Partager

第146話:明日、会いに行きます

Auteur: Sunny
last update Date de publication: 2026-10-22 20:50:20

午後五時二十分。

珍しく、一時間だけ予定が空いた。

玲は時計を確認した。

カフェまで車なら、それほどかからない。

十九時からの欧州との会議にも、十分間に合う。

ノートパソコンを閉じ、立ち上がろうとしたところで、スマートフォンが鳴った。

ジャンだった。

『今日は行かない方がいい』

玲は眉を寄せた。

『何がですか』

すぐに返事が来る。

『カフェ。エマは今日は休みだよ』

玲の指が止まった。

『体調ですか』

『違う。浜中さんのところでフェスティバルの作業をしてると思う』

体調が悪いわけではない。

それならいい。

そう思った直後、別のことが引っかかった。

『なぜジャンが知ってるんですか』

既読がつく。

少し時間が空いてから、返事が届いた。

『奏に聞いた』

玲は画面を見つめた。

ジャンがエマの予定を知っている。

奏も、当然のように知っている。

自分だけが知らない。

胸の奥に、小さなざらつきが生まれた。

以前なら、そんな感情を抱くこと自体が無駄だと思っただろう。

今は違った。

嫉妬する。

会えないことを残念に思う。

自分より彼女に近い人間がいることを、少し面白くないと感じる。

そんな感情が動くこと
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Dernier chapitre

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第153話:朝倉エマの八年間

    最初の料理が運ばれてくる頃、玲がワインリストを手に取った。「飲みますか?」「玲さん、車じゃないんですか?」「帰りは迎えが来ます」「ああ、そうなんですね」「せっかくなので、一本開けましょうか」「一本?」「無理なら僕が飲みます」エマは思わず笑った。「私、結構飲みますよ」「知りませんでした」玲の目が楽しそうに細くなる。「では、ちょうどいいですね」店員と短く相談し、料理に合わせて白ワインを選ぶ。銘柄を決めるまでほとんど迷わないのに、エマが酸味の強いものを好むか。重い味わいでも平気かということだけは、きちんと確認してくれた。「こういうところですよね」エマが小さく呟く。「何がですか?」「何でもないです」「今日、それ多いですね」「玲さんに言われたくないです」玲が笑ったところで、ワインが運ばれてきた。細いグラスの中で、淡い金色の液体が照明を受けて揺れる。「何に乾杯しましょうか」玲に尋ねられ、エマは少し考えた。フェスティバルでは、仕事の延長になってしまう。再会を祝うことも、もちろんできない。「……今日、仕事をちゃんと終わらせたことに」玲が一瞬目を丸くした。それから、声を立てて笑った。「随分、僕に甘い乾杯ですね」「明日からもちゃんと終わらせてください」「エマさんが毎日食事に誘ってくれるなら」「それは無理です」「残念です」グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が鳴った。一口飲むと、思っていたよりも柔らかな味が広がった。それからの会話は、驚くほど途切れなかった。仕事のこと、フェスティバルのこと、この町のこと。エマは三年前、初めてこの町へ来たときの話をした。観光客と地元の人を見分けられなかったこと。カフェで働き始めた頃は常連の名前を覚えるのが苦手で、注文する飲み物で区別していたこと。「じゃあ、僕も最初は注文で覚えられていたんですか?」「そうですね」「何でした?」「面倒な人」玲が吹き出した。「注文じゃないですね」「コーヒーです」「普通ですね」「だから、顔で覚えました」言った瞬間、玲の動きが止まった。「……顔で?」「そこ、拾わないでください」「すみません」全く悪いと思っていない顔だった。エマは呆れながらグラスを持ち上げた。浜中さんの話もした。この町へ来たばかりの頃、知り合いがほとんどい

