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第2話

Author: グズグズ
詩帆の頬には、たちまちくっきりと五本の指の跡が浮かび上がった。

彼女は信じられないというように目を見開き、熱を帯びた頬を押さえながら、しばらくしてようやく我に返る。

「あなた、よくも......!!」

そう叫ぶなり、今度は自分が手を振り上げた。

だが紗寧の方が一歩早かった。

その手首を掴み取ったかと思うと、次の瞬間――

パシンッ!

反対の手で、もう一発。

鋭い音が部屋に響き渡る。

詩帆は勢いよく顔を逸らされ、丁寧に巻かれていた髪が乱れて頬に張り付いた。

まるで、自分が立て続けに二発も叩かれたことが理解できていないようだった。

個室の中は水を打ったように静まり返る。

全員の視線が二人に釘付けになった。

最初に我に返ったのは真洋だった。

だが彼もその場で固まる。

瞳孔がぎゅっと縮まった。

――紗寧は、聞こえている?

心臓が一拍止まったような感覚に襲われ、反射的に視線を逸らす。

そして向かい側の酒棚へ目が留まった。

濃色の鏡面扉には暖色の照明が映り込み、光が揺れている。

――鏡だったのか。

彼は密かに安堵した。

どこか引っかかる違和感を深く考える暇もなく、詩帆の怒鳴り声が響く。

「最低!ただじゃおかないんだから!」

そう叫びながら、彼女は紗寧へ飛びかかった。

鋭い爪が真っ直ぐ顔を狙う。

二人の手が空中で激しくもつれ合った。

だが紗寧も負けてはいない。

咄嗟に詩帆の長い髪を掴み上げる。

「痛っ!痛いっ!」

詩帆は悲鳴を上げた。

「やめろ!」

真洋が怒声を放ち、大股で割って入る。

二人を強引に引き離し、そのまま紗寧の手首を掴んだ。

「二人とも、いい加減に――」

しかしその瞬間、詩帆が隙を突いて手を振り上げた。

紗寧の胸がひやりと冷える、真洋の拘束を振りほどこうとした。

だが手首は強く握られていて、思うように抜け出せない。

放して――

そう言いたいのに、唇から漏れたのは掠れた息だけだった。

昨日の高熱で聴力は戻った。

だがその代償のように声が出ない。

喉はひどく枯れ、まともに発声できなかった。

焦りで胸が詰まる。

それでも言葉にならない。

真洋はそんな彼女の様子を見て、一瞬だけ動きを止めた。

その隙だった。詩帆の容赦ない平手打ちが飛んでくる。

紗寧は咄嗟に身を引いた。

顔への直撃は避けられたものの、鋭い爪が頬を掠めた。

焼けるような痛み。

次の瞬間、白い頬に赤い線が走った。

それを見た真洋は呆然とする。

そしてすぐに顔色を変えた。

「詩帆!何をやってるんだ!」

怒鳴りながら彼女を突き飛ばす。

詩帆は不意を突かれ、数歩よろめいた。その肩が背後の酒棚へ激突する。

ガシャーン!

凄まじい音が響いた。

酒棚が大きく揺れ、高級洋酒のボトルが次々と傾く。

液体が宙へ飛び散り、重い瓶が雨のように降ってきた。

「危ない!」

悲鳴が上がる。

その瞬間、真洋は迷わず詩帆へ飛び込んだ。彼女を抱き込むように身体で覆う。

次々と酒瓶が背中へ叩きつけられ、鈍い衝撃音が続く。

ガラス片が四方へ飛び散った。

一方、紗寧は腕を上げて頭を庇うのが精一杯だった。

ドンッ!

