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第6話

Penulis: グズグズ
胸の内で不安が膨らむ中、蒼士は視線を引き、革張りのシートにゆったりと背を預けた。動きに合わせて喉仏がわずかに上下する。

「乗れ」

その一言に、紗寧はほっと息をつきながら車内へ身を滑り込ませた。

ドアが閉まると、港江特有の蒸し暑い空気は完全に遮断される。

黒いマイバッハは静かに走り出し、空港高速へと合流した。

窓の外では標識が次々と流れていく。

だが、進んでいる方向は貝原家への道でもなければ、八角家の屋敷へ向かう道でもない。

2年間港江を離れていたとはいえ、主要道路の位置くらいは覚えている。

紗寧は隣の男へ視線を向けた。

蒼士は目を閉じていた。

眠っているようにも見えるが、その横顔は流れる光と影の中でいっそう鋭く際立っている。シルクシャツの襟元は呼吸に合わせてわずかに上下し、深く落ちた鎖骨の影の中には、うっすらとした傷跡が見え隠れしていた。

「八角さん......」

言葉を選びながら問いかける。

「この車......どこへ向かっているんですか?」

蒼士はゆっくりと目を開いた。

「市役所だ」

紗寧は一瞬聞き間違えたのかと思った。

「......え?」

「婚姻届を出す」

「......」

蒼士は二人の間のアームレストに片腕を投げ出したまま淡々と続ける。

シャツの袖は肘までまくられ、骨ばった手首のラインが露わになっていた。

冷たいほど白い肌の下には、青い血管がうっすら浮かんでいる。

「両親から聞いていないのか?」

平坦な口調だった。

「八角家と貝原家の婚約は今月末に決まっている。手続きはすでに済ませてあるから、今日は署名するだけだ」

紗寧は口を開いたものの、言葉が出てこなかった。

身代わり結婚を引き受けたのは2日前。

ほとんど流されるように決めた話で、細かな段取りなど知るはずもない。

それでも、港江に着いたその足で市役所へ直行するとは思ってもみなかった。

心の準備をする時間すらない。

「でも」

なんとか理由を探す。

「私、今着いたばかりで......」

「乗り気じゃないことは分かっている」

蒼士は暗く深い瞳で彼女を見つめた。

薄い唇が静かに開く。

「だから、これは契約結婚だ」

紗寧は目を見開いた。

蒼士は視線を外し、窓の外へ顔を向ける。横顔の輪郭は冷たく硬い。

「祖母の体調が良くない。俺が家庭を持つ姿を見たいとずっと言ってる」

低い声が車内に響く。

「期間は一年。互いに必要なものを得るための結婚だ」

紗寧は唇を結び、頭の中で情報を整理した。

「なら......私は何をすればいいんですか?」

蒼士が再び彼女を見た。

暗がりの中、その瞳は異様なほど深く見える。

彼の目に映る自分の横顔は強張っていた。

ほんの一瞬、その視線に重みがあるような錯覚を覚え、呼吸が詰まる。

「妻として振る舞うことだ」

そう言って一度言葉を切る。

長い指先がシートを二度軽く叩いた。

鈍い音が響く。

「毎月1000万円の生活費を渡す。契約満了後には浅水区画の別荘を一棟譲る」

彼の視線が彼女の引き結ばれた唇をかすめた。

「それと、貝原家の問題も八角家が処理する」

断る理由が見つからないほど好条件だった。

紗寧はまつ毛を伏せ、しばらく黙り込む。

やがて意を決したように顔を上げた。

「契約期間中は......」

掌に爪を食い込ませる。

「夫婦としての義務も果たさなければいけませんか?」

その問いを口にした瞬間、横顔は緊張で固くなり、まつ毛の影が小さく震えた。

蒼士の視線が真っ直ぐに彼女へ向けられる。

少し赤く染まった耳先。緊張のあまり噛み締められた下唇。

さらにその下、薄手のブラウスのVネックから覗く白い鎖骨。

視線はそこで一秒ほど止まり、その後静かに逸らされた。

喉仏がわずかに動く。

「俺は草食系じゃない」

紗寧は一瞬意味が分からなかった。

だが次の瞬間、その言葉の真意を悟る。

耳まで一気に熱くなり、その赤みは首筋へと広がっていった。

「どうする?」

蒼士が問う。

紗寧は下唇を噛んだ。

この結婚を引き受けた時点で、もう後戻りはできない。

「......分かりました」

小さく頷く。

その返事を聞くと、蒼士は再び目を閉じた。

口元がかすかに持ち上がったようにも見えたが、その笑みは一瞬で消えた。

......