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第152話:今、会いたい人

    「最終日の件ですが、招待客はもう決まっているんですか?」玲が尋ねると、ジャンは机の上の資料を片づけながら首を振った。「まだ最終確定じゃないよ」「あなたは?」「おそらく招待される」「僕は?」ジャンが顔を上げた。その質問を予想していたようだった。「来たい?」「そのために八年探しています」「エマとの予定があっても?」思わず眉が動いた。「なぜそこでエマさんが出るんですか?」「いや、確認しただけ」ジャンは悪びれずに笑った。玲は暫く彼を見つめてから、話を戻した。「招待してくれるんですか?」「もちろん」今度は、迷いのない即答だった。玲は僅かに目を細めた。本当は教えるつもりすらなかったというのに、今は自分を取引の場へ入れようとしている。「……随分、親切ですね」「そう?」「あなたにしては」「人の厚意は素直に受け取った方がいいよ」軽く返されたものの、やはり何かが引っかかった。ジャンは昔から、考えていることを簡単には読ませない男だった。特にエレナのことになると、玲とは違う種類の執着を見せた。ジャンは、彼女の才能を世界へ広めたがっていた。まだ誰も知らない画家だった頃から、作品の価値を信じ、より大きな場所で発表するよう勧めていた。玲は、少し違った。エレナが描きたいなら描けばいい。描きたくないなら、一生描かなくてもいい。作品が世界から消えても、本人がいればそれでよかった。その本人を失った。だから、作品を集めた。彼女がこの世界に残したものを、一つずつ拾い集めるように。最後の一枚まで手に入れば、自分の中で何かが終わるのだろうか。玲は窓の向こうの海を見つめた。夕日が水平線へ近づき、海面に広がっていた光が少しずつ細くなっている。不意に、終わらせてもいいのかもしれないと思った。エレナを忘れるという意味ではない。忘れることなど、きっと一生できない。ただ、探し続けることをやめる。彼女が残したものを大切にしながら、そこから先は、自分の人生を生きる。今、目の前にいる人と向き合う。そんな未来を、少しずつ望むようになっていた。それに気づくと、胸の奥に鈍い罪悪感が残った。エレナへの気持ちが薄れたわけではない。けれど、もう会えない人を愛し続けることと、今ここにいる人を愛することは、同じではなかった。エマが笑えば嬉しい。

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第151話:最後の一枚

    打ち合わせが一通り終わった頃には、窓から差し込む光がかなり傾いていた。海面に長く伸びた夕日が、風に揺れる波によって細かく崩されている。玲は腕時計を確認した。午後五時を少し過ぎたところだった。一度家へ戻って着替えても、夕食の約束には十分間に合う。資料を閉じ、バッグへ手を伸ばす。「では、残りはメールで」「玲」立ち上がりかけたところで、ジャンに呼び止められた。さっきまでとは声の温度が違った。玲は椅子へ座り直した。「何ですか?」ジャンはすぐには答えず、机の上に散らばっていた資料を重ねた。赤いペンのキャップを閉め、窓の外へ一度視線を向ける。「真剣な話がある」「珍しいですね」「失礼だな」「いつも真剣ではあるんでしょうけど」「玲」今度は、冗談を受け取る気がない声だった。玲は姿勢を正した。ジャンは暫くこちらを見つめていたが、やがて慎重に口を開いた。「エレナの、最後の一枚について」その名前を聞いた瞬間、玲の意識が切り替わった。八年間、探し続けてきたもの。公式に存在が確認されているエレナの作品のうち、唯一、自分の手元にない一枚だった。「何か分かったんですか?」自分でも驚くほど静かな声が出た。ジャンは頷いた。「売りに出される可能性がある」玲の指先が止まった。「……いつですか?」「フェスティバルの最終日」「ここで?」「その可能性が高い。一般展示ではなく、最終日の夜に限られた招待客だけへ見せるという話がある」玲は背もたれから身体を起こした。「誰が持っているんですか?」「今はまだ言えない」「分からない、ではなく?」ジャンの目が僅かに細くなる。「今は言えない」玲はその違いを聞き逃さなかった。所有者について、何らかの情報を掴んでいるのだろう。頭の中では、すでに複数の可能性が動き始めていた。所有者の身元、仲介人、作品の来歴、真贋、必要な資金。そして、非公開の取引に関わる人間たち。「真作なんですか?」「現物はまだ見ていない。でも、制作時期もサイズも、八年前から追っていた移動経路も一致している」ジャンはそこで言葉を切り、玲の反応を確かめた。「少なくとも、僕は見に行く価値があると思ってる」その言葉の重さを、玲は知っていた。ジャンはエレナの作品について、軽率な判断をしない。彼女の才能を高く評価していたからこ

