け入れて絵里に慰謝料を支払うか、それとも、臭い飯を食うかだ」彼の口調に妥協の余地はなく、その場にいた者たちは顔を見合わせた。「兄さん!弟の俺になんて仕打ちだ!一体どうしてそこまで絵里を庇うんだよ!」和也は半狂乱で叫んだ。叫んだ拍子に肋骨に激痛が走り、顔を歪めて押し黙る。だが、どうしても腑に落ちない。兄さんはずっと絵里のことを歯牙にもかけていなかったはずだ。それなのに、なぜ今になってこれほど彼女を守ろうとするのか?雪枝は信じられないといった面持ちで言った。「裕也、他人の肩を持って弟を追い詰めるの?世間
「たかが六歳差じゃない。おじいちゃんみたいな口ぶりはやめてよ」そう言えば、裕也の私生活は確かに枯れているというか、古風だ。二十九年近く生きてきて、スキャンダルは皆無。浮いた噂の一つもなく、夜の店に出入りしているという話さえ聞いたことがない。界隈の人間なら誰もが知っていることだが、裕也の潔癖なまでの身持ちの堅さと規則正しい生活ぶりは、彼が誰か特定の相手を待ち続けているのではないかと邪推させるほどだった。「お前より年上、それだけで十分だろ」裕也は唇の端を吊り上げ、笑みを深めた。「それに、痩せすぎだ。風が吹けば飛んでいきそうな、お子様体型だしな」「そんなことないわよ、ちゃんと発育してるもん」絵里は抗議し、胸を張ってみせた。「嘘だと思うなら、ほら見て……」待って。どうして私、こんなに必死になって見せようとしてるの?絵里は急に恥ずかしくなり、踵を返して逃げようとした。だが裕也がそれを許すはずがない。伸びてきた腕が彼女の腰を捉え、強引に抱き寄せる。「何を見ろって?」男の熱い吐息が顔にかかり、絵里は頭が沸騰しそうになった。どうしてあんな大胆な真似をしてしまったのか。見る?何を?私の発育の良い、言葉にできないような場所を?絵里は唇を噛み締め、深くうつむいて視線を逸らした。「い、今の、冗談だから」裕也の瞳に熱が宿る。彼は彼女の顎を指で持ち上げ、上を向かせた。「俺はさっきのお前のほうが好きだけどな。もう一度見せてくれないか?」絵里の顔はさらに熱くなり、耳の根元まで真っ赤に染まった。幸いなことに、その時、入り口から健の声が響いた。「社長、至急決裁をお願いしたい書類が……」間の悪いことにすぐ近くまで来てしまっていた健は、瞬時に突き刺さるような冷たい視線を浴びることになった。裕也の眼差しは刃物のように鋭い。「ボーナスは無しだ」健は凍りつき、泣くに泣けない顔になった。勘弁してください、社長。まさか社長と奥様が白昼堂々、リビングでイチャついているとは夢にも思わなかったのだ。それに、いつの間にこれほど親密になったのか?健に見られた恥ずかしさで、絵里の顔はこれ以上ないほど赤くなっていた。彼女は慌てて両手で裕也を押しのける。「私、先に上に上がってるから。ごゆっくり」だが裕
絵里は何かショックなことでも思い出したのか、悪夢にうなされていた。苦痛に顔を歪め、小刻みに震えるその姿は、あまりに脆く、胸が締め付けられるほどだ。裕也は慌てて彼女を抱きしめ、額に何度もキスを落とす。「俺がいる。怖くない、もう大丈夫だ」彼の瞳には暗い色が宿り、耐え忍ぶような光が浮かぶ。抱きしめる腕に力を込めた。子供をあやすように、繰り返しなだめる。絵里は極寒の中から暖炉の前へと避難したかのように、次第に落ち着きを取り戻していく。彼の胸に小さく丸まり、頼りなくも柔らかい体で、彼の胸元の服をぎゅっと掴む。彼の匂いに包まれ、また深い眠りへと落ちていった。裕也は愛しさで心が溶けそうだった。抱きしめる腕をさらに強め、顔を寄せてまた彼女の額にキスをした…………絵里が目を覚ましたのは、もう正午だった。