Masuk「それ、やっと気づいたんだ」
低い声だった。
背後から、唐突に落ちてきた。
フロアの照明は、半分以上が落ちていた。
就業時間は、とっくに過ぎている。
だからこそ、この時間に誰かに話しかけられるとは思ってもみなかった。
心臓が一瞬だけ強く鳴る。
振り返った先にいる男は、自分より少し年齢が少し上に見える。
綺麗な人、と言うのが印象だった。
背が高い。
無駄のない体つき。
整いすぎているくらい整った顔立ちなのに、
表情はどこか無愛想で、温度が低い。——こういう人が、普通の部署にいるはずがない。
本社にいたら、記憶に残るような人。
樹とはタイプが違うが、それくらい目立つ印象のある人だ。
社員証が、胸元で揺れる。
浅井拓真。
——あひるの支社。
その文字が、一瞬で目に入った。
「……誰ですか」
自然と、警戒した声になる。
男——浅井は、少しだけ視線を落とした。
私の画面を見る。
そして、興味なさそうに言った。
「データ、合わないんじゃないかな。今、君が見てる部分」
質問には答えない。
でも。
外していない。
「……見てたんですか」
「さっきからね。結構前から、ずっと」
あっさり言う。
悪びれもしない。
「わざわざ見える位置でやってるから」
——最悪だ。
そう思うのに、なぜか動揺は少ない。
この人は...騒がない。
告げ口もしない。
そんな空気がある。
「……それで」
視線を外さずに聞く。
「何か知ってるんですか」
浅井さん...彼の名前を心の中で呟く。 彼は、少しだけ考えるように間を置いた。
それから、短く答える。
「まあ...多少は」
曖昧な言い方。
でも。
確信がある声だった。
「その部分」
画面を軽く顎で示す。
「初めて見た?」
「……はい」
「じゃあ、そこが入口だね」
淡々と言う。
まるで、すでに全体像を知っているみたいに。
「……あなたは」
言葉を選ぶ。
「どういう立場なんですか」
一瞬だけ、沈黙。
浅井さんは、私を見た。
測るような目。
それから。
「ただ、出張できてるだけ」
短く言う。
「あひるの支社から」
やっぱり。
「向こうで、今は代表やってる」
さらりと続ける。
——代表。
思わず言葉を失う。
あの“あひるの支社”で。
それを見て、浅井さんは少しだけ眉を動かした。
「意外?」
そのとき、改めて顔を見た。
都会の街中にいても目立つ。整いすぎているくらい整った顔立ち。
無駄のない高い背と相まって、どこにいても目を引くタイプだ。なのに、表情は驚くほど淡々としていて、
人に見られることに慣れているような、温度の低さがある。「……いえ」
本当は、かなり意外だった。
でも。
それ以上に、今は——
気になることがある。
「どうして、ここにいるんですか。」
関係ない、部署のはずなのに。
聞いても浅井さんは、間髪入れずに
「仕事」
短く、ただそれだけを言う。
余計な説明はしない。
でも、今はそれで十分だった。
浅井さんは、もう一度画面を見る。
そして。
「それ調べてさ。どこまでやるつもり?」
唐突に聞いた。
試すような声。
私は、少しだけ間を置いた。
でも。
答えは、決まっている。
「全部、知りたいんです」
視線を逸らさずに言う。
「何が起きてるのか、全部知りたい。」
浅井さんは、一瞬だけ目を細めた。
それから。
小さく、息を吐く。
「……そっか。」
感情は薄い。
でも、否定ではない。
「ただ」
一歩、距離が縮まる。
「それ、1人でやるには無理だよ」
分かっている。...だから。 自分だけで、どうこうしようと思わない。
浅井さんは、偶然にもあひるの支社の代表だ。
私の行く、新しい部署にいる人が、偶然にも話しかけてくれている。
この機会を利用しないわけには、いかない。
今あったばかりの人にお願いするなんて、少し気が引けるけれども。
私は、恋人も親友も、この部署での仕事も無くして。
この奇跡みたいな状況を、利用しないわけにはいかない。
「……協力してもらえますか」
そう言うと、浅井さんは少しだけ考えた。
数秒。
沈黙。
それから。
「まあ...条件付きなら」
短く、意外な答えが返ってくる。
まさか、そんな簡単に協力してもらえると思わなかった。