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第150話:知らない距離

    ジャンとの打ち合わせは、午後三時からだった。フェスティバルの開催まで、残り一か月半を切っている。財団からの出資が決まったことで企画の規模は広がり。海外から招聘する美術関係者も当初の予定を大きく上回っていた。作品の輸送や保険、展示室の警備体制に加えて。会期中のレセプションや招待客の調整まで、確認すべきことは増える一方だった。海沿いの美術館に設けられた会議室では、窓の外から午後の光が差し込み、長いテーブルの上に広げた図面を白く照らしていた。「ここの照明、前より落とした?」向かいに座るジャンが、展示図面の一角を指した。「黒木さんから提案があったそうです。実際の空間を見たら、僕もこちらの方がいいと思いました」「うん。作品の輪郭が綺麗に出ると思う」ジャンは赤いペンで小さく印をつけ、次のページを捲った。それからも打ち合わせは順調に進んだ。作品の配置、来場者の動線、海外から到着する作品の搬入日程。ジャンは仕事になると細部まで妥協せず、玲も同じだった。互いに必要以上の説明をしないため、判断は早い。それなのに、玲は途中から妙な違和感を覚えていた。ジャンの態度は普段と変わらない。図面を見るときに少し首を傾ける癖も、玲の意見が気に入らなければ遠慮なく指摘するところも、いつも通りだった。何が違うのだろう。資料を捲りながら考えて、ようやく気づいた。エマの話をしない。この町へ来てから、ジャンは何かにつけて彼女の名前を出していた。作品の選び方が面白いだとか、フランス語で話すと遠慮がなくなるだとか。玲が知らないエマの一面を見つけるたび、わざわざ報告してくるようなところさえあった。そのたびに玲が面白くない顔をするのを、ジャンも分かっていたはずだ。だからこそ、余計に話していたのかもしれない。ところが、ここ数日は一度もエマの名前が出てこない。玲は図面から顔を上げ、ジャンの横顔を見た。何かあったのだろうか。仲違いでもしたのなら、自分にとっては悪い話ではない。そう考えた直後、別の可能性が浮かんだ。あるいは、逆なのかもしれない。わざわざ自分に話す必要がないほど、二人の間で何かが変わったのだとしたら。胸の奥に、小さな不快感が生まれた。くだらない。そう思いながらも、簡単には消えてくれなかった。エマとの距離は、確実に縮まっている。昨日は彼

