Share

第5話

Author: グズグズ
その頃の紗寧は、ちょうど北城空港に到着したところだった。

スマホが震える。

「もしもし、先輩?」

電話の向こうから聞こえてきたのは、中岡の穏やかな声だった。

どこか苦笑混じりの響きがある。

「紗寧、さっき柏グループ傘下のワールド・エンターテインメントから連絡があってな。総支配人の人選が松田に決まったそうだ」

紗寧は足を止めかけたが、すぐにスーツケースを引いて歩き続けた。

「そうなんですか」

あまりに淡々とした反応だったせいか、中岡は一瞬言葉を失った。

「なんだ、その反応は。少しくらい俺のために怒ってくれてもいいだろう?」

冗談めかした口調で続ける。

「一応、俺は君が推薦してくれた人間なんだぞ。それなのに横からかっさらわれたっていうのに、全然腹が立たないのか?」

紗寧はわずかに口元を緩めた。

「先輩、それを言うために電話してきたんですか?」

「まさか。俺はそんな暇人じゃない」

中岡は笑みを引っ込めると、声の調子を少し真面目なものへ変えた。

「電話したのは、柏真洋に一言伝えておいてほしかったからだ」

紗寧の足取りがわずかに鈍る。

「松田はろくでもない男だ。前から業界では噂になっていた。前の会社にいた頃、所属していた若手女優に手を出したらしい」

中岡の声は低かった。

「その子はデビューしたばかりで後ろ盾もなかった。泣き寝入りするしかなくて、最後は鬱病を患い、自殺したそうだ」

言葉の端々に嫌悪感が滲む。

「普段ならあんなクズ、俺の耳に入ることすらない。でもまさか、今回は後輩の頼みだから顔を出しただけだったのに、あの柏社長がこんな真似をするとはな」

紗寧は静かにまつ毛を伏せた。

松田銘の噂なら、彼女も聞いたことがある。

そして以前、真洋にも話していた。

それでも彼は松田を選んだ。

数秒の沈黙の後、彼女は口を開く。

「分かりました。教えてくれてありがとうございます、先輩」

中岡はその声音の変化に気づいたらしい。

少し探るように尋ねてくる。

「え?まさか君は柏と......」

「はい。別れました」

電話の向こうが静まり返る。

数秒後、中岡はふっと笑った。

「それは良かった」

紗寧は思わず目を瞬かせる。

「あんな男、君にふさわしくない」

彼女は何も答えなかった。

ちょうどその時、頭上のスピーカーから搭乗案内が流れる。

「空港か?」

「はい。港江へ帰ります」

「そうか。それなら引き止めない。また時間がある時に話そう」

「はい。では」

通話を切ったあと、紗寧は人で賑わう空港ロビーに立ち尽くし、ガラス越しに見える滑走路を眺めながら小さく笑った。

中岡の言う通りだ。

真洋は確かに自分には釣り合わなかった。

ただ、その事実に気づくまで2年もかかってしまっただけだ。

その時、スマホが再び震えた。

母親の芳美(よしみ)からだった。

【紗寧、もう一度だけ聞くわ。本当に咲良の身代わりになって結婚する覚悟はあるの?無理にとは言いたくないの】

紗寧は画面を見つめたまま、数秒指を止める。

そして短く返信した。

【うん。ちゃんと決めたよ】

すると、ほとんど間を置かず返信が届いた。

【紗寧、これが八角蒼士さんの連絡先よ。よかったら先に少し話してみたらどう?仲を深めるためにも】

紗寧は唇を軽く結び、その番号をコピーして検索した。

表示されたアカウントのアイコンは真っ黒。

ニックネームはシンプルに「H」の一文字だけだった。

プロフィール背景も同じ黒一色。

署名もなければ余計な情報も一切ない。

本当に使われているアカウントなのか疑いたくなるほどだ。

彼女は友だち追加ボタンをタップし、そのままスマホをバッグへ放り込んだ。

八角家の次男は気分屋で人付き合いを好まないと聞く。

コネを作ろうとする人間は山ほどいるが、秘書の連絡先すら手に入らないという。

だからこそ、彼女も期待はしていなかった。

「港江行き便をご利用のお客様は、ただいまより搭乗を開始いたします――」