昨日は明らかに消耗しきっていたため、泥のように眠っていたのだ。身支度を整えても裕也の姿が見当たらない。てっきりもう出社したのだと思っていた。だが階下へ降りると、リビングのソファの後ろ、掃き出し窓の前に立つ彼の姿があった。電話をしているようだ。その気品ある佇まいは温かな陽光に染まり、端正な横顔は太陽よりも眩しく輝いている。絵里は見惚れてしまい、電話中の彼を邪魔しないよう立ち止まった。田中がスープを煮込んでくれており、朝食と一緒にすぐに食べるよう勧めてくれた。素直に栄養たっぷりのスープを口に運びながら、昨日のことを思い出す。そして窓辺に立つ裕也の背中を見つめると、九死に一生を得たような安堵感が込み上げてきた。「裕也様ったら、奥様のお体が弱っているのを心配されて、朝一番に起きて滋養のあるスープを作るよう言いつかったんですよ。本当に、裕也様は奥様に甘いんですから」田中は冗談めかして笑う。「何十年も生きている私でさえ羨ましくなりますよ。こんなに素敵な旦那様、どこを探したって見つかりませんね」絵里は心から同意した。裕也は本当に素晴らしい人だ。責任感が強いだけでなく、優しい。特に彼女への接し方に関しては、非の打ち所がない。そう思いながら、彼女は窓辺に立つすらりとした姿を見上げた。黒のスラックスに白のワイシャツ。その着こなしはラフでありながら洗練されている。全身から漂う気品と余裕。電話の相手と話すその表情は、一転して冷
よかった。彼がいてくれて、本当によかった。「今回はよくやった」裕也は彼女の涙を拭うと、その瞳を暗く沈ませてじっと見つめた。「これからは不安なことがあったら俺に聞け。相談してくれればいい」絵里は彼からの気遣いを感じ取った。それはかつては知らなかったものであり、しかし最近ではよく目にするようになった優しさだ。胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。とりわけ、誰とも比べようがないほど整った裕也の顔を間近で見ると、心臓が早鐘を打った。今回の鼓動は、これまでのどんな時よりも激しい。まるで、ときめいているかのように。だが、これが恋というものなのか、絵里には確信が持てなかった。彼女がどこか寂しげな表情をしているのを見て、裕也はまだ午後の出来事を怖がっているのだと勘違いしたようだ。これ以上追い詰めるのは忍びないと思ったのだろう。「腹、減ったか?何が食べたい?作ってやるよ」「なんでもいいわ」「わかった。顔を洗っておいで。すぐに出来るから」裕也は彼女の肩を軽く叩き、頷くのを確認してから寝室を出て行った。三十分後、身支度を整えた絵里は階下へ降りた。ダイニングテーブルには牛肉ラーメンが置かれていた。卵が落とされ、彩りにネギが散らしてある。見た目も香りも食欲をそそる完璧な出来栄えだ。絵里は目を丸くした。「あなたが作ったの?」裕也は「ああ」と頷き、穏やかな声で答える。「海外にいた頃、よく自炊してたんだ」スープの香ばしい匂いに刺激され、空っぽの胃袋が小さく音を立てる。絵里はたまらず、箸をつけて一口啜った。「おいしい」絵里は驚きとともに顔を上げ、心からの称賛を口にした。その瞬間、和也がもたらした恐怖の影が、一気に薄らいだ気がした。「気に入ったならよかった。たくさん食べて力をつけろ。これからやるべきこともあるしな」裕也は口元を綻ばせ、目元に温かい笑みを浮かべた。白いシャツの袖を肘まで捲り上げ、下は黒のスラックスという姿。そのリラックスした佇まいからは、理想的な夫としての包容力が溢れ出ている。絵里の脳裏に、ふとそんな確信がよぎった。彼は本当に、夫に向いている。イケメンで金持ち、その上忍耐強くて責任感もある。感情的な基盤がないまま一緒になった私に対しても、これほど優しく、誠実に接してくれるのだから。絵里はふと疑った
