FAZER LOGIN「条件付きで」
浅井さんの声が、頭に残る。
...なんだろう。
彼の姿はもう、部屋にない。
けれど、この条件を聞かずに今日も眠れない夜を過ごすわけには、いかなかった。
慌てて追いかけると、彼はまだ廊下にいた。
急いで追いかけて、話しかける。
「浅井さん!...条件って、何ですか」
彼は、ピタッと止まり。振り返って、足音が一歩、近づく。
「感情で動かないこと」
短く、諭すようにそういった。
「怒りとか、仕返しとか。そういうのは、ここではノイズになる」
「……」
「あと、勝手に動かない」
続けて言う。
「見つけたものも、仮説も、全部出す。抱え込まない」
命令に近い言い方だった。
私は一瞬だけ言葉に詰まる。
「それ、できないなら——」
彼の目は、冷たい。
できないなら、協力できない。
そうとでも言いたいような目をしていた。
だからこそ。
「やめますか」
先に言った。
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
浅井さんと、不意に目が合う。
少したじろぎそうになるが、冷静に目を合わせながら言う。
「最初から、そのつもりでやってます」
「証拠を集めて、事実で崩す」
「感情で動くつもりはありません」
私は、もう十分な理解の出来ない仕打ちを受けた。
こんな理不尽な目に遭って泣き寝入りするくらいなら。
何が起きているのか、知りたい。
その気持ちは変わらない。
数秒の沈黙。
それから、浅井さんは小さく頷いた。
「じゃあいい」
それだけ。
肯定とも、評価ともつかない。
「で」
私の持っているパソコンに視線を落とす。
「データは、どこまで見た?」
「改ざんの入り口までは」
「承認フローが途中で変わってます。ログも——」
「うん」
遮られる。
「合ってるよ」
あっさりと言い切る。
「……知ってるんですか」
「知ってるというか」
一瞬、間。
「俺が追ってるやつと同じライン」
——同じライン。
胸の奥が、わずかに動く。
「じゃあ、どうして——」
言いかけて、止まる。
“どうして私がいる部署までわざわざ来たのか?”
“どうして私が調べていることが分かったのか?”
疑問がいくつも浮かぶ。
でも。
「それ、伊藤には関係ない」
先に切られた。
私の名前を認識していることも、今この場で知る。
なぜ、彼は私を知っているのだろう。
視線はパソコンの方を向いたまま。
「俺は俺で....調べてることがあるだけ」
「伊藤さんの部署が持っている情報に不審な動きがあって。」
「偶然調べていたタイミングが、重なったから声かけただけ」
突き放すような言い方。
「……そうですか」
それ以上、踏み込まない。
踏み込めば、拒まれるのが分かる。
それに。
今は、優先順位が違う。
——理由は、後でいい。
私は意識的に思考を切る。
浅井さんが続ける。
「もう、この部署にいる時間って。ほとんどないよね」
「あひるの、いつから?」
「来週です」
「じゃあ、今やること1個」
指を軽く動かす。
「高山に会って」
——樹。
一瞬だけ、呼吸が止まる。
「……会って、何を」
「聞いてきて」
即答。
「今回の異動の“理由”」
「表の説明じゃなくて、本音のほう」
視線が、初めて私に向く。
「どうして伊藤さんを切ったのか」
「誰の判断で、どこまで決まってたのか」
言葉が、静かに刺さる。
「直接、言わせて」
「データの履歴を探るより、速いから」
——速い。
確かに。
でも。
「……話してくれると思いますか」
口にすると、浅井さんは少しだけ眉を動かした。
「話すよ」
「完全には嘘つけない状態だから」
「……どういう意味ですか」
「高山は、追い込まれてるってこと」
短い説明。
「綺麗に切ったつもりでも、歪みは残る」
「その歪み、本人が一番分かってる」
だから。
「聞き方次第で、漏れる」
淡々とした分析。
感情は一切ない。
「……」
樹の顔が浮かぶ。
あの場での、あの言葉。
——個人的な関係はありません。
でも。
本当に、全部切れているなら。
あんな言い方はしない。
「分かりました」
答える。
浅井さんは小さく頷く。
「明日、時間取れる?」
取ってこい、と言わんばかりの言い方。
「……取ります」
「じゃあ行って」
それだけ。
「結果だけ教えて」
「ログはそのあとでいい」
——即実行。
無駄がない。
「はい」
短く返す。
浅井さんはそれ以上何も言わず、背を向けた。
数歩、歩いてから。
「あと」
止まる。
「録音、できるならして」
振り返らないまま言う。
「使える可能性あるから」
——そこまで。