だからこそ、気になる。
「条件?」
聞き返すと、浅井さんは少しだけ口元を動かした。
笑っているのかどうか分からない、曖昧な表情。
「それは、次話すことにするからさ。」
そう言って、背を向ける。
「今日はここまでにしな」
歩きながら言う。
「ログ、残るから」
——あ。
一瞬で現実に引き戻される。
私は慌てて画面を閉じた。
顔を上げると。
もう、浅井さんの姿はなかった。
静かなフロア。
でも。
さっきまでとは、違う。
確実に。
何かが、動き出している。
——共犯者。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
鍵を渡された日から、自然に。私と拓真は出発の準備をした。 早朝の羽田空港。まだ夜の名残を少しだけ残していた。高い天井。静かに響くアナウンス。行き交う人々の足音。大きなスーツケースを引く音が床を滑っていく。窓の外には何機もの飛行機が並び、その向こうの空はゆっくりと朝の色へ変わり始めていた。私は搭乗ゲート近くの椅子に座り、小さく息を吐く。手の中には搭乗券。足元にはスーツケース。そして隣には拓真がいる。それだけのことなのに、不思議な気持ちだった。少し前までの私は、こんな場所に座っている未来を想像できなかったから。婚約がなくなった日。すべてが終わったと思った。信じていたものが壊れて。積み上げてきた時間が消えて。頑張ってきた意味さえ分からなくなった。会社へ向かうだけで苦しかった朝もあった。未来を考えることが怖かった夜もあった。もう誰も好きになれないかもしれないと思ったこともある。あの頃の私は、自分がどこへ向かうのか分からなかった。だから今ここにいることが、少し不思議だった。「何考えてる」隣から低い声が落ちてくる。私は顔を上げた。拓真はペットボトルの水を片手に持ちながらこちらを見ていた。ラフなニットにジャケット。少し眠そうな顔。それなのに目元だけは柔らかい。会社では絶対に見せない表情だった。私は小さく笑う。「……不思議だなって思って」「何が」「こんな未来あると思ってなかったので」拓真は少しだけ黙った。それから窓の外へ視線を向ける。朝日に照らされた滑走路。ゆっくり動き始める飛行機。その景色を見ながら小さく笑った。「俺も」短い返事だった。でもそれが本音だと分かる。私たちはしばらく黙ったまま窓の外を見つめる。心地いい沈黙だった。何かを埋めるための会話はいらない。ただ隣にいるだけで安心できる。そんな関係になったことが、今でも少し信じられない。私はそっと肩を寄せた。すると拓真が何も言わず肩を抱く。自然だった。当たり前みたいに。気づけばその温度が私の帰る場所になっていた。アナウンスが流れる。ロサンゼルス行き搭乗開始の案内。周囲の人たちが立ち上がり始める。私は前を見た。これから両親に会う。拓真を紹介する。未来の話をする。少し緊張する。少し怖い。でも逃げたいとは思
夜のリビングには、食後の穏やかな空気が流れていた。ダイニングテーブルの上には、食べ終わったテイクアウトの容器がいくつか並んでいる。飲みかけのワイングラス。半分だけ残ったサラダ。シンクでは食洗機の低い音が響いていた。仕事帰りに一緒に食事をして、ソファで少し話をする。そんな時間が最近の当たり前になっている。少し前の私なら信じられなかった。誰かと過ごす日常が、こんなにも心地いいなんて。私はソファに座りながらスマホを眺めた。通知欄には母からのメッセージ。未読が三件並んでいる。思わず小さく息を吐いた。その様子に気づいたのか、キッチンから拓真の声が飛んでくる。「何」コーヒーを淹れながら振り返る。私はスマホを持ち上げた。「母です」「ん?」「最近全然連絡返さないから、いつLA来るのって」その瞬間、拓真が少し笑った。「圧強いな」「母なんで」私もつられて笑う。昔から変わらない。気になったらすぐ連絡してくるし、返事がないと追撃もしてくる。けれどその笑いは途中で少しだけ止まった。LA。両親。拓真。頭の中でその言葉が自然につながる。以前なら考えられなかった。未来を想像すると、不安の方が先に来ていたから。でも今は違う。気づけば、その未来の中に拓真がいる。それが当たり前になり始めている。