館内に搭乗案内が響く。

紗寧はスーツケースを引きながら搭乗口へ向かった。

飛行機に乗り込んだあと、シートに身体を預け、窓の外の景色を見つめる。

この街には、恋への憧れも希望も、すべて置いてきた。

かつてはここが自分の帰る場所になると思っていた。

けれど今になって思えば、それはただの独りよがりだったのだ。

そんなことを考えながら我に返り、機内モードへ切り替えようとスマホを取り出した瞬間、一通の通知が飛び込んできた。

【Hが友だち申請を承認しました】

紗寧は思わず目を見開いた。

承認時刻を確認する。

ほぼ即時だった。

彼女はもう一度プロフィールを開き、三回も確認する。

間違いない。八角蒼士本人だ。

「......」

どういうこと?誤操作だろうか。

それともスマホを秘書が管理しているのだろうか。

いずれにせよ、ずっと自分の申請を待っていたわけではないはずだ。

紗寧は深く考えず、スマホをポケットへしまった。

――

その日の午後3時。

港江国際空港。

到着ロビーを出たところで、スマホが震えた。

表示されたのは港江の見知らぬ番号だった。

通話を取る。

「貝原様」

低く落ち着いた男性の声が聞こえてくる。

礼儀正しいが、どこか隙がない。

「蒼士様の運転手をしております横川と申します。蒼士様のご指示でお迎えに参りました。車は三番出口でお待ちしております」

紗寧は思わず足を止めた。

――蒼士様?

どうして自分が今日港江へ戻ることを知っているのだろう。

「分かりました。今向かいます」

電話を切り、スーツケースを引きながら三番出口へ向かう。

路肩には黒いマイバッハが堂々と停まっていた。

流れるような車体のライン。濃いスモークフィルムの貼られた窓。

控えめでありながら、人を圧するような存在感がある。

彼女の姿を見つけると、横川がすぐに車を降りてきた。

二十代前半ほどの若い男だ。

ダークグレーのスーツを着こなし、礼儀正しいが媚びたところはない。

「貝原様、お荷物をお預かりします」

彼はスーツケースを受け取ると、後部座席のドアを開いた。

ドアが開いた瞬間、冷たいシダーウッドの香りに、かすかな煙草の匂いが混じって流れ込んでくる。

紗寧は身をかがめかけた姿勢のまま固まった。

薄暗い車内。男が後部座席に腰掛けていた。

黒いシルクシャツの襟元はボタンが二つ外され、白く引き締まった首筋が覗いている。

スラックスに包まれた長い脚を気怠げに組み、その存在だけで車内の大半を支配しているようだった。

気配に気づいたのか。男はゆっくりと瞼を持ち上げる。

その視線が向けられた瞬間、紗寧の呼吸が止まった。

あまりにも整いすぎた目だった。

深く刻まれた二重。切れ長の目元。

彫りの深い眼窩と高い眉骨。瞳は墨を流したような濃い黒。

薄い唇と相まって、全体に人を寄せつけない冷淡さを纏っている。

実物を見るのは初めてだった。それでも一瞬で分かった。

彼が、あの八角蒼士。

「貝原......咲良?」

低く掠れた声。

語尾がわずかに上がり、どこか意味深な響きを帯びていた。

紗寧の心臓が跳ねる。

慌てて我に返り、唇を軽く引き結んだ。

「はい......私です」

蒼士の視線がゆっくりと彼女の全身をなぞる。

頭の先から足元まで。急かすこともなく、値踏みするようでもなく。

それでも妙に落ち着かない。

紗寧が視線を逸らそうとした時、彼が先に口を開いた。

「免許証は持っているか?」

「え?」

思わず目を瞬かせる。それでも反射的に頷いた。

「はい。持ってます」

答えた直後になって、彼女はようやく違和感を覚えた。

初対面で身元の確認?

その瞬間、胸がどくりと鳴る。

まさかこの人、自分を疑ってる?

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 八角さん、新婚ですから自制してください!   第10話

