LOGIN最初の料理が運ばれてくる頃、玲がワインリストを手に取った。「飲みますか?」「玲さん、車じゃないんですか?」「帰りは迎えが来ます」「ああ、そうなんですね」「せっかくなので、一本開けましょうか」「一本?」「無理なら僕が飲みます」エマは思わず笑った。「私、結構飲みますよ」「知りませんでした」玲の目が楽しそうに細くなる。「では、ちょうどいいですね」店員と短く相談し、料理に合わせて白ワインを選ぶ。銘柄を決めるまでほとんど迷わないのに、エマが酸味の強いものを好むか。重い味わいでも平気かということだけは、きちんと確認してくれた。「こういうところですよね」エマが小さく呟く。「何がですか?」「何でもないです」「今日、それ多いですね」「玲さんに言われたくないです」玲が笑ったところで、ワインが運ばれてきた。細いグラスの中で、淡い金色の液体が照明を受けて揺れる。「何に乾杯しましょうか」玲に尋ねられ、エマは少し考えた。フェスティバルでは、仕事の延長になってしまう。再会を祝うことも、もちろんできない。「……今日、仕事をちゃんと終わらせたことに」玲が一瞬目を丸くした。それから、声を立てて笑った。「随分、僕に甘い乾杯ですね」「明日からもちゃんと終わらせてください」「エマさんが毎日食事に誘ってくれるなら」「それは無理です」「残念です」グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が鳴った。一口飲むと、思っていたよりも柔らかな味が広がった。それからの会話は、驚くほど途切れなかった。仕事のこと、フェスティバルのこと、この町のこと。エマは三年前、初めてこの町へ来たときの話をした。観光客と地元の人を見分けられなかったこと。カフェで働き始めた頃は常連の名前を覚えるのが苦手で、注文する飲み物で区別していたこと。「じゃあ、僕も最初は注文で覚えられていたんですか?」「そうですね」「何でした?」「面倒な人」玲が吹き出した。「注文じゃないですね」「コーヒーです」「普通ですね」「だから、顔で覚えました」言った瞬間、玲の動きが止まった。「……顔で?」「そこ、拾わないでください」「すみません」全く悪いと思っていない顔だった。エマは呆れながらグラスを持ち上げた。浜中さんの話もした。この町へ来たばかりの頃、知り合いがほとんどい
「最終日の件ですが、招待客はもう決まっているんですか?」玲が尋ねると、ジャンは机の上の資料を片づけながら首を振った。「まだ最終確定じゃないよ」「あなたは?」「おそらく招待される」「僕は?」ジャンが顔を上げた。その質問を予想していたようだった。「来たい?」「そのために八年探しています」「エマとの予定があっても?」思わず眉が動いた。「なぜそこでエマさんが出るんですか?」「いや、確認しただけ」ジャンは悪びれずに笑った。玲は暫く彼を見つめてから、話を戻した。「招待してくれるんですか?」「もちろん」今度は、迷いのない即答だった。玲は僅かに目を細めた。本当は教えるつもりすらなかったというのに、今は自分を取引の場へ入れようとしている。「……随分、親切ですね」「そう?」「あなたにしては」「人の厚意は素直に受け取った方がいいよ」軽く返されたものの、やはり何かが引っかかった。ジャンは昔から、考えていることを簡単には読ませない男だった。特にエレナのことになると、玲とは違う種類の執着を見せた。ジャンは、彼女の才能を世界へ広めたがっていた。まだ誰も知らない画家だった頃から、作品の価値を信じ、より大きな場所で発表するよう勧めていた。玲は、少し違った。エレナが描きたいなら描けばいい。描きたくないなら、一生描かなくてもいい。作品が世界から消えても、本人がいればそれでよかった。その本人を失った。だから、作品を集めた。彼女がこの世界に残したものを、一つずつ拾い集めるように。最後の一枚まで手に入れば、自分の中で何かが終わるのだろうか。玲は窓の向こうの海を見つめた。夕日が水平線へ近づき、海面に広がっていた光が少しずつ細くなっている。不意に、終わらせてもいいのかもしれないと思った。エレナを忘れるという意味ではない。忘れることなど、きっと一生できない。ただ、探し続けることをやめる。彼女が残したものを大切にしながら、そこから先は、自分の人生を生きる。今、目の前にいる人と向き合う。そんな未来を、少しずつ望むようになっていた。それに気づくと、胸の奥に鈍い罪悪感が残った。エレナへの気持ちが薄れたわけではない。けれど、もう会えない人を愛し続けることと、今ここにいる人を愛することは、同じではなかった。エマが笑えば嬉しい。
