LOGIN私、折原夏葉(おりはら なつは)が羽鳥透也(はとり とうや)と人目を忍んで付き合い始めて、7年目。 透也は多くの乗客の命を救った機長として、一躍ネットで話題になった。 飛行機が突然、激しい悪天候に見舞われたのだ。 それでも透也は、優れた操縦技術でなんとか緊急着陸に成功し、乗客を無事に帰還させた。 私はライブ中継を見守りながら、立っていられないほど泣いた。 ところが、そのわずか10分後。 空港での取材中継に、3歳の男の子が飛び込んできた。 男の子は規制線を越え、泣きながら透也の胸に飛び込んだ。 「パパ!」 続いて、私の一番の親友、浅羽小春(あさば こはる)が目を赤くして駆け寄ってきた。 透也は全国に流れるカメラの前で、小春と男の子を抱きしめた。 何が起きたのかわからず呆然としていると、今度は見慣れた2人の顔が画面に映った。 母は目を赤くして小春を抱きしめ、声を詰まらせた。 「小春、もう大丈夫よ。 透也が生きて帰ってきたんだから、あなたにも子どもにも、透也がついてるわ」 父もほっとした顔で透也の肩を叩いた。 「家族3人、こうして無事にそろったんだ。それが何よりだ」 その瞬間、全身から血の気が引いた。 この7年間、私は透也のために3度もお腹の子を諦めてきた。 そのたびに彼は目を赤くして私を抱きしめ、誓った。 「夏葉、周りに何を言われるかわからない。お前を未婚の母親にするわけにはいかない。 機長になったら、必ず結婚しよう」 思わず笑いがこぼれた。 けれど、笑っているうちに涙で目の前がにじんでいった。 透也だけじゃなかった。 父も母も、とっくにあの2人の味方だったのだ。 私だけが、誰にも言えない関係のまま、7年間も彼を待ち続けていた。 私はライブ配信の画面を開き、一文字ずつコメントを打ち込んだ。 【2人とも、おめでとう】
View More私が澄凪市を離れる日、父と母、それに透也まで空港に来ていた。誰にもフライトの情報は教えていなかった。たぶん、ずっと誰かに私を見張らせていたんだろう。スーツケースを引いて保安検査場へ向かっていると、突然母が駆け寄ってきて、私の前に立ちはだかった。白髪がずいぶん増えていた。たった6か月で、10歳も老け込んだように見えた。「夏葉、行かないで。お願いだから……家に帰りたくないなら、お母さんが出ていくから。どんな罰だって受けるわ。だからお願い。お父さんとお母さんを見捨てないで……」母を見つめても、心は少しも動かなかった。昔は、母に「行かないで」と言ってほしくてたまらなかった。高熱を出して入院したときも、1人で流産したときも、ネット中から罵られたときも。おばあちゃんが亡くなり、その体を抱きしめて声も出ないほど泣いたときだって。母が抱きしめてくれたら、もう少し頑張れるかもしれない。何度そう思ったことだろう。それでも母は、一度もそうしてくれなかった。今はもう、そのぬくもりも必要なくなっていた。私は母の横を通り過ぎた。すると今度は、父が前に回り込んできた。目を赤くし、かすれた声で話しかけてくる。「夏葉、父さんが間違ってた。あんなひどいことを言うんじゃなかった。何より、お前を信じてやるべきだった。頼む。もう1度だけ、やり直すチャンスをくれないか」私は足を止めた。「チャンス?チャンスなら何度もあげたよ。でも、お父さんたちはそのたびに小春を選んだじゃない」父の顔から、少しずつ血の気が引いていった。そのとき、透也もこちらへ歩いてきた。黒い上着を着ている。もう、あのきちんとした機長の制服姿ではなかった。手には古びた箱を抱えている。中には、昔の2人の写真が入っていた。透也は消え入りそうな声で言った。「夏葉。許してほしいなんて言わない。ただ、見送りたかったんだ」私は透也を見つめた。目の前の透也が、知らない人のように思えた。かつては、この人が私のすべてだった。透也のために、7年間も人目を忍んで付き合ってきた。透也のために、何度もお腹の子を諦めた。両親にあれこれ言われても、小春がそばにいても、私はずっと我慢した。恋人だと公にして
母も、私に会いに来たことがある。両手にいくつも袋を提げ、目を真っ赤にしていた。「夏葉、これ、取り戻してきたの。汚いと思うのはわかってる。でも、お母さんの手で返したくて……」差し出されたのは、あの銀のペンダントだった。きれいに磨かれて、ぴかぴかに光っている。けれど、私には気持ち悪くて仕方がなかった。「捨てて」母の手が宙で止まった。「でも、これはお母さんが、夏葉の赤ちゃんのために作った……」私はその言葉を遮った。「私の子どもは、もういないよ。それ、小春の息子が首にかけてたでしょ。あんたたちが家族そろって幸せそうに見せるためにも使ったじゃない。もういらない」母の目から、たちまち涙がこぼれ落ちた。「夏葉、お母さん、本当に悪かったと思ってる。あのときは小春に騙されてたのよ。夏葉は透也のことが好きすぎて、本当のことを知ったら生きていけないって、あの子が何度も言うから……自分は何も望まない、ただ子どもが元気に育ってくれればそれでいいって言ってたの。お母さん、あのときはどうかしてて……」聞いているうちに、笑いそうになった。「だから、みんなで私に黙ってたんだ。小春の子どもの面倒を見て、あの3人を家族として祝福して、そのくせ、私のことは恥知らずの不倫相手だって罵ったんだね」母の顔から血の気が引いた。