LOGIN私の名前は周防澪(すおう みお)。 台風で街中が冠水したあの日。 夫の周防拓海(すおう たくみ)は車を出し、被害の大きい地区へ幼馴染の白鳥結月(しらとり ゆづき)を迎えに行き、そのまま彼女を家に連れ帰った。 その一方で、妻である私には「水浸しの道を歩いて地下鉄で帰れ」とメッセージを送ってきたのだ。 地下鉄の駅で、ずぶ濡れになった私を見た同僚は複雑な表情を浮かべた。 「澪さん……旦那さん、本当にあなたのこと大切にしてるの?」 私はスカートの裾を絞りながら、無理に笑って見せた。 「彼女の家、土地が低くて浸水しやすいから。それにわざわざ遠回りして私を迎えに来るのも大変だし」 潤んだ瞳に小さな唇、結月は誰もが思わず手を差し伸べたくなるような、儚げな雰囲気を纏う女性だ。 かつて拓海と結婚した時、共通の友人たちに冷やかされたことがあった。 もし結月が海外へ行っていなかったら、拓海と結婚したのは間違いなく結月だっただろう、と。 それを聞いた拓海は、私への愛を示そうとでもしたのか、ひとつのルールを設けた。 それからの数年間、記念日の高価なジュエリーから、話題のお店の限定スイーツに至るまで彼は必ず、同じブランドの全く同じものを「2つ」用意するようになった。 彼に言わせればそれが「公平」ということらしい。 家族に対してすら、これほど徹底的に「公平」を貫ける人間が、他にいるだろうか。 私の弁解を聞き終えると、同僚は静かに私を見つめ返した。 「ねえ、澪さん。あなた、それが本当に『公平』だと思ってるの? 妻として自分だけに向けられるべき愛まで、わざわざ他人と半分こしなきゃいけないなんて…… そんなの『公平』でもなんでもない……あなたに対する侮辱じゃないの?」 私はその場に釘付けになった。 まるで、長い夢から突然目を覚まされたような気分だった。 その日の夕食の席で、結月の前に置かれた、彼が丁寧に剥いたカニの身を見つめる。 私は、自分の目の前にある「全く同じ」カニを残らずゴミ箱に捨てた。 そして、淡々と口を開いた。 「拓海。私が欲しいのは『公平』なんかじゃない。私だけの『特別』なの。 もしそれができないなら……半分こする愛なんて、もういらないわ」
View Moreその声はひどくしゃがれ、誰なのか聞き分けることすらできなかった。私は立ち止まり、目の前を遮るその男を見つめた。拓海だった。彼は薄っぺらい黒のスーツを着ていたが、すでに雨でずぶ濡れになっており、ガリガリに痩せ細った体に張り付いていた。その手には、すっかり枯れ果てたシャンパンローズの花束が握りしめられていた。目は深く落ちくぼみ、血走った両眼で狂ったように私を見つめていた。彼の視線が私の腰を抱く蒼汰の手に落ちた瞬間、彼は全身を硬直させ、次の瞬間、獣のように飛びかかって私の手を掴もうとした。「澪、一緒に家に帰ろう!俺が悪かった!俺は結月を刑務所に送ったんだ!あの時のお揃いの品物だって全部燃やした!」蒼汰の目がスッと冷たくなり、半歩前に出て私を自分の背後にしっかりと隠した。そして片手で拓海の腕を掴み、力強く突き飛ばした。ただでさえ衰弱しきっていた拓海は突き飛ばされた勢いで水たまりの中に尻餅をついた。かつて彼が何よりもこだわっていた高価なスーツが泥にまみれたが、彼は全く気にする様子もなく、ただ這い上がり、私の目の前でドサリと土下座した。「澪、頼む……もう一度だけ、俺にチャンスをくれ」拓海は雨の中で声を上げて泣き崩れ、石畳に思い切り額を打ち付けた。ゴツン、ゴツンと重い音が響いた。「俺は毎日、お前のことばかり考えている。失ったあの子のことだって……俺は会社の権利も全部お前に譲る。他には何もいらない、ただ家に帰ってきてほしいんだ!これからは、俺と君だけの家だ。俺の愛も全部お前に捧げる。もう誰とも分け合ったりしないから。