打ち合わせが一通り終わった頃には、窓から差し込む光がかなり傾いていた。海面に長く伸びた夕日が、風に揺れる波によって細かく崩されている。玲は腕時計を確認した。午後五時を少し過ぎたところだった。一度家へ戻って着替えても、夕食の約束には十分間に合う。資料を閉じ、バッグへ手を伸ばす。「では、残りはメールで」「玲」立ち上がりかけたところで、ジャンに呼び止められた。さっきまでとは声の温度が違った。玲は椅子へ座り直した。「何ですか?」ジャンはすぐには答えず、机の上に散らばっていた資料を重ねた。赤いペンのキャップを閉め、窓の外へ一度視線を向ける。「真剣な話がある」「珍しいですね」「失礼だな」「いつも真剣ではあるんでしょうけど」「玲」今度は、冗談を受け取る気がない声だった。玲は姿勢を正した。ジャンは暫くこちらを見つめていたが、やがて慎重に口を開いた。「エレナの、最後の一枚について」その名前を聞いた瞬間、玲の意識が切り替わった。八年間、探し続けてきたもの。公式に存在が確認されているエレナの作品のうち、唯一、自分の手元にない一枚だった。「何か分かったんですか?」自分でも驚くほど静かな声が出た。ジャンは頷いた。「売りに出される可能性がある」玲の指先が止まった。「……いつですか?」「フェスティバルの最終日」「ここで?」「その可能性が高い。一般展示ではなく、最終日の夜に限られた招待客だけへ見せるという話がある」玲は背もたれから身体を起こした。「誰が持っているんですか?」「今はまだ言えない」「分からない、ではなく?」ジャンの目が僅かに細くなる。「今は言えない」玲はその違いを聞き逃さなかった。所有者について、何らかの情報を掴んでいるのだろう。頭の中では、すでに複数の可能性が動き始めていた。所有者の身元、仲介人、作品の来歴、真贋、必要な資金。そして、非公開の取引に関わる人間たち。「真作なんですか?」「現物はまだ見ていない。でも、制作時期もサイズも、八年前から追っていた移動経路も一致している」ジャンはそこで言葉を切り、玲の反応を確かめた。「少なくとも、僕は見に行く価値があると思ってる」その言葉の重さを、玲は知っていた。ジャンはエレナの作品について、軽率な判断をしない。彼女の才能を高く評価していたからこ
ジャンとの打ち合わせは、午後三時からだった。フェスティバルの開催まで、残り一か月半を切っている。財団からの出資が決まったことで企画の規模は広がり。海外から招聘する美術関係者も当初の予定を大きく上回っていた。作品の輸送や保険、展示室の警備体制に加えて。会期中のレセプションや招待客の調整まで、確認すべきことは増える一方だった。海沿いの美術館に設けられた会議室では、窓の外から午後の光が差し込み、長いテーブルの上に広げた図面を白く照らしていた。「ここの照明、前より落とした?」向かいに座るジャンが、展示図面の一角を指した。「黒木さんから提案があったそうです。実際の空間を見たら、僕もこちらの方がいいと思いました」「うん。作品の輪郭が綺麗に出ると思う」ジャンは赤いペンで小さく印をつけ、次のページを捲った。それからも打ち合わせは順調に進んだ。作品の配置、来場者の動線、海外から到着する作品の搬入日程。ジャンは仕事になると細部まで妥協せず、玲も同じだった。互いに必要以上の説明をしないため、判断は早い。それなのに、玲は途中から妙な違和感を覚えていた。ジャンの態度は普段と変わらない。図面を見るときに少し首を傾ける癖も、玲の意見が気に入らなければ遠慮なく指摘するところも、いつも通りだった。何が違うのだろう。資料を捲りながら考えて、ようやく気づいた。エマの話をしない。この町へ来てから、ジャンは何かにつけて彼女の名前を出していた。作品の選び方が面白いだとか、フランス語で話すと遠慮がなくなるだとか。玲が知らないエマの一面を見つけるたび、わざわざ報告してくるようなところさえあった。そのたびに玲が面白くない顔をするのを、ジャンも分かっていたはずだ。だからこそ、余計に話していたのかもしれない。ところが、ここ数日は一度もエマの名前が出てこない。玲は図面から顔を上げ、ジャンの横顔を見た。何かあったのだろうか。仲違いでもしたのなら、自分にとっては悪い話ではない。そう考えた直後、別の可能性が浮かんだ。あるいは、逆なのかもしれない。わざわざ自分に話す必要がないほど、二人の間で何かが変わったのだとしたら。胸の奥に、小さな不快感が生まれた。くだらない。そう思いながらも、簡単には消えてくれなかった。エマとの距離は、確実に縮まっている。昨日は彼