拓真は二人分のコーヒーを持って戻ってきた。隣に腰を下ろす。肩が軽く触れる。その距離が自然だった。「行く?」不意に落ちてきた声に私は顔を上げる。「……え?」「LA」低く穏やかな声。まるで来月どこかへ旅行に行くかを相談するみたいな口調だった。私は少しだけ目を瞬く。「……いいんですか」「何が」「その……」言葉を探す。少しだけ緊張した。「私の両親に会うの」部屋が静かになる。拓真はしばらく何も言わなかった。それからゆっくり目を細める。「愛海が嫌じゃないなら」低い声。真っ直ぐだった。「ちゃんと挨拶したい」胸の奥が熱くなる。重すぎない。でも軽くもない。その言葉にはちゃんと未来があった。私は少し笑う。「……じゃあ、そのうち行きましょうか」拓真も笑った。安心したように。嬉しそうに。「うん」短い返事だった。でも、その一文字だけで十分だった。しばらく沈黙が落ちる。居心地の悪い沈黙じゃない。
夜のリビングは静かだった。テレビはついている。バラエティ番組らしい笑い声も流れている。けれど、二人ともほとんど見ていなかった。私は拓真の腕の中にいた。背中に回された腕。肩越しに伝わる体温。時折髪を撫でる指先。それだけで、不思議なくらい落ち着く。少し前までなら考えられなかった。誰かの腕の中で、こんなふうに安心する日が来るなんて。「今、めちゃくちゃ帰したくなくなった」耳元に落ちた声を思い出す。その言葉の余韻がまだ胸の奥に残っていた。私は小さく息を吐いた。すると頭の上から低い声が降ってくる。「愛海」「はい」拓真が少しだけ髪に顔を埋める。「今日、自分から帰りたくないって言った」どこか嬉しそうな声だった。私は思わず顔を熱くする。「……言いました」「うん」短い返事。でも、その一言だけで機嫌がいいのが分かる。少し前までの拓真なら、こんなことは隠していただろう。会社で見る彼はいつだって余裕があった。感情を見せない人だった。でも今は違う。私の前では驚くほど分かりやすい。「かなりやばい」「何がですか」そう聞くと、拓真が少し身体を離した。視線がぶつかる。近い。照明に照らされた瞳が柔らかく揺れている。「嬉しすぎる」真っ直ぐだった。飾りも冗談もない。ただの本音。その言葉に胸がぎゅっとなる。拓真は私の頬に手を添えた。親指がゆっくり肌を撫でる。優しいのに、妙に熱を持っている。私は無意識にその手へ頬を寄せた。すると拓真がふっと目を閉じる。まるで何かを耐えるみたいに。「……愛海」「え?」「最近、無自覚に煽るのやめて」思わず笑ってしまう。「煽ってません」「煽ってる」即答だった。その声が少し低い。私はまた笑う。すると拓真が腕を引き、私を引き寄せた。距離が縮まる。逃げられないほどじゃない。でも十分近い。「拓真」「ん?」「近いです」「知ってる」全然悪びれない。むしろ少し楽しそうだった。額にキスが落ちる。頬にも。鼻先にも。どれも優しくて、焦らすみたいにゆっくりだった。私は思わず目を閉じる。拓真が小さく笑った気配がした。「俺、ちゃんと待つって決めてるのに」「……」「愛海が近づいてくるから普通にしんどい」その声には困ったような響きが混じっていた。でも嫌そうじゃ
夜のリビングには、テレビの音が小さく流れていた。何の番組だったかは覚えていない。画面の中では誰かが話していて、時々笑い声も聞こえる。けれど私の意識はほとんどそちらへ向いていなかった。ソファの上で拓真の肩に身体を預ける。背中に回された腕。一定のリズムで髪を撫でる指先。その体温が心地よくて、気づけば肩の力が抜けていた。静かな時間だった。特別なことは何もしていない。出掛けるわけでもない。どこかへ行くわけでもない。ただ同じ部屋で過ごしているだけ。それなのに、不思議なくらい満たされていた。私はぼんやりと目を閉じる。すると頭の上から声が落ちてくる。「眠い?」低く穏やかな声。私は少し笑った。「……少しだけ」「寝る?」その言い方があまりにも自然で、思わず肩が揺れる。「拓真、最近甘やかしすぎです」すると隣から小さな笑い声が聞こえた。「今さら?」私は思わず顔を上げる。拓真はどこか楽しそうだった。「愛海、甘やかすとすぐ顔緩むから」「……」図星だった。悔しいけれど否定できない。