だから、頼む……」傘の下に立つ私の体は少しも濡れることなく、さらりとあたたかかった。地面で泥まみれになっている拓海を見下ろしながら、私は静かにしゃがみ込み、1歩の距離を保ったまま彼を見つめた。「拓海。あの台風の夜、あなたが私に押し付けてきた、あのコーヒーのことを覚えてる?」拓海はハッとし、呆然と私を見つめ、必死に首を縦に振った。「覚えてる!覚えてるよ!これから毎日、コーヒーを作って……」「あのコーヒー、私は一口も飲まなかったわ」私は彼の目を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。「だって、吐き気がしたから。あなたは、結月を泥沼に引きずり下ろしたことで、私を特別
大使館でのパーティーが終わった翌日。国内のゴシップニュースが、大学の同窓生のグループLINEを通じて私のスマホに届いた。結月は完全に破滅したそうだ。拓海はギャラリーへの出資を引き上げただけではなく、彼女が過去に行った書類の偽造、学歴の詐称、さらには横領の証拠まですべてを警察に突き出したらしい。3000万円の借金と莫大な違約金を背負わされ、結月はブランドバッグやジュエリーをすべて売り払う羽目になった。借金取りから逃れるため、彼女は今、老朽化したアパートのじめじめとした地下室に身を潜めているらしい。昨日、再び台風が直撃し、その地下室はまたしても下水が逆流した。結月は泣き叫びながら拓海の会社に駆け込み、ロビーで土下座して助けを求めたらしい。「あんな張り合うような真似をしてごめんなさい!お願いだから、幼馴染の情に免じて助けてください!」拓海は、鉄のパイプを片手に警備室からゆっくりと姿を現した。彼は全社員の目の前で自分に手を伸ばしてきた結月の指先を鉄パイプで容赦なく打ち砕いたそうだ。「幼馴染の情だと?」拓海は狂人のように笑い声を上げたという。「お前が5つ星ホテルでコーヒーを飲んでる間に、澪は泥水の中を歩かされて死にかけていたんだぞ!お前が今まだ息をしているのは、許されたからじゃない。俺の子供への償いとして、お前が地獄を味わうためだ!」彼は結月を警察に突き出し、さらにこう宣言した。「誰であれ、結月に1円でも金を貸した奴は、この周防拓海が地の果てまで追い詰めて潰す」グループLINEでは、拓海が完全に狂ってしまった、まるで生きた閻魔大王のようだと誰もがそう言っていた。ある同級生からメッセージが届いた。「ねえ、澪さん。拓海さんが今、SNSであなたたちが結婚したばかりの頃の写真を毎日何十枚もアップし続けてるのよ。本当にかわいそうに……一度くらい戻ってきて彼に会ってあげたら?」私はその同級生が送ってきた拓海のSNSのスクリーンショットを開いた。最新の投稿は、エコー写真を手に持ち、誰一人いないベビーベッドの前に座り込む拓海の姿だった。添えられた文章はこうだ。【赤ちゃん、パパは今日、君とママにお揃いの小さなベッドを買ったよ。いつになったら、帰ってきてくれるんだい?】写真の中の拓海は
半月後。メルボルンの午後は、あたたかな日差しに満たされていた。私は川沿いのオープンテラスのカフェに座り、温かいオーツミルクラテが入ったカップを両手で包み込んでいた。流産で傷ついた体はまだ完全には癒えていない。だが、拓海と同じ空気を吸わずに済むというだけで、体が静かに浄化されていくような心地よさがあった。「ここは風が強いね。膝が冷えてしまうから、これを掛けておきなさい」カシミヤのブランケットが、そっと私の膝の上に掛けられた。藤原蒼汰(ふじわら そうた)が向かいの席に座り、風で乱れた私の髪を自然な手つきで耳にかけてくれた。彼は国内トップクラスの法律事務所の弁護士であり、私の大学時代の先輩でもある。今回の離婚に関するすべての手続きを彼が取り仕切ってくれたのだ。