「分かりました」
今度は、迷いなく答えた。
浅井さんは軽く手を上げて、そのままフロアを出ていく。
静寂が戻る。
私は元の席にある、椅子に座った。
パソコンの画面は閉じたまま。
代わりに、スマホを取り出す。
樹の名前。
連絡先は、まだ消していない。
指が、一瞬だけ止まる。
——どうして、あの人は私を切ったのか。
——どこまでが計画的な、裏切りだったのか。
考えれば、いくらでも疑問は出てくる。
それでも。
今は、考えない。
必要なのは、答えだ。
——なぜ、私は恋人にも親友にも、裏切られなければいけなかったのか。
あまりにも突然のことで、どこか自分以外に理由があると思わずにはいられなかった。
そうでないと、心が死んでしまうから。
私は...樹に会わなければならない。 彼に会って、少しでも納得できる答えを探すしかない。
翌日、会社にて。朝から空気が少し重い。樹の滞在、五日目。「伊藤」浅井さんの声。「はい」「午前中、役所の追加資料を見る」「分かりました」いつも通り。そのとき。ドアが開く。「おはようございます」樹。仕事の顔。一瞬だけ目が合う。でも。すぐ逸らされる。会議室。三人。資料を広げる。「昨日、親会社関連のルートを確認しました」樹が口を開く。「直接の指示書はありません」「ただし、請求タイミングの調整に関与した可能性のある担当がいます」「……どこですか」浅井さん。「TK Networkです」「……」その名前。耳に残る。聞き覚えはないはずなのに。妙に引っかかる。「……」資料に目を落とす。ロゴ。会社名。(なんか、嫌な感じがする)理由は分からない。でも。直感的に。良くない方向に繋がっている。「名前は?」浅井さん。「まだ確証がない」樹が答える。「だから出せません」「確証がないのに、関与可能性は出すんだ」浅井さん。静かに詰める。「必要な共有です」樹も引かない。「本社としては押さえておく必要があります」「……」会話としては正しい。でも。まただ。「……」私は資料を見る。承認日。請求日。業者。「ここ」指を置く。「この日だけ、承認前に業者側の準備が終わってます」「通常は逆です」浅井さんが頷く。「つまり」続ける。「事前に承認予定を知っていた人がいる」「……」樹の手が、ほんの少しだけ止まる。ほんの一瞬。「……そうですね」すぐに戻る。「その可能性はあります」可能性。また、濁す。「……」(やっぱり)隠してる。「……」頭の中で整理する。TK Network。親会社。請求のタイミング。承認前の動き。(あとで調べないと)(すぐに)確信に近づく。「……」会議が終わる。昼。休憩室。コーヒーを買う。「伊藤さん」山川さん。「はい」少し迷ったように。「……なんか」言葉を選ぶ。「距離、近いですよね」「……え?」「高山さんと」さらっと。でも。ちゃんと見ている言い方。「……」何も言えない。「あと」山川さんが続ける。「浅井さんも来てからずっと」少しだけ笑う。「伊藤さんに同行っていうか」「近いですよね」「……
そのまま、時は過ぎて。夜になり、会議室。紙の資料を閉じる音。「……今日はここまででいい」浅井さん。いつも通りのトーン。「……はい」そのまま頷いて、席を立つ。でも、足が止まる。「……あの」振り返る。浅井さんはまだ席にいる。言葉を探す。「浅井さんが言ってた」「頼れるときに頼れって」「……」「どういう意味ですか」静かに聞く。「……」少しだけ沈黙。視線は資料のまま。「……別に」短く返る。「一般論」「……」違う。分かる。「……」何も言わない。でも、引けない。「……」続ける言葉がすぐには思いつかない。それでも、私が何か言いたげなことは察したのか。浅井さんがゆっくり立ち上がる。「帰る?」「……はい」外。夜の空気。「……送る」自然に言う。「……」断らない。もう、断らなくなったのだ。正確には。なぜなら、断っても。いつも、浅井さんの車に乗ることになるから。最初は抵抗していたが。今は、諦めてそのまま乗るようになった。いつからだろう。この距離に、慣れてきたのは。車の中は、静か。「……」しばらく無言が続く。でも。その沈黙が嫌じゃない。「……」ふと。浅井さんが口を開く。「昔さ」「……」珍しい。自分から。「同じこと言ったことある」前を見たまま。「……」「ちゃんと頼れって」「……」「全部一人で抱えるなって」「……」少しだけ、間。「……」「でも」言葉が止まる。「……」「聞かなかった」短く。それだけ。「……」飲み込む。でも。聞かずにいられない。「……その」「言ったお相手は」「どうなったんですか」静かに。「……」一瞬。空気が止まる。それから。「……いなくなった」それだけ。淡々と。「……」何も言えない。その人のことが気になる。なぜなら、浅井さんが。少し寂しげな目をするのは。初めてだったから。でも、何も言わないのも違う気がして。「……それでも」小さく言葉が出る。自分でも驚くくらい自然に。「言うんですね」「……」浅井さんが少しだけこちらを見る。「……」「同じこと」続ける。「もう一回」「……」「違う人である、私に」「……」視線が合う。一瞬。何かが揺れる。でも。すぐに消える。「……」