黒いマイバッハは清馬橋を渡り、港江の高層ビル群を背後へ流していく。

やがて車は灰色の大理石造りの建物の前で停まった。

紗寧が見上げる。

ここは港江でも歴史のある市役所のひとつで、山の中腹に位置し、繫華街の街並みを一望できる場所だ。

だが今は妙に静かだった。

入口には制服姿の職員が3人立っているだけ。

明らかに一般利用者は締め出されている。

蒼士が先に車を降りた。

紗寧も自分でドアを開けようとしたが、その前に外から扉が開かれる。

見上げると蒼士が立っていた。

片手をドアに添え、高い位置から彼女を見下ろしている。

午後の日差しが背後から差し込み、彼の輪郭に淡い金色の縁取りを与えていた。

逆光のため表情は影に沈んでいる。

だが、その瞳だけは不思議なほど深く見えた。

紗寧はわずかに息を呑み、車を降りる。

足が地面に着いた瞬間、彼の手がそっと彼女の傍へ差し出された。

触れてはいない。

けれど、いつでも支えられるような位置にある。

自然と守られているような感覚だった。

二人の距離は近い。

シダーウッドと淡い煙草の香りが鼻先をかすめる。

冷たく鋭いのに、不思議と抗えない。

「......ありがとうございます」

蒼士は何も答えず手を引いた。

そして身体を半歩ずらし、彼女を先に歩かせる。

「八角様」

入口にいた中年男性が慌てて駆け寄ってきた。

濃紺のスーツを着ており、胸元の名札には「石川」と記されている。

「準備はすべて整っております」

蒼士は軽く頷いた。

広いロビーには冷房が強く効いている。

机の上にはすでに書類が並べられ、ベルベットのトレーには二本の万年筆が置かれていた。

紗寧の視線が書類へ落ちる。

そこに記された「貝原咲良」という名前が妙に目についた。

職員が二人の前へ書類を差し出す。

「内容をご確認のうえ、こちらへご署名ください」

蒼士は万年筆を手に取った。

ペン先が紙の上で一瞬止まり、そのまま迷いなく署名が刻まれる。

力強く鋭い筆跡だった。

最後の一画は紙を切り裂きそうなほど勢いがあり、インクは青黒く光っていた。

次は紗寧の番だった。

彼女はペンを受け取る。

指先が冷たい。だがペンにはまだ蒼士の体温が残っていて、ほんのり熱かった。

彼女は俯き、「貝原咲良」と書き記す。

筆運びは遅い。

最後の一画では指先がわずかに震えた。

職員は書類を受け取ると、席へ戻って端末を操作し始めた。

ほどなくして画面に咲良の写真が表示される。

紗寧の鼓動が速くなる。

職員の眉がかすかに動いた。

画面と彼女の顔を何度も見比べている。

空気が張り詰めた。

紗寧は拳を握りしめる。爪が皮膚に食い込んだ。

――終わった。

本気で騙し通せると思っていたのか。

八角家がどれほどの名門で、蒼士がどれほどの人物か。

身代わり結婚などという稚拙な芝居が長続きするはずがない。

どうしよう。

もし貝原家に残された最後の希望を、自分の手で潰してしまったら――

その時。

コンコン。

静かなノック音が二度響いた。

紗寧が反射的に振り向く。

蒼士は相変わらず椅子にもたれたままだった。むしろ余裕すら感じられる。

彼はゆっくり瞼を上げると、不機嫌そうに石川を一瞥した。

その瞳は深く黒い。

感情は見えない。

静かな深淵のようだ。

だが同時に、抗えない圧力が宿っていた。

石川の表情が変わる。

言いかけていた言葉はすべて喉の奥へ引っ込んだ。

港江で八角家を知らない者はいない。

まして蒼士様を敵に回したい人間など存在しない。

しかも本人が連れてきた女性なのだ。間違っているはずがない。

今どき整形など珍しくもない。

この人も顔をいじったのだろう――そう結論づけた。

蒼士の機嫌を損ねたくない。

そう悟った石川は慌ててマウスを操作し、机の端に置かれていた公印を手に取る。

重々しい音とともに受理のスタンプが押された。

「おめでとうございます」

石川は証書を両手で差し出し、満面の笑みを浮かべる。

「これで手続きは完了です。どうぞ末永くお幸せに」

紗寧は呆然としたまま、まだインクの温もりが残る書類を受け取った。

天地がひっくり返るような大騒ぎになると思っていた危機が、こうもあっさり、音もなく消えてしまった。

自分の運はあまりにも良すぎる気がした。

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