    黒いマイバッハが浅水区画を離れる頃には、すっかり日が落ちていた。港の両岸にはネオンの光が帯のように連なり、海面に映り込んでは砕けた星屑のように揺れている。紗寧は窓際に座り、ガラスに映るぼやけた自分の横顔を見つめながら、こっそり隣の蒼士へ視線を向けた。彼はシートにもたれ、目を閉じて休んでいた。流れる街の灯りが横顔を切り取るたび、その輪郭はいっそう際立つ。長いまつ毛は目元に淡い影を落とし、まるで黒い蝶が静かに羽を休めているかのようだった。どう見ても、重病で厄払いの結婚が必要な人には見えない。だがその一方で、先ほど車内で何でもない顔をしながら薬を飴玉のように噛み砕いていた姿も思い出す。いったい彼は、どんな病気なのだろう。そんなことを考えていると、不意に低く落ち着いた声が響いた。「何を考えている?」紗寧は反射的に顔を上げる。すると、澄んだ漆黒の瞳とちょうど視線がぶつかった。「いえ、別に......」慌てて目を逸らした彼女は、車が停まったことに気づき、窓の外へ視線を向けた。「ここは?」蒼士は口元をわずかに緩め、ほんのり赤く染まった耳先を一瞥した。「家だ。降りよう」先に横川が車を降りてドアを開ける。何か注意しようとした矢先、蒼士はすでに紗寧の手を取って中へ歩き出していた。屋敷は驚くほど壮麗だった。モダンな和風様式を基調とし、一面の大きなガラス窓には庭園のライトや波打つプールの水面が映り込んでいる。その時だった。庭の奥から突然、何匹もの犬の吠え声が次々と響いてきた。横川の顔色が変わる。「貝原さん、気をつけ――」言い終わる前に、一つの黒い影が茂みの中から勢いよく飛び出してきた。巨大なジャーマンシェパードだった。肩までの高さは紗寧の腰近くに達し、盛り上がった筋肉と艶やかな毛並みを持っている。その鋭い眼差しはまるで狼のようで、見るだけで背筋が寒くなるほどだった。「きゃっ――」紗寧は思わず声を上げて後ずさった。しかし次の瞬間、背中は温かく硬い胸板にぶつかる。蒼士の体がわずかに強張った。鼻先をくすぐるのは少女の甘い香り。柔らかな体が隙間なく彼に寄り添っている。喉仏が静かに上下する。だが腕は離さなかった。横川は思わず息を呑み、前へ出ようとした。

  • 八角さん、新婚ですから自制してください!   第9話

    彼女の問いかけに、一穂は再び紗寧へ顔を向けた。「咲良ちゃんはずっと海外で勉強していたのよね?どこだったかしら?」「ヨーロッパです」紗寧は即座に答えた。咲良はここ数年ずっとイギリスへ留学しており、今月の初めにようやく港江へ戻ってきたばかりだった。そのため彼女を直接知る人間はほとんどおらず、それこそが紗寧が身代わり結婚を引き受ける決心をした大きな理由でもあった。一穂は満足そうに頷いた。「何を専攻していたの?」「アートマネジメントです」「なるほどね。どうりで品のある雰囲気をしているわけだわ」紗寧はようやく胸を撫で下ろしかけた。だが、その時だった。隣にいた慶子が不意に口を開いた。「そういえば、お母さま」慶子は微笑みながら彩未へ視線を向けた。「この前、彩未が慈善パーティーに出席したでしょう?確か貝原さんにも会ったって言ってなかったかしら」紗寧の胸がどくりと跳ねた。彩未はソファに座ったままスマホを眺めていたが、その言葉を聞いて顔を上げる。唇を緩やかに弧に描きながら、どこか意味深な笑みを浮かべた。「ええ。あの日の貝原さん、とても目立っていましたもの」紗寧の背中に冷たい汗が滲んだ。慈善パーティーなど、彼女はまったく知らない。「あの日は......人が多かったので」どうにか平静を装いながら答える。「彩未さんには気づかなかったのかもしれません」彩未の口元がわずかに吊り上がった。「そういえば、あの夜は面白い出来事もありましたよね。貝原さん、覚えていらっしゃいますか?」喉がひどく乾く。それでも声だけは自然に聞こえるよう努めた。「あの日は......少し気分が優れなくて。あまりよく覚えていないんです」「覚えていない?」慶子はティーカップを持ち上げ、ゆっくりと一口飲んだ。その視線が紗寧の顔をなぞる。笑っているようで、笑っていない。「まだ半月も経っていない出来事なのに。貝原さんは少し物覚えが悪いのね」場の空気が微妙に張り詰めた。紗寧は頭皮が痺れるような感覚を覚え、何とか言い繕おうとしたその時。蒼士の手の中にあったライターが、カチッと音を立てて閉じられた。彼はゆっくり顔を上げ、慶子を見た。その眼差しは淡々としていたが、慶子は思わずティーカップを