樹里が来てから、四日目。現場を浅井さんと2人で見にきた。「……あの」業者の男性が、少し距離を詰めてくる。周りを気にしている。「お伺い頂いた取引の件ですが」声を落とす。「……今回の請求タイミング」「少し、不自然だと感じてまして」「……どのあたりがですか」自然に返す。「……」言葉を選んでいる。「……通常より、承認が早すぎるんです」「それで」少しだけ、さらに声を落とす。「帳尻を合わせるように、請求のタイミングを調整しているように見えるというか」「……」完全に一致する。分析と。「それは、御社側の判断ですか?」踏み込む。「……いえ」即座に否定する。その速さ。「……」「……」一瞬、沈黙。それから。「……親会社の方から」小さく言う。「……」その言葉。空気が変わる。「……指示が?」「……」首を振る。「指示、というか」「……」「流れは決まってる、という感じで」曖昧に言う。「……」それ以上は言わない。言えない様子だった。そして、無言の圧を感じる。これ以上は答えられない。そう、言いたげな様子だ。「……」確信する。(関与してる)しかも。かなり上層部の人間が。この件には、関与している。「……」その日の夜。会議室。二人。資料を広げる。「今日の現場の件です」口を開く。「取引の請求タイミング、やっぱり調整されてます」「……」浅井さんは黙って聞く。「通常より承認が早くて」「その後に帳尻を合わせてる」「……」「あと」少し間。「親会社の方から、流れが決まってるって」「……」浅井さんの視線が一瞬だけ上がる。「……」「直接の指示ではないですけど」「関与してる可能性、高いです」「……」沈黙。それから。「樹も」言葉を続ける。「全部言ってないと思います」はっきり言う。「……」「今日の説明は」「綺麗すぎました」「……」「抜いてる部分がある」「わざと説明してないようにしか、見えません」「……」そのとき。「知ってる」浅井さん。即答。「……」一瞬、止まる。「……知ってるんですか」「うん」淡々と。「でも今は泳がせる」「……」「出し切らせた方が早い」「……」一言も迷わず。完全に、そう言い切る。「……」「親会社が絡んでる
樹があひるのに来て、3日目。会議室。最初の分析に着手してからも、まだ一ヶ月も経っていない。それなのに。分析は、着実に進んでいた。「今日、高山さんが外部の人といらっしゃるんですよね?」山川さんが小声で言う。「役所の担当が来るって」田中さんが答える。「……」ドアが開く。「失礼します」入ってきたのは樹。その後ろに役所の担当者。「では、始めましょうか」もう慣れたかのように、いつもの会議室に入ると。樹が進行を取る。迷いがない。スクリーンに資料が映る。「今回の資金の流れですが」樹がポインターを動かす。「一度、外部業者に流れたあと、このルートで戻っています」矢印が繋がる。「この分析は――」一瞬だけ間を置く。「伊藤が作成しています」「……」視線が集まる。「現場ヒアリングと数値の突合で、この構造を特定しています」樹が淡々と説明する。「こちらが役所側の承認履歴です」次のスライド。「通常と異なり、同一担当で短期間に複数承認が通っている」役所の担当の顔色が変わる。「さらに」「業者側の請求タイミングと一致している」「したがって」一瞬、息をつくと。「この構造は意図的に作られている可能性が高い」言い切る。「……」静寂。「ご意見ありますか」樹。場を、完全に支配している。「……この承認については内部確認が必要です」役所の担当。「当然です」樹が即答する。「こちらも証拠を詰めます」「一ヶ月以内に」はっきりと。会議が進む。視線が外せない。(迷いがない)仕事になると。そして、この人が言うことには説得力がある。...いつも、そう言うところを尊敬していた。ふと、思い出す。そして、いくつか違う議題を話した上で、会議が終わった。人が散って、役所の人も帰路に着く。「愛海」呼ばれる。樹。「少し、いい?」「……仕事の話なら」「仕事だよ」今回は、迷わずに。はっきりと、廊下で伝えられる。「さっきの分析」「良かった」「……ありがとうございます」「構造の見せ方がいい。わかりやすくて助かった」具体的。ちゃんと見ている。「やっぱり」「お前とやると、話が早い」その言い方。昔と同じ。「……今は違います」はっきり言う。「立場も、関係も」「……」樹が少し笑う。柔らかく。「そ