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第149話:明日も、会いたい

    海沿いの低い防波堤まで来たところで、エマはようやく玲の袖から手を離した。玲は何も言わなかったが、離れた場所を一度だけ見ていた。その仕草が少し可笑しくて、同時に胸が痛んだ。二人は防波堤のそばに並び、夕暮れの海を眺めた。沖へ向かう小さな船が、光の帯を横切っていく。水平線の近くでは空が淡い橙色に染まり、波が寄せるたび、濡れた石の表面が静かに輝いた。「綺麗ですね」玲が言った。「今日は特に」エマも頷く。「この町に来てから、海を見るようになりました」玲は穏やかに続けた。「東京でも見られるでしょう?」「そういう意味ではなくて。以前は、わざわざ見ようと思わなかったんです」エマは横顔を見た。「今は?」「見ます」「どうして?」玲の視線が、海からエマへ移った。聞くべきではなかった。そう思ったときには、もう遅かった。「エマさんが見るので」胸が強く鳴った。「あなたが綺麗だと言うものを、僕もちゃんと見てみようと思うようになりました」エマは何も言えなかった。愛しているという言葉よりも、ずっと深く胸に届いた気がした。誰かの存在が、一人の人間の世界の見え方を変えてしまう。自分は玲にとって、またそんな存在になり始めている。そして玲もまた、エマの世界を変えていた。以前なら、海は一人で眺めるものだった。静かな暮らしの中で、誰にも知られずに過ごすための場所。けれど今は、この景色を見せたい相手がいる。同じ夕日を眺め、綺麗だと伝えたい人がいる。それが、どれほど危ういことなのかも分かっていた。「……玲さん」「はい」「私……」言いかけて、止まった。いなくなる。その言葉が、喉の奥まで上がってきていた。ごめんなさい。それも、まだ言えない。「何でしょう?」玲は急かさず、続きを待っている。エマは目を伏せた。「最近、あなたが私に本当に好意を持っていることが、伝わります」玲の表情が僅かに変わった。数秒の沈黙のあと、口元が柔らかく緩む。「良かったです」予想外の返事に、エマは顔を上げた。「良かった?」「はい。隠していないので」玲はあっさり答えた。「むしろ、伝わっていなかったら困ります」「……普通、少しは恥ずかしがるところじゃないですか?」「かなり好きなので」「玲さん」「はい」「今、言わなくていいです」「すみません

  • 八年前に死んだ私と再会した彼が、今度こそ私を手放さない   第148話:離せなかった袖

    夕方になり、店内の客が少しずつ減っていった。奏が奥から戻り、時計を見ながらエマに声をかけた。「休憩、行ってきていいよ」「まだ大丈夫」「朝からちゃんと休んでないでしょう。三十分くらい外に出てきなよ」エマが言い返そうとすると、奏はカウンターに残った食器を引き寄せ、もう話は終わりだという顔をした。「……分かった」エプロンを外していると、隣で玲が立ち上がった。「僕も少し外へ出ます」「どうしてですか?」「エマさんが休憩なので」当然のように言われ、エマは思わず彼を見た。「それ、ついてくるって意味ですか?」「嫌なら、ここで待っています」すぐに返ってきた答えに、言葉が詰まった。玲は決して無理に踏み込んでこない。近づこうとするたび、必ずエマが断れる余地を残す。そして最近は、エマが本当には嫌がっていないことも、少しずつ分かり始めている。「……海まで行くだけですよ」「はい」「三十分しかありません」「十分です」嬉しそうに答える玲から目を逸らし、エマは先に店を出た。外には、夕方の柔らかな光が広がっていた。昼間の暑さは和らぎ、潮を含んだ風が通りを抜けていく。海へ続く坂道には長い影が伸び、遠くで漁船のエンジン音が聞こえた。二人は並んで歩き始めた。玲は肩一つ分ほど距離を空けている。近づきすぎないように、意識しているのだろう。その気遣いに気づいた瞬間、エマの胸が痛んだ。あと何度、こうして歩けるのだろう。ジャンには、玲の注意を自分へ向けておいてほしいと言われている。最後の一枚から遠ざけ、危険に近づかせないために。だから、少しくらい距離を縮めても理由はある。そう考えながら、エマは歩幅を僅かに横へずらした。二人の距離が狭くなる。玲も気づいたのだろう。ほんの少し歩調が変わったが、何も言わなかった。やがて、歩く拍子に手の甲が触れた。一度だけの、偶然のような接触だった。玲の指が僅かに動く。エマも手を引かなかった。「……玲さん」「はい」「最近、遠慮がなくなりましたよね」玲がこちらを見る。「嫌ですか?」「すぐそれを聞きますね」「大事なので」真っ直ぐな答えだった。「嫌なら、やめます」エマは前を向いた。夕日を受けた海が、細かな光を散らしている。「……嫌とは言ってません」隣が静かになった。気になって横を見ると、玲

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status