「そんなつもりじゃなかったの……」聞き覚えのある言葉だった。小春は、そんなつもりじゃなかった。透也は、知らなかった。両親は、あのときどうかしていただけ。みんな、それぞれ言い訳がある。傷つけられて当然なのは、私だけらしい。私は静かに母を見つめた。「お母さん、おばあちゃんが最期に何て言ったか知ってる?」母がはっと顔を上げた。私はゆっくりと、一言ずつ告げた。「私のこと、信じてるって言ってくれたの。お母さんは私の実の母親でしょ。それなのに、おばあちゃんほどにも私を信じてくれなかったんだね」母の体がぐらりと揺れ、今にも倒れそうになった。口元を押さえ、腰を折るようにして泣き出した。「夏葉……」私は一歩下がり、ドアを閉めた。母は外で長いこと泣いていた。けれど、私はもうドアを開けなかった。6か月後、透也は正式にすべての
透也が初めておばあちゃんの家を訪ねてきたのは、葬儀から7日後だった。その日、私は庭に面した和室で、おばあちゃんの遺影に手を合わせていた。きれい好きだったおばあちゃんのために、新しい服を何着か用意し、遺影のそばに置いてある。香炉から細い煙が立ちのぼっていた。そのとき、門の外からかすれた声が聞こえた。「夏葉」私は振り返らなかった。透也は庭を横切り、縁側から和室に上がると、遺影の前で膝をついた。「おばあちゃん、ごめんなさい。俺のせいで、こんなことになって……」私は冷たい目で透也を見た。「おばあちゃんなんて呼ばないで。あんたにそんな資格ない」透也の体がびくりとこわばった。顔を上げた彼の目は、ひどく充血していた。ほんの数日で、ずいぶん老け込んだように見えた。以前はカメラの前に立つたび、背筋をぴんと伸ばし、身だしなみもきちんと整えて、いつも自信に満ちあふれていた。今では無精ひげが伸び、目の下には濃いくまができている。大勢に称賛されていた頃の機長とは、まるで別人だった。「夏葉、今さら何を言っても遅いのはわかってる。でも、小春がおばあちゃんに会いに行くなんて、本当に知らなかったんだ。あいつがあんなにひどい女だったなんて、知らなかった……後悔してる。夏葉、どうか……」「知らなかった」ばかり繰り返す透也に、思わず笑ってしまった。「透也。1度目に流産したときは、仕事が大事な時期だからって言ったよね。2度目は、私の世間体のため。3度目は、機長になるまで待ってくれって。いつだって、もっともらしい理由をつけてたよね。なのに、小春が妊娠したときは、すぐに入籍したんだ」透也はひざまずいたまま、何度も喉を鳴らした。「俺が悪かった。夏葉、本当にすまなかった。これからは、ちゃんと償うから」私はおばあちゃんの遺影に目を向けた。写真の中のおばあちゃんは、穏やかに微笑んでいる。今にも「なっちゃん、お腹すいてないかい?」と声をかけてくれそうだった。私は静かに口を開いた。「償う?じゃあ、私の3人の子どもを返してくれる?おばあちゃんも返してくれるの?」透也は何も言えなくなった。私は新しい線香に火をつけ、香炉に立てた。「できないなら、帰って」透也は
あのライブ配信のあと、世間の反応は一変した。多くの乗客の命を救ったとして称賛されていた透也は、一転して世間の非難の的になった。勤務先の航空会社はすぐに、透也の乗務を当面見合わせ、社内調査を進めると発表した。あわせて、乗務に必要な心身の状態についても評価が行われることになった。大好きだった空から、透也はひとまず遠ざけられた。小春はさらにひどいことになっていた。小春が手首を切った件について、病院の内部から情報が漏れた。傷はごく浅く、命に別状はなかったという。もう少しで死ぬところだったという話も、透也の同情を引き、世間の批判を私に向け続けるための嘘だった。さらに、小春が何年も前から裏アカに意味深な投稿をしていたことも見つかった。【人の場所にいつまでもいられるわけないのにね】【結局、愛されてるほうの勝ちなんだよね】そんな投稿が次々と見つかり、誰の目にも明らかになった。小春はずっと我慢していたわけじゃない。最初から、人の恋人を奪っているとわかっていたのだ。それどころか、何も知らない私を見て、楽しんでさえいた。父と母も、批判を免れなかった。インタビューで私を恥知らずだと罵った動画が、何度もSNSで拡散されたのだ。コメント欄には、非難の声があふれていた。【実の娘が3回も流産してるのに、親は娘の恋人とその浮気相手の入籍に付き添ってたの?】【娘の赤ちゃんのために作った銀のペンダントを、その親友の息子につけさせてたとか……マジで無理】【おばあちゃんが亡くなってから後悔したって、もう遅いでしょ】母は勤め先から停職を命じられた。父の会社でも、取引先との共同事業がいくつも相次いで打ち切られた。母からは何度も電話がかかってきた。けれど、私は1度も出なかった。その後、長い音声メッセージが届いた。【夏葉、お母さんが悪かったわ。あの日、あんなに痛かったなんて、本当に知らなかったの。透也と小春は、本当に愛し合ってるんだと思ってた。夏葉がどうしても透也を諦めきれないだけなんだって……】母は泣きじゃくり、まともに言葉も続けられない様子だった。【お願い、帰ってきてくれない?お母さん、夏葉の顔が見たいの……】最後まで聞いて、あきれてしまった。私の顔が見たい?今までずっと、
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