「離婚の手続きはほぼ片付いたよ」蒼汰はブリーフケースから財産分与の確認書を取り出した。「周防さんは市役所の前で君を3日間待ち続けていたらしい。最後は俺が君の離婚届を持って行って手続きを済ませたよ。書類にサインする時、彼の手が震えて自分の名前すらまともに書けてなかった。ずっと、君がどこに行ったのかって俺に聞き続けてたよ」私はコーヒーを一口すすり、淡々と告げた。「……財産は全部放棄するって言ったはずだけど?」「放棄するのは君の自由だ。でも、弁護士として、君に損をさせるわけにはいかない」蒼汰の瞳の奥に甘やかすような愛おしさと強引な光が一瞬よぎった。「俺は彼の個人名義になっている都心の一等地の高級マンション3つと会社の株式の15%をすべて君の名義にさせた。それは彼が君に支払うべき慰謝料だ。たとえ君がそのお金を全額どこかに寄付しようとも、彼からはしっかりむしり取らなきゃいけないんだよ」私は蒼汰の真剣な横顔を見て、思わずふっと笑ってしまった。私が病院に入院したあの日、蒼汰が病室に駆けつけてきて以来、彼はほとんど片時も離れずに私の世話を焼いてくれた。彼は私がパクチーを食べられないことや、45度の白湯しか飲まないことをすべて覚えていた。病室に飾る花束を一つ買うにしても、花屋で適当に見繕ったありきたりなものではなく、私が一番好きなデイジーを探して街中を走り回ってくれた。ある時、私は無意識に彼に聞いてしまったことがある。「
夜の9時、拓海は狂ったように家中のものをひっくり返していた。彼は結月の服、化粧品、そしてあのハイヒールに至るまで、すべての私物を玄関の外の廊下に放り投げた。結月は泣き叫びながら玄関のドアを叩いたが、拓海が呼んだ警備員によって強引につまみ出された。部屋はようやく静かになった。拓海はゲストルームに入った。かつて私が使っていた私物をまとめて病院へ届け、私の機嫌を取ろうと考えたのだろう。だが、クローゼットを開けた瞬間、彼はその場に釘付けになった。クローゼットの右側半分は空っぽだった。そして左側半分には、彼がこの5年間、「公平」と称して私に買い与えてきたすべての服が綺麗にハンガーに掛けられていた。数十万円もするジャケットから、数万円のスカーフ、そしてタグすら切られていない限定モデルのバッグまで、すべてが手つかずのまま残されていた。ドレッサーの引き出しの中には、12個のジュエリーボックスが整然と並べられていた。中に入っているのはすべて、彼が「公平」のために結月にジュエリーを買うついでに私に買い与えたものだった。私が普段から身につけていたのは、自分で稼いだお金で買った数千円のジーンズと、結婚した時に買った数万円のシンプルな結婚指輪だけだった。その結婚指輪は今、ドレッサーのど真ん中に置かれた離婚協議書のコピーの上に置かれている。拓海の喉の奥から得体の知れない血の味が込み上げてきた。彼はここでようやく思い知らされたのだ。私が言った「要らない」ということは、決して単なる意地を張ったわけではなく、何年もかけて積み重なった完全なる決別の意志なのだと。半分に分けられた愛なんて、私には要らない。だからこそ、私は彼から与えられたものすべてをそっくりそのまま突き返したのだ。拓海は目を赤く血走らせ、狂ったようにアシスタントに電話をかけた。「調べろ!あの台風の夜、結月が一体どこにいたのか、徹底的に調べ上げろ!」30分後、アシスタントから防犯カメラの映像と位置情報のGPSデータが送られてきた。映像の中の結月は、台風が上陸したあの日の午後、下水が逆流した古いアパートの屋上などにいなかった。彼女は拓海の会社の向かいにある5つ星ホテルのラウンジで、優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいたのだ。外の浸水がひどくなってい