  • 八角さん、新婚ですから自制してください!   第8話

    浅水区画の八角家邸宅は、重厚で風格に満ちた佇まいだった。白い外壁にアーチ状の回廊、庭には背の高いヤシの木が立ち並び、その向こうには陽光を受けてきらめくプライベートプールが見える。回廊を抜けると、八角家のメインリビングへと続いていた。クリスタルのシャンデリアが室内を昼間のように明るく照らし、黒革のソファには数人が腰を下ろしている。上座には銀髪の八角家の祖母・八角一穂(ほずみ かずほ)が座っていた。笑みを浮かべながらも気品と威厳を失わず、その隣には叔母である慶子(けいこ)と慶子の娘、彩未(あやみ)が控えている。蒼士が紗寧の手を引いて入ってくると、その場にいた全員の視線が一斉に向けられた。「この子ったら、来るなら一言くらい連絡しなさいよ」一穂は孫を甘やかすように笑いながら軽くたしなめたが、その視線はすでに紗寧へ向いていた。「この子が貝原家のお嬢さんね?さあ、こっちへいらっしゃい。おばあちゃんによく見せてちょうだい」紗寧が数歩前へ進むと、その手を一穂が優しく握った。しばらく眺めたあと、一穂は目を細めて嬉しそうに笑った。情というものがある。ましてや蒼士は孫たちの中でも群を抜いて優秀な存在だ。そんな一番可愛がっている孫が、これほど美しい娘を連れてきたのだから、嬉しくないはずがなかった。紗寧は少し汗ばんだ手を握り返しながら、軽く頭を下げた。「初めまして、おばあさま。貝原咲良です」その横で、慶子は彼女を上から下までゆっくりと見回した。白いワンピースは装飾のないシンプルなデザインだったが、その分だけ彼女の均整の取れた体のラインを美しく際立たせている。細く絞られた腰は片手で抱えられそうなほど華奢で、裾から覗く足首は白磁のように繊細だった。そして何より目を引くのはその顔立ちだった。雪のように白い肌。丹念に描き上げた整った五官。澄み切った瞳は光を宿し、目尻は生まれつきわずかに上がっていて、本人に自覚のない艶やかさを自然と漂わせている。「本当に綺麗な子ね」慶子は微笑みながら口を開いたが、その声音にはどこか含みがあった。「蒼士が厄払いの嫁として迎えることを承諾したのも納得だわ」厄払いの嫁?紗寧は思わず目を瞬かせ、反射的に蒼士を見た。厄払いって、何のこと?その時の蒼士はソファに

  • 八角さん、新婚ですから自制してください!   第7話

    紗寧は蒼士に続いて市役所を後にした。午後の港江の陽射しは目が眩むほど白く、湿った熱気が空気の中に揺らめいている。冷房の効いた室内とはまるで別世界だ。黒いマイバッハが木陰に静かに停まっている。蒼士は後部座席のドアを開け、そのまま彼女を待った。木漏れ日が枝の隙間から差し込み、彼の眉目に細かな影を落とす。そこに立つ姿は、まるで鞘に収まった刃のようだった。静かで内に秘めているのに、いつでも抜き放たれ人を傷つけられる――そんな危うさを纏っている。紗寧が身をかがめて車に乗り込むと、彼の視線が自分に向けられているのを感じた。重くはない。が、強烈な存在感があった。「先に本家へ向かう。祖母が君に会いたがっている」蒼士も後から乗り込み、ドアが閉まる鈍い音とともに外の熱気が遮断される。紗寧は頷き、何か言おうとしたその時だった。バッグの中のスマホが突然震えた。表示されたのは北城の見知らぬ番号。動きが止まる。胸の奥が妙にざわついた。嫌な予感がする。よりにもよって今、このタイミングで――蒼士の淡い視線が一度だけこちらへ流れる。紗寧は考えるより先に通話を切った。だが数秒もしないうちに、また同じ番号から着信が入る。彼女は唇を引き結び、通話ボタンを押した。「紗寧!」繋がった瞬間、真洋の苛立った声が飛び込んできた。数日間押し殺していた怒りが滲んでいる。「退院したのにどうして家に帰らないんだ?どこへ行った?俺が何度電話したと思って――」紗寧の胸が重く沈む。思わず隣へ目を向けた。蒼士はいつの間にか視線を外し、手の中のライターを弄んでいる。何もしていない。ただ静かに座っているだけだ。こちらを見てもいない。それなのに、その何気ない存在感だけで妙な圧迫感を覚える。彼女はすぐにスマホを耳から少し離し、声を落とした。「何か用?」「何か用だと?」真洋の声が一段高くなる。「紗寧、お前もいい加減にしろ。機嫌を損ねるにも限度があるだろう!」「......」「あの日の件は確かに俺も悪かった。だが、お前は詩帆を殴った。父さんも母さんもこの数日ずっと騒いでてな、詩帆に謝れって――いや、それは後だ。今どこにいる?迎えに行くから、一度ちゃんと話そう」詩帆に謝れ。その言葉が細い

