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八角さん、新婚ですから自制してください!
八角さん、新婚ですから自制してください!
Author: グズグズ

第1話

Author: グズグズ
「真洋さん、本当にあの義理の妹さんを国外から呼び戻したの?紗寧さんが怒るんじゃないか?」

失聴してから一年。

ようやく聴力を取り戻した紗寧は、クラブの個室の前で立ち尽くした。

浮かべていた笑みが、その瞬間ぴたりと凍りつく。

――鈴江詩帆(すずえ しほ)が、帰国した?

「お前たちさえ黙ってれば、あいつには何も分からない」

柏 真洋(かしわ まひろ)の声は冷ややかで、感情の起伏がまるで感じられない。

「それに、もう一年以上経ってる。詩帆も家が恋しくなったんだろ」

「家が恋しいっていうか、真洋さんが恋しかったんじゃないの?」

その一言で、部屋の中は意味ありげな笑い声に包まれた。

「馬鹿なこと言うな。俺はあいつを妹としてしか見てない」

「でもさっき詩帆とキスしてるの見たぞ?ははっ、『妹』ねえ......俺には『恋人』にしか見えなかったけど?」

真洋は眉をひそめた。

「あいつが勝手に寄ってきて、避け損ねただけだ。ガキが少し調子に乗ったくらいで、本気で責めるわけにもいかないだろ」

そう言ってから、何かを思い出したように低い声で釘を刺す。

「この件は全員黙っておけ。紗寧が来ても、誰も余計なこと言うなよ」

その時、誰かが咳払いをして真顔になった。

「でもさ、真洋さん。本当にもう気にしてないのか?当時、詩帆ちゃんが人を使って紗寧さんを轢かせた件。紗寧さん、死にかけたんだっけ。今だって耳が聞こえないままだし」

真洋は淡々と言った。

「詩帆は当時まだ19だった。少しわがままだっただけだ。海外で一年苦労して、今はだいぶ大人しくなった。いつまでも責め立てる必要ないだろ」

――わがまま、だっただけ?

紗寧は、頭の中で何かが轟音を立てて崩れ落ちるのを感じた。

天地がひっくり返るとは、きっとこういうことを言うのだろう。

あまりにも馬鹿げた現実が、波のように押し寄せ、彼女を呑み込んでいく。

一年前。

真洋の義妹・鈴江詩帆は、彼への想いを拗らせた末、紗寧に車を突っ込ませた。

その事故で、彼女は聴力を失った。

激怒した真洋は詩帆を半殺しにしかけたほどだった。

だが最後は両親に止められ、詩帆は急遽国外へ送られた。

この一年、真洋は彼女の耳を治すために国内外の名医を探し回り、一時は仕事すら放り出して、ずっとリハビリに付き添ってくれていた。

治療は長く苦しいものだった。

彼女が何度も心を折られそうになるたび、真洋は先に目を赤くして彼女を抱きしめ、「詩帆を殺してやりたい」と低く吐き捨てていた。

恨まなかったわけじゃない。

けれど、彼が昼夜問わず彼女を支え、必死に治療法を探し回る姿を見るたび、「少なくとも、自分は心から愛してくれる男に出会えた」――そう思っていた。

紗寧は無意識にポケットへ触れた。

そこには、密かに用意していたベルベットの小箱。

中には、彼のために特注した男物の指輪が入っている。

あの事故のせいで、二人の結婚話は何度も延期された。

けれど今、耳も治った。

ようやく彼と結婚できる――そう信じていたのに。

まさか真洋が、詩帆を帰国させただけでなく、あっさり彼女を許していたなんて。

本当に、滑稽だ。

胸の奥が冷え切っていく中、ポケットのスマホが突然震えた。

紗寧はしばらく呼吸を整えてから、ゆっくり画面へ目を落とす。

母からの長文メッセージだった。

内容は、一時間前の電話と同じ。

故郷である港江(こうえ)へ戻り、義姉の代わりに八角家の次男と結婚してほしいという頼みだった。

貝原家と八角家は政略結婚を進めていた。

だが義姉の貝原咲良(かいがら さくら)が突然逃げ出してしまったのだ。

八角家の権勢は絶大。

中でも相手の八角家の次男――八角蒼士(ほずみ そうじ)は、冷酷非情で手段を選ばない人物として恐れられていた。

もし婚約破棄など知れれば、貝原家は一夜で潰される。

追い詰められた母は、最後の頼みとして紗寧へ電話をかけてきた。

「紗寧、本当にもうどうにもならないの......お願い、貝原家を助けて......」

それは、母が「連れ子」だった彼女を連れて貝原家へ嫁いで以来、初めて口にした懇願だった。

義父は決して悪い人ではなかった。

だが母が貝原家で居場所を築くため、どれほど苦労してきたかも彼女は知っている。

母は長年、義父と義姉のためにすべてを捧げてきた。

だから紗寧も、ずっと聞き分けのいい娘でいようとしていた。

母に迷惑だけはかけまいと。

数少ない反抗は、どちらも真洋のためだった。

一度目は、彼を追って一人で港江を離れたこと。

二度目は、ついさっき。

彼のために身代わり結婚を断ったこと。

紗寧は苦く笑った。

――あの時、自分は何と考えた?