これまでの人生で、裕也が後悔したことは二つしかない。一つは、五年前のこと。もう一つは、今だ。婚約破棄が成立するまで公表を待つという彼女の意思を尊重すべきではなかった。もし二人の結婚を公にしていれば、誰が口出しできただろうか。章はしばし呆気にとられた。「お前ら、結婚してたのか?」裕也は瞼を持ち上げ、淡々と言い放つ。「何かおかしいか?」おかしいに決まっている。絵里はつい最近まで、和也の恋人だったのだから!章の知る限り、裕也は常に分別を持って行動する男であり、決して無茶をするタイプではない。つまり、裕也は絵里に対して……なんとまあ、衝撃的な事実だ。章はどうやらとんでもないことに気づいてしまったらしい。なるほど、これは長年の計画的犯行というわけか。章は満足げに立ち去る際、絵里の精神的なケアに十分注意するよう裕也に言い残した。夜の十時近くになって、ようやく絵里が目を覚ました。彼女は上体を起こしたが、その表情はどこか惚けていた。視線が室内を彷徨い、やがて気絶する直前の記憶が、コマ送りのように脳裏に蘇る。「目が覚めたか」裕也が不意に入ってきて、穏やかな声で近づく。だが、彼の手が絵里の肩に触れた瞬間、彼女の神経が焼き切れたかのように、表情が一瞬で苦痛に歪んだ。「やめて、触らないで!あっち行って、私に触れないで……!」絵里は悲鳴を上げ、膝を抱えてベッドのヘッドボードの方へ縮こまった。顔を膝の間に深く埋め、その瞳は恐怖で濁っている。裕也は眉を固く寄せ、心臓を鋭い爪で引っ掻かれたような痛みを感じた。やはり、章の言った通りだ。絵里は強いショックを受けており、心の傷はそう簡単には癒えない。「絵里、俺だ。裕也だ」裕也は彼女の両肩を掴み、これ以上怖がらせないよう、低く優しい声で言い聞かせた。だが、彼女の耳には裕也の声など届いていないようだった。「あっち行って、触らないで」と、うわ言のように繰り返すばかりだ。絵里は嗚咽混じりに懇願し、その瞳からは糸を切った真珠のように涙がこぼれ落ちていく。恐怖に満ちたその泣き声を聞いていると、裕也の胸は巨石で押し潰されたかのように苦しく、鋭い痛みに息が詰まりそうだった。「絵里、もう大丈夫だ。俺だ、裕也だ。よく見てくれ、絵里……俺を見てくれ。裕也だ……」
和也はなりふり構わず、言い逃れようとした。「俺はあいつが好きなんだ。婚約破棄なんてしない。母さんだってダメだって言ってる!」「彼女が望むなら、破棄は成立する」裕也が纏う空気は氷のように冷たく、その鋭利な視線が和也を射抜く。「選択肢は二つだ。一つ、大人しく婚約を破棄する。二つ、俺に殴り殺される」言い終わるや否や、彼は突如として和也の指を一本掴み、力任せに逆方向へへし折った。ボキッ!「ぎゃああああ!」和也はまるで断末魔のような悲鳴を上げた。指が、折れたのだ。激痛に冷や汗を流しながら、和也はなぜこれほど酷いことをするのかと裕也を問い詰める。「俺を殺す気か!?実の弟だぞ!」裕也の漆黒の瞳は陰鬱に沈み、無駄話をする気配など微塵もない。「選べ!」濃厚な殺気を感じ取り、和也は戦慄した。裕也は前回よりもさらに怒っている。まるで絵里が彼にとってかけがえのない存在であり、自分などいつでも殺せると言わんばかりだ。「破棄する!婚約破棄するよ!」和也はもうどうでもよくなり、ただこの場から逃げ出したかった。指先から走る激痛が、彼を苛立たせる。「失せろ」裕也は彼を突き放すと、足早にベッドサイドへと歩み寄る。ベッドに横たわる絵里を見つめるその瞳は、深く、暗く澱んでいる。