  • 八角さん、新婚ですから自制してください!   第6話

    胸の内で不安が膨らむ中、蒼士は視線を引き、革張りのシートにゆったりと背を預けた。動きに合わせて喉仏がわずかに上下する。「乗れ」その一言に、紗寧はほっと息をつきながら車内へ身を滑り込ませた。ドアが閉まると、港江特有の蒸し暑い空気は完全に遮断される。黒いマイバッハは静かに走り出し、空港高速へと合流した。窓の外では標識が次々と流れていく。だが、進んでいる方向は貝原家への道でもなければ、八角家の屋敷へ向かう道でもない。2年間港江を離れていたとはいえ、主要道路の位置くらいは覚えている。紗寧は隣の男へ視線を向けた。蒼士は目を閉じていた。眠っているようにも見えるが、その横顔は流れる光と影の中でいっそう鋭く際立っている。シルクシャツの襟元は呼吸に合わせてわずかに上下し、深く落ちた鎖骨の影の中には、うっすらとした傷跡が見え隠れしていた。「八角さん......」言葉を選びながら問いかける。「この車......どこへ向かっているんですか?」蒼士はゆっくりと目を開いた。「市役所だ」紗寧は一瞬聞き間違えたのかと思った。「......え?」「婚姻届を出す」「......」蒼士は二人の間のアームレストに片腕を投げ出したまま淡々と続ける。シャツの袖は肘までまくられ、骨ばった手首のラインが露わになっていた。冷たいほど白い肌の下には、青い血管がうっすら浮かんでいる。「両親から聞いていないのか?」平坦な口調だった。「八角家と貝原家の婚約は今月末に決まっている。手続きはすでに済ませてあるから、今日は署名するだけだ」紗寧は口を開いたものの、言葉が出てこなかった。身代わり結婚を引き受けたのは2日前。ほとんど流されるように決めた話で、細かな段取りなど知るはずもない。それでも、港江に着いたその足で市役所へ直行するとは思ってもみなかった。心の準備をする時間すらない。「でも」なんとか理由を探す。「私、今着いたばかりで......」「乗り気じゃないことは分かっている」蒼士は暗く深い瞳で彼女を見つめた。薄い唇が静かに開く。「だから、これは契約結婚だ」紗寧は目を見開いた。蒼士は視線を外し、窓の外へ顔を向ける。横顔の輪郭は冷たく硬い。「祖母の体調が良くない。俺が家庭を

  • 八角さん、新婚ですから自制してください!   第5話

    その頃の紗寧は、ちょうど北城空港に到着したところだった。スマホが震える。「もしもし、先輩?」電話の向こうから聞こえてきたのは、中岡の穏やかな声だった。どこか苦笑混じりの響きがある。「紗寧、さっき柏グループ傘下のワールド・エンターテインメントから連絡があってな。総支配人の人選が松田に決まったそうだ」紗寧は足を止めかけたが、すぐにスーツケースを引いて歩き続けた。「そうなんですか」あまりに淡々とした反応だったせいか、中岡は一瞬言葉を失った。「なんだ、その反応は。少しくらい俺のために怒ってくれてもいいだろう?」冗談めかした口調で続ける。「一応、俺は君が推薦してくれた人間なんだぞ。それなのに横からかっさらわれたっていうのに、全然腹が立たないのか?」紗寧はわずかに口元を緩めた。「先輩、それを言うために電話してきたんですか?」「まさか。俺はそんな暇人じゃない」中岡は笑みを引っ込めると、声の調子を少し真面目なものへ変えた。「電話したのは、柏真洋に一言伝えておいてほしかったからだ」紗寧の足取りがわずかに鈍る。「松田はろくでもない男だ。前から業界では噂になっていた。前の会社にいた頃、所属していた若手女優に手を出したらしい」中岡の声は低かった。「その子はデビューしたばかりで後ろ盾もなかった。泣き寝入りするしかなくて、最後は鬱病を患い、自殺したそうだ」言葉の端々に嫌悪感が滲む。「普段ならあんなクズ、俺の耳に入ることすらない。でもまさか、今回は後輩の頼みだから顔を出しただけだったのに、あの柏社長がこんな真似をするとはな」紗寧は静かにまつ毛を伏せた。松田銘の噂なら、彼女も聞いたことがある。そして以前、真洋にも話していた。それでも彼は松田を選んだ。数秒の沈黙の後、彼女は口を開く。「分かりました。教えてくれてありがとうございます、先輩」中岡はその声音の変化に気づいたらしい。少し探るように尋ねてくる。「え?まさか君は柏と......」「はい。別れました」電話の向こうが静まり返る。数秒後、中岡はふっと笑った。「それは良かった」紗寧は思わず目を瞬かせる。「あんな男、君にふさわしくない」彼女は何も答えなかった。ちょうどその時、頭上のスピーカーから搭乗案

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status