耳が治ったから、もうすぐ真洋と結婚すると。

彼は自分を愛しているから、きっと貝原家の問題も助けてくれると。

彼を、信じていた。

紗寧は目を閉じた。

胸の奥を鋭い痛みが貫く。

ポケットのリングケースを強く握り締めて、ようやく喉元まで込み上げた震えを押し殺した。

永遠だと思っていた愛も、世界のすべてだと信じていた想いも、結局は砂の上に築かれた幻だったのだ。

あの優しさも、献身も、どこまでが本心で、どこまでが罪悪感で、どれだけが「演技」だったのだろう。

紗寧は深く息を吸い、スマホを取り出した。

そして一文字ずつ打ち込む。

【私、お姉ちゃんの代わりに八角さんと結婚するよ】

送信完了の表示を確認した瞬間、彼女は勢いよく個室の扉を押し開けた。

刹那、部屋中の笑い声がぴたりと止む。

薄暗い照明。

煙草と酒、香水が混ざった重たい空気。

着飾った男女が8人。

全員の視線が、一斉に入口へ向けられた。

紗寧は光と影の境目に立っていた。

身体のラインを美しく浮かび上がらせるロングドレス。

雪のように白い肌。

精巧な人形のように整った顔立ち。

けれど、あの澄んだ瞳だけは、今は水を張った淵のように暗く沈んでいた。

真洋は入口正面のソファ席に座っていた。

指先には吸いかけの煙草。

立ち上る煙が、彫りの深い横顔をぼやかしている。

最初に我へ返ったのは彼だった。

目の奥に一瞬焦りが走る。

だが彼女が補聴器をつけていないと気づいた途端、明らかに安堵したように立ち上がり、大股で歩み寄ってきた。

そして手話で問いかける。

「紗寧、遅かったな。みんな待ってたんだぞ」

その姿に、紗寧は吐き気すら覚えた。

だが彼女が口を開くより先に、背後から甘ったるい声が響く。

「わあ、盛り上がってるわねえ......」

媚びるような、わざと語尾を伸ばした声。

蜜でも塗ったようにねっとりと耳障りだった。

全員が反射的に振り返る。

そこに立っていたのは詩帆。

廊下の暖色の照明の下、身体にぴったり張りつく赤いキャミソールドレスを纏い、深いスリットからは太腿が覗いている。

ゆるく巻いた長髪。

艶やかな紅い唇。

彼女はドア枠にもたれ、気怠げに部屋を見回したあと、最後に真洋へ視線を止め、意味深に微笑んだ。

真洋の顔色が変わる。

だが紗寧が振り返らないのを見て、「やはり聞こえていない」と確信したのか、わずかに肩の力を抜いた。

「なんで来た?隣の部屋で大人しくしてろって言っただろ」

その声に滲む緊張を、紗寧ははっきり聞き取っていた。

詩帆はくすりと笑う。

「だって会いたかったんだもん。入口に立ってるだけなら、あの子に見つからないでしょ?どうせ聞こえないんだし、何を怖がる必要があるの?」

その言葉は、静かな水面へ投げ込まれた石のように波紋を広げた。

「やべ、そうだった。聞こえないんだったな。マジ焦ったわ」

「ほんとそれ。さっき完全にバレたかと思った」

誰一人、遠慮しようともしない。

むしろ面白がっているようですらあった。

紗寧の指先が強張る。

爪が再び掌へ深く食い込んだ。

痛い。

けれど、それ以上に――

彼らの言葉一つ一つが、針のように耳へ突き刺さる。

――聞こえている。全部。

一言残らず、はっきりと。

詩帆はさらに甘く笑い、わざと声を張り上げた。

「ねえ~紗寧?聞こえないんでしょ?可哀想に。当時の事故、死ななかった代わりに障害者になっちゃったんだもんね」

「もうやめろ」

真洋が低く鋭い声で遮った。

そして焦ったように紗寧を見下ろす。

まるで、何かに気づかれることを恐れているように。

だが詩帆はまるで意に介さない。

むしろ笑みを深めながら、堂々と部屋へ入ってくる。

紗寧のすぐ後ろへ立ち、熱を帯びた視線を真洋へ向けたまま、部屋中に聞こえる声で言い放った。

「真洋さん、私が帰国したこと、この子に知られるの心配してたんでしょ?大丈夫だよ。この子、何も聞こえないんだから。今ここで『このバカ女』って罵ったって――」

――パァン!

乾いた音が、言葉を真っ二つに断ち切った。

紗寧が振り返り、詩帆の頬を思いきり張り飛ばしていた。

部屋は、一瞬で死んだように静まり返る。

全員が呆然としていた。

――え?

どういうことだ?

紗寧は......聞こえないはずじゃ......?

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