拓真はそんな私を見て少しだけ目を細める。それから自然な仕草で頬にキスを落とした。触れるだけの軽いキス。けれどその優しさに胸が熱くなる。「……拓真」「ん?」「最近、幸せそうですよね」自分でも不思議な質問だった。でも聞いてみたくなった。すると拓真は少しだけ笑った。「幸せだから」迷いのない返事だった。当たり前のことを答えるみたいに。その声に嘘はなかった。私は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。拓真は少し視線を落とした。「こういうの好きなんだよな」「……こういうの?」「普通の恋人みたいなやつ」少し照れたように笑う。「家具見たり」「送り迎えしたり」「くだらないことで嫉妬されたり」最後だけ少し意地悪そうだった。私は思わず睨む。でも拓真は全然気にしていない。むしろ楽しそうだった。「全部好き」静かな声だった。飾り気もない。でも本音だと分かる。私はその横顔を見つめる。樹との恋も幸せだった。大切にされていた。愛されていたと思う。けれど今振り返ると、私はどこか受け身だった。相手が決める未来に乗っていた。相手の手を取って進んでいた。自分で選んでいるつもりでも、どこかで流されていた。でも今は違う。拓真
夜のリビングには、テレビの音だけが静かに流れていた。バラエティ番組だったと思う。誰かが何かを話していて、時々笑い声も聞こえる。でも、その内容はほとんど頭に入ってこなかった。私はソファの端に座り、拓真の肩へそっと身体を預ける。隣から伝わる体温が心地いい。すると拓真が自然に手を伸ばし、私の髪を指で梳いた。ゆっくりと。優しく。髪を撫でるその仕草に、以前のような焦りはない。付き合い始めた頃の拓真は、もっと真っ直ぐだった。好きだと言う。会いたいと言う。抱きしめたいと言う。その気持ちを隠そうとしなかった。でも今は少し違う。私が何を考えているか。どんな顔をしているか。ちゃんと見ながら触れる。待ちながら触れる。大切なものを扱うみたいに。その優しさが胸に沁みた。「……」気づけば私は拓真のシャツの袖を指先で触っていた。すると頭上から声が落ちる。「何考えてる」低くて穏やかな声。私は少し笑った。「別に」「嘘」即答だった。しかも少し笑っている。最近の拓真はこういうところがある。私の嘘を見抜くのが上手い。隠そうとしても、大体ばれてしまう。私は小さく息を吐いた。それから視線を落としたまま口を開く。「……拓真って」「ん?」「最初から距離近かったですよね」拓真が少しだけ笑う気配がした。「まあ」短い返事。そして迷いなく続ける。「好きだったから」心臓が跳ねる。相変わらずだ。こんなことを照れもせずに言う。私は思わず視線を逸らした。樹もそうだった。最初から真っ直ぐだった。積極的だった。気づけば付き合っていた。婚約もそうだった。私は流れに乗っていた部分が大きかった。好きだった。もちろん本当に好きだった。でも今振り返ると、どこか受け身だった気がする。相手に選ばれて。相手に手を引かれて。気づけば未来へ進んでいた。恋愛とはそういうものだと思っていた。でも。今は違う。私はそっと拓真のシャツを掴む。拓真の身体が少しだけ動いた。視線がこちらへ向く。「愛海?」私は少しだけ唇を噛んだ。恥ずかしい。でも、言いたかった。「私」声が少し震える。「今まで、自分から恋愛したことなかったかもしれないです」部屋が静かになる。テレビの音だけが遠くなる。拓真は何も言わない。急かさない。た
金曜日の夜の空気は少し冷たかった。ショールームを出ると、昼間の賑わいが嘘みたいに落ち着いていて。駐車場へ続く通路には柔らかな照明だけが並んでいる。隣を歩く拓真は、さっき圭吾に散々からかわれたことなんて気にしていないみたいだった。車のキーを指先で回しながら歩いている。その横顔を見ていると、また胸の奥がざわついた。「……」拓真がちらりとこちらを見る。「何」「別に」即答する。すると拓真が少し笑った。「嘘」その言い方に少しむっとする。だって仕方ない。さっきから頭の中が落ち着かないのだ。大学時代。海外時代。来る者拒まず。モデルが寄ってきていた。圭吾が笑いながら話していた言葉が、何度も頭の中を巡る。知らない拓真。