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第450話

Author: こふまる
冬真は監視カメラを回避して病室に忍び込んだため、彼らは冬真の存在にすぐに気づくことができなかったのだ。

夕月は歯を磨き終え、ようやく口の中がさっぱりした。

「橘冬真は捕まえたの?」と彼女はボディーガードに尋ねた。

「はい、確保しました。橘博士からは、どなたかがお邪魔した場合はまず拘束し、朝になってからこの件を報告するようにとの指示がありました」

夕月は頷いて感謝の意を示した。「ご苦労様でした。皆さんはもうお引き取りください」

ボディーガードたちが去ると、夕月と鹿谷は寄り添い合った。

鹿谷は手を夕月の後頭部に置き、まばたきひとつせずに彼女を見つめていた。今度は簡単に目を閉じる気にはなれなかった。

「夕月、僕と一緒にM国へ行かない?」

突然、鹿谷はそう切り出した。

「M国に戻るの?」夕月は問い返した。

鹿谷はまつげを伏せた。「もし君がM国で活躍したいなら、僕も一緒に行こうと思って」

「18歳の時、一度M国に行くかどうかの選択に直面したことがあるわ」と夕月は言った。

花橋大学を卒業する前から、海外の名門大学や研究所から招聘状が届き、好条件が提示されていた。

夕月がM国行きを承諾すればすぐにグリーンカードが発行されるほどだった。

「でも私は日興研究センターに入って、先生と国の役に立つ人間になりたいの」

鹿谷は夕月を抱きしめた。「いいよ!君のやりたいことなら何でも応援する!橘冬真のバカ野郎が……」

先ほどの衝突を思い出し、伶は思わず悪態をついた。

夕月は俯き、自分の手を見た。指は内側に曲がり、固く握りしめられていた。

「尊重という言葉の意味を、あの人に教えてあげるわ」

*

翌日、天野は瑛優を学校に送った後、病院へ戻り夕月の退院手続きを手伝った。

夕月は天野の焦りがちな表情に気づき、尋ねた。「お兄さんは昨夜のことを知ってるの?」

天野は頷いた。「橘冬真のことは、しっかり対処させる」

夕月は黙ったまま同意の意を示した。冬真には教訓を与えるべき時が来たのだ。

その日の午後、夕月は車で凌一の住まいへと向かった。

応接室のソファに腰掛けた彼女は、凌一を待つ間も手を休めなかった。

コーヒーテーブルには計算機科学と物理学の専門誌が数冊置かれており、夕月は何気なく一冊を手に取り、ページをめくった。

ふと、コンピューター関連の国際誌のある頁
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