夕方になり。「...愛海、今少し時間取れる?」会議が終わったタイミングで。周りが少しずつ帰宅の準備をしたり。資料の整理をしたりしている中。私の席に来た樹。「....今資料作っているので」「さっきの会議関連の?」「そう」「前の関連プロジェクトのやつ」「あれ俺が作ったから、手伝うよ」私の言い訳を奪うかのように、手伝うと提案してくる。...地味に、役に立つものだから断りにくい。そのまま私が断る間もなく黙っていると、パソコンから資料が送付されてきて。「ベースがあれば、10分くらいは省けるだろうし」「...駐車場裏で、少しでいいから」そう言って、机に手を置いて距離を詰めてくる。これは...言い訳をしても追ってくる。だから早めに、片付けなければならない。「...わかった」仕方なく、席を立って樹についていくことに。支社の裏。人気のない駐車場。「……コーヒーでいい?」「何も要らない」時間を少しでも縮めたくて。「要件は、何なの」一歩、引いて。距離を取りながら、目線を合わせる。「……仕事の話もあるんだけど」低い声。「仕事の話じゃないわけ?」「違う」即答。「……」分かってる。「……頼むから」「少しだけ、聞いてよ」短く、ただ切に伝えてくる。その言い方。昔と同じ。「……短くして」「……うん」一歩、近づく。距離が少し詰まる。「……」「……みゆとは」その名前。胸が揺れる。「ちゃんと付き合ってる」言い切る。でも。「でも」続ける。「そう言うしかなかった」「……」「会社とか、俺の家の事情とか」「色々あって」「結婚も、避けられない」「……」息が止まる。「でも」顔を上げる。まっすぐ。「好きなのは、愛海だけだ」「……」思考が止まる。「……は?」やっと出る。「どういうこと?」「……ずっと」「お前だけだった」「……」「じゃあ、みゆは?」「……」答えない。「……分かってるだろ」「……分かんないよ」強く言う。「意味分かんない」「婚約してて」「結婚もするって言ってて」「それで好きなのは私って」「何それ」「ふざけてるでしょ」「……」怒りが、収まらない。私は異動までさせられて。...それも、樹の希望からで。自分勝手すぎる。...人の人生、なん
数日後。現場で業者に詳細を聞くための準備をしていた間。樹に話しかけられることが、増えた。仕事目的であるのは明確ではあるが、明らかに。まるで、全てが起きる前の距離に。何事もなかったかのように戻ったかのように。私と樹は、かつてと同じように作業を一緒にしていた。「ここのデータ、もう見た?」樹が声をかける。自然に、昔みたいに。「……はい」分析した資料を渡して、確認を促す。距離が近い。それでも、前とは違う距離。「わかりやすく分析できてる」さらっと言う。「こういう視点が自然に出せるところ」「変わってないね、愛海は」そのまま。少しだけ、口元が緩む。柔らかい笑い方で。作らない、優しい笑顔。昔、何度も見た表情。「……」胸が、きゅっとする。(こういうところ)好きだった。一瞬で、思い出す。何気ない仕草。何気ない声のトーン。「……」仕事中なのに、苦しい。今さら。こんなところで。なんで、こんな想いをしなければいけないのか。「データから導いた、ロジックと論理」樹が続けて。「相変わらず、わかりやすい」「愛海がいなくなって」「希少なスキルだったんだなって実感する」「……」分かってる。褒めている。でも。それだけじゃない。距離が近い。「……近いので離れてください」やっと言う。少しだけ強く。「……」樹が少しだけ笑う。「そんな近く感じるような距離だった?」「……」言葉が詰まる。「仕事として普通の距離だよ」淡々と。「評価とフィードバック出して」「直接伝えただけなんだけどな」「……」正しい。正しいから、余計に逃げ場がない。「意識してる?」畳み掛けるように、聞いてくる。「俺としては」「その方が、嬉しいけど」「……」なんと返すべきか、迷ってしまう。そのときだった。「伊藤」浅井さん。今日は外出があったはず。オフィスに戻り次第、私を呼ぶ。早い。少しだけ。不自然なくらい。そのまま、会議室の扉が開く。...ノックもせずに。一瞬樹の方を見て。すぐに、私を視線で捉える。「これ」資料が、そのまま渡される。自然に部屋に入って、扉を閉じて。私の隣で、樹との間の椅子に座る。樹との距離が、切れる。「……」助かった。そう思う。「ここの部分、どう思う」浅井さん。







