「十分考えました」夕月の眼差しは揺るがない。「今さら入園を認めると仰っても、あなたこそがこの園の癌です。私の娘を、あなたの下には置けません」大勢の報道陣の前で、容赦のない言葉を投げかける夕月。園長の顔が青ざめ、次には朱に染まり、息遣いも荒くなっていく。震える指を夕月に向け、記者たちに向かって声を張り上げた。「皆さんご覧の通りです。藤宮さんご本人が退園を望まれた。私から追い出したわけではない。誤った報道だけは、ご遠慮願います」校門前は送迎の車や報道陣の車で溢れ、新たに到着した数台の公用車も目立たなかった。車内で我に返った石田局長は、窓の外の荘厳な校門を目にして目を見開いた。「どうしてここに?」慌てて運転手に問いかける。石田局長は後ろを振り返り、各部署の車が自分の後に続いているのを見て、さらに焦りが増した。運転手はかえって局長の質問に戸惑った様子で、「桐嶋様からここまでとお聞きしておりましたが……」石田局長は目を見開き、隣席の桐嶋を見つめた。スーツ姿の桐嶋は落ち着き払っていた。朝の光が車窓から差し込み、その横顔に朧げな金色の輪郭を描いている。彼は物憂げに顔を向け、局長の苛立った眼差しと視線を合わせた。教養ある石田局長は罵声こそ上げなかったものの、「到着したから、降りたまえ」と言い放った。「降りるのはあなたですよ」桐嶋は静かに告げた。「冗談はよしてくれ」局長は焦りを隠せない。「規律監察部の面々まで、こんなところへ連れてくるとは」石田局長