私が会うずっと前の時間。当たり前なのに。なぜか少しだけ胸が痛かった。車に乗り込む。ドアが閉まる音。エンジンがかかる音。静かな車内に、夜の街の光が流れていく。しばらく黙っていたけれど、結局我慢できなかった。「……昔」窓の外を見たまま呟く。「かなり遊んでたんですか」数秒の沈黙。そのあと、隣で小さな笑い声がした。「何その聞き方」「だって」私は視線を戻さない。「森さん、普通に言ってましたし」拓真はハンドルを握ったまま苦笑した。「圭吾の話、八割盛られてるぞ」「じゃあ二割は本当なんですね」「そこ食いつく?」少し笑っている。その余裕が悔しい。すると拓真は観念したみたいに息を吐いた。「まあ、モテたのは事実」胸がちくりと痛む。「二十代は普通に遊んでたし」否定しない。変に誤魔化さない。だから余計に想像してしまう。海外の街。華やかなパーティー。綺麗な人たち。今の拓真からは想像できない世界。「……」窓ガラスに映る自分の顔が少し不機嫌そうで、嫌になる。すると信号で車が止まった。静かな車内。その瞬間、拓真が片手を伸ばしてきた。私の手を掴む。大きくて温かい手。そのまま親指が指先をゆっくり撫でた。まるで機嫌を取るみたいに。「……」心臓が跳ねる。「そんなに気になる?」低い声。からかうようでいて、ちゃんと私を見ている。私は少しだけ唇を尖らせた。「だって」言葉を探しながら続ける。「拓真って、絶対モテるじゃないですか」その瞬間。拓真が吹き出した。本当に可笑し
現場に訪れてから、更に数日後。会議室で、資料を広げる。あまりにも、煩雑で。資料が多いから。一度、資料を印刷して整理することになった。「ここ」浅井さんが指す。「この数字」「……」助成金の配分。支出と報告。一見、整っている。「……合ってますよね」思わず言う。「もう一回見て」低く返る。視線が逃げられない。何かを見落としたのか。そんなはずはないと思いながら、見直す。「……」違和感。小さい。でも、引っかかる。「支出のタイミング」口に出す。「申請より早いですよね」「……」浅井さんが頷く。「普通じゃない」さらに見る。「この業者」指す。「全部同じ日
次の日の夜。あひるの市に戻った。浅井さんは、本社で急な調整案件が出たとのことで。明日の午前中に帰ってくるとのこと。...あえて、社内チャットで送られてきた。わざわざ連絡くれるのが、あの人らしい。心配してくれているのだと思った。でも、この街に戻ること自体、だいぶ慣れてきた気がする。たった数週間だというのに、人は思ったよりも環境に適応できると学んだ。ガヤガヤとした人混みがなく、この街は静か。あるものと言えば、住宅街を除くと畑、川、そしてハイキングができるような山。地方復興支援の一環で、役所が力を入れているせいか。最近は移住者が増えているというのは、引っ越してから知った。東京
本社の外の近くに戻る、夕方。東京に、私の家はもうない。新しい家に引っ越すと同時に、一気に手放した前の家。そもそも、今年は結婚する予定だったから。更新のタイミングに、出ていく予定ではあった訳だし。家自体に、未練はない。ただ、出て行くタイミングが早まっただけ。ふと、そんなことを考えながらホテルに戻る道を歩く。人の流れが少しずつ落ち着いていく時間。ふらっと、どこにも寄らずに帰ろうと。歩き出した瞬間だった。「愛海」誰かと、聞かなくてもわかる。馴染みのありすぎる声。止まって、振り向く。一呼吸置いてから。樹。「……何?」距離を少しだけ取る。半歩、そのまま後ろに下がる。「み
水曜日は、久しぶりに東京に戻ってきた。朝早くに帰ってきて、久しぶりの空気を感じた。人の多さや、音の多さ。「ああ、戻ってきたんだな」そう思う。でも。懐かしさより先に、少しだけ違和感がある。前と同じ場所なのに。前と同じじゃない。本社のエントランスを抜ける。視線が集まる。「え、誰?」小さな声。「……伊藤さん?」「雰囲気変わってない?」前の部署を通るだけで、周りが少しざわつく。無視しながら、そのまま歩く。服は、前みたいに地味じゃない。もう、隠す必要がないと思ったから。髪も、いつもより整えている。それだけなのに。たったそれだけで、こんなに周りの反応が変わる。「…