先ほどまでの暴虐な気配は、瞬く間に霧散していた。和也は助かったとばかりに、慌てて浴室へ服を着に向かった。ベッドの上の絵里は意識が朦朧とし、苦痛に喘いでいる。小さな顔をしかめ、眉を固く寄せたその様子は、見るからに辛そうだ。裕也は胸を締め付けられる思いで、慈しむように彼女を見つめた。よかった、無事だ。彼は手早く彼女の衣服を整え、横抱きにして部屋を出る。廊下に出た裕也は、冷たく強張った表情で命じた。「医者を呼べ」「はっ」健が短く応える。服を着て出てきた和也は、廊下に立ち尽くし、絵里を抱いて足早に去っていく裕也の背中を見つめながら、危険な光を宿して目を細めた。寧々の言った通りだ。あの二人、やはり何かある。……裕也の家にて。注射を打たれた絵里の容体は急速に安定し、深い眠りに落ちていた。「一体どこのどいつだ、こんなきつい薬を使うなんて。悪趣味にも程があるぞ」医師の松渕章(まつぶち あきら)は眉をひそめた
絵里はその言葉に胸をときめかせ、危うくまた余計なことを考えそうになった。考えてみれば、これこそが裕也のやり方なのだ。彼の手腕は常に鮮やかで冷徹であり、この世に彼が解決できないことなど存在しないかのようだった。かつての彼は無口で、そのくせ口を開けば、相手が一番言われたくないことを平然と言い放つ、冷酷な男だった。だが今回の再会で、彼は優しく、気遣いのできる、落ち着いた大人の男へと変貌を遂げている。あまりの変わりように、絵里は危うく彼の本来の姿を忘れてしまうところだった。「うん」絵里は思考を断ち切り、頷いた。「明日は俺も一緒に行く」裕也の声は低く温かみがあり、絶大な安心感を与
「絵里。何があっても、俺がついている」その言葉は、温もりと絶対的な安堵感で彼女の心を満たした。絵里は堪えきれず、大粒の涙をこぼした。彼女は迷うことなく手を伸ばし、彼に抱きつく。「ありがとう、裕也」彼女は裕也の背中にすがりつき、力を込めた。嗚咽は次第に大きくなり、肩を震わせて泣きじゃくる。まるで長年溜め込んできた辛さを、すべて吐き出そうとするかのように。裕也の漆黒の瞳がわずかに揺らぐ。その奥に痛ましいほどの色を浮かべ、彼は彼女をさらに強く抱き寄せた。それから数日が過ぎた。初稿の提出日、絵里は会社に呼び出された。監督からキャラクター設定について指摘が入ったのだ。
その表情はどこか心外そうで、同時に彼女を失うことをひどく恐れているようにも見えた。絵里は、熱で頭がどうにかなってしまったのではないかと不安になった。でなければ、これほど自意識過剰になるはずがない。彼女は誤解されたくなくて、慌てて口を開く。「裕也、何を言ってるの?そんなつもりじゃないわ」裕也は悪戯っぽく、あるいは探るように目を細めた。「なら、どういう意味だ?」「だって、私たちの結婚はあくまで協力関係に基づくものでしょう?その代々伝わる翡翠はとても貴重なものだから、私がなくしてしまうのが怖いの。当然、あなたが保管しておくべきよ」絵里は正直に告げ、さらに株式譲渡の書類を指
通話が切断された。一瞬。和也の胸に一抹の不安が広がり、先ほどの男の声に対する動揺と怒りが込み上げた。あの男は、絵里が新しく作った男なのか?だがすぐに、和也は鼻で笑い、軽蔑の念を露わにした。俺への当てつけに、こんな手まで使うとはな。相変わらずのわがままで、またあらゆる手段を使って寧々を追い出そうとしているんだ!……一方、別荘。「電話は切れたぞ」裕也は絵里に携帯を返し、漆黒の瞳で彼女の顔を探った。「勝手なことをして怒ったか?」絵里は首を横に振った。「ううん」裕也の眼差しの冷たさが和らぎ、口角が微かに上がった。「ああ、大人になったな」彼は手を上げ、彼女