一本の酒瓶が肩甲骨へ直撃する。

激痛が全身を貫いた。

さらに次々と酒瓶が落下してくる。

苦しげな呻き声。

彼女の身体は衝撃で床へ叩きつけられた。

砕けたガラスと冷たい酒が、全身に降り注ぐ。

額から血が滲み出し、酒と混ざりながら頬を伝って流れ落ちた。

紗寧は床に丸まった。

身体の半分が麻痺したように感じる。

肩や背中、後頭部から広がる鈍い痛み。

耳鳴り。

悲鳴。

人々の叫び声――

すべてが混ざり合っていた。

「真洋さん!」

詩帆がすぐさま涙を零した。

「痛い......!」

真洋は慌てて身体を起こす。

自分の怪我など気にも留めず、「なに?!どこだ!?」と尋ねた。

「足首が......」

涙声で訴える。

砕けたガラスが足首を切り、いくつか血筋ができていた。

決して重傷には見えない。

だが彼女は今にも死にそうなほど泣いていた。

その頃、紗寧は床に手をつきながら、視界が暗くなるのを感じていた。

真洋へ向かって、震える指先を伸ばす。

唇が動く。けれど声は出ない。

その時に、真洋はもう詩帆を横抱きにしていた。

そのまま部屋を出ようとする。

「真洋さん!紗寧も怪我してるみたいだぞ!」

誰かが思わず声を上げた。

床にうずくまる紗寧を指差す。

真洋は足を止めた。

振り返り、ちらりと一瞥する。

だが腕の中の詩帆が泣きながら首元へ顔を埋めた。

「真洋さん......痛い......骨までいっちゃったかも......」

真洋は視線を逸らした。

眉間を深く寄せる。

「紗寧のことは頼む。たいした怪我じゃないなら、誰か家まで送ってやってくれ」

そして続ける。

「先に詩帆を病院へ連れて行く。あいつは痛みに弱いんだ」

声を掛けた男は一瞬言葉を失った。

それでも最後には頷く。

「......分かった」

真洋はもう振り返らなかった。

詩帆を抱いたまま、足早に部屋を去っていく。

残された仲間たちは顔を見合わせた。

床に座り込む紗寧を見ながら、近づこうとして躊躇う。

「おい、大丈夫か?立てるか?」

「お前バカか。こいつ、耳聞こえないんだぞ」

「手話できるのか?」

「いや、無理だろ......」

だがその頃には、紗寧の視界はすでに霞んでいた。

耳に届く声も、厚い氷越しに聞いているように遠い。

目の前で誰かの口が動いている。

だが何を言っているのか分からない。

額から流れる血はますます増え、目へ入り込む。

世界が暗い赤色に染まった。

首を振ろうとしても力が入らない。

――寒い。

ただ、寒かった。

骨の奥から染み出してくるような冷たさ。

景色と人影が歪み始める。

その時、誰かが叫んだ。

「やばい!頭から血が出てる!すごい量だ!」

声が遠ざかる、そしてまた近づく。

黒い闇が何層にも重なり、墨を流したように視界を覆っていく。

瞼が重い。

どんどん重くなる。

「早く救急車を!」

「真洋さん、なんで電話に出ないんだよ......!」

......

紗寧は痛みで目を覚ました。

瞼を開くと、真っ白な光が目に飛び込んでくる。

消毒液の匂い。

指を少し動かしただけで肩に鈍痛が走った。

額には包帯、左腕は固定されている。

後頭部も脈打つように痛い。

病室は静かだった。

規則正しいモニター音だけが響いている。

彼女はゆっくり窓の外を見た。

空は灰色。朝なのか夕方なのかも分からない。

その時、病室の扉が開いた。

白衣姿の若い男性が入ってくる。

細身の体格。冷ややかな雰囲気。金縁眼鏡をかけた端正な顔立ち。

「目が覚めたか?」

彼はベッド脇へ歩み寄り、カルテを開く。

モニターの数値を確認しながら尋ねた。

「気分はどうだ?」

――天川晶(あまかわ あきら)先生。

まさか自分が天川の勤める病院へ運ばれてくるとは思ってもいなかった。

この半年間、彼はずっと聴力回復のリハビリを担当してくれていた。

そして彼のおかげで、ついに耳も治ったのだ。

紗寧は口を開く。だが出てきたのは掠れた息だけ。

天川は手を振った。

「話さなくていい。声帯に大きな問題はない。高熱が原因の急性喉頭炎だ。数日休めば治る」

そう言いながら、ポケットからペンと小さなメモ帳を取り出して渡した。

紗寧は受け取り、そこへ文字を書く。

【耳を治してくださって、ありがとうございました】

天川は一瞥し、ふっと笑った。

メモ帳を返しながら、どこか意味深な口調で言う。

「礼なら私じゃなくて別の人に言うべきだな」

そして眼鏡の奥の目を細めた。

「私は頼まれて治療していただけだ。君を治せなかったら......ある人が、私を港江へ帰らせてくれないからな」

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