海沿いの低い防波堤まで来たところで、エマはようやく玲の袖から手を離した。玲は何も言わなかったが、離れた場所を一度だけ見ていた。その仕草が少し可笑しくて、同時に胸が痛んだ。二人は防波堤のそばに並び、夕暮れの海を眺めた。沖へ向かう小さな船が、光の帯を横切っていく。水平線の近くでは空が淡い橙色に染まり、波が寄せるたび、濡れた石の表面が静かに輝いた。「綺麗ですね」玲が言った。「今日は特に」エマも頷く。「この町に来てから、海を見るようになりました」玲は穏やかに続けた。「東京でも見られるでしょう?」「そういう意味ではなくて。以前は、わざわざ見ようと思わなかったんです」エマは横顔を見た。「今は?」「見ます」「どうして?」玲の視線が、海からエマへ移った。聞くべきではなかった。そう思ったときには、もう遅かった。「エマさんが見るので」胸が強く鳴った。「あなたが綺麗だと言うものを、僕もちゃんと見てみようと思うようになりました」エマは何も言えなかった。愛しているという言葉よりも、ずっと深く胸に届いた気がした。誰かの存在が、一人の人間の世界の見え方を変えてしまう。自分は玲にとって、またそんな存在になり始めている。そして玲もまた、エマの世界を変えていた。以前なら、海は一人で眺めるものだった。静かな暮らしの中で、誰にも知られずに過ごすための場所。けれど今は、この景色を見せたい相手がいる。同じ夕日を眺め、綺麗だと伝えたい人がいる。それが、どれほど危ういことなのかも分かっていた。「……玲さん」「はい」「私……」言いかけて、止まった。いなくなる。その言葉が、喉の奥まで上がってきていた。ごめんなさい。それも、まだ言えない。「何でしょう?」玲は急かさず、続きを待っている。エマは目を伏せた。「最近、あなたが私に本当に好意を持っていることが、伝わります」玲の表情が僅かに変わった。数秒の沈黙のあと、口元が柔らかく緩む。「良かったです」予想外の返事に、エマは顔を上げた。「良かった?」「はい。隠していないので」玲はあっさり答えた。「むしろ、伝わっていなかったら困ります」「……普通、少しは恥ずかしがるところじゃないですか?」「かなり好きなので」「玲さん」「はい」「今、言わなくていいです」「すみません
夕方になり、店内の客が少しずつ減っていった。奏が奥から戻り、時計を見ながらエマに声をかけた。「休憩、行ってきていいよ」「まだ大丈夫」「朝からちゃんと休んでないでしょう。三十分くらい外に出てきなよ」エマが言い返そうとすると、奏はカウンターに残った食器を引き寄せ、もう話は終わりだという顔をした。「……分かった」エプロンを外していると、隣で玲が立ち上がった。「僕も少し外へ出ます」「どうしてですか?」「エマさんが休憩なので」当然のように言われ、エマは思わず彼を見た。「それ、ついてくるって意味ですか?」「嫌なら、ここで待っています」すぐに返ってきた答えに、言葉が詰まった。玲は決して無理に踏み込んでこない。近づこうとするたび、必ずエマが断れる余地を残す。そして最近は、エマが本当には嫌がっていないことも、少しずつ分かり始めている。「……海まで行くだけですよ」「はい」「三十分しかありません」「十分です」嬉しそうに答える玲から目を逸らし、エマは先に店を出た。外には、夕方の柔らかな光が広がっていた。昼間の暑さは和らぎ、潮を含んだ風が通りを抜けていく。海へ続く坂道には長い影が伸び、遠くで漁船のエンジン音が聞こえた。二人は並んで歩き始めた。玲は肩一つ分ほど距離を空けている。近づきすぎないように、意識しているのだろう。その気遣いに気づいた瞬間、エマの胸が痛んだ。あと何度、こうして歩けるのだろう。ジャンには、玲の注意を自分へ向けておいてほしいと言われている。最後の一枚から遠ざけ、危険に近づかせないために。だから、少しくらい距離を縮めても理由はある。そう考えながら、エマは歩幅を僅かに横へずらした。二人の距離が狭くなる。玲も気づいたのだろう。ほんの少し歩調が変わったが、何も言わなかった。やがて、歩く拍子に手の甲が触れた。一度だけの、偶然のような接触だった。玲の指が僅かに動く。エマも手を引かなかった。「……玲さん」「はい」「最近、遠慮がなくなりましたよね」玲がこちらを見る。「嫌ですか?」「すぐそれを聞きますね」「大事なので」真っ直ぐな答えだった。「嫌なら、やめます」エマは前を向いた。夕日を受けた海が、細かな光を散らしている。「……嫌とは言ってません」隣が静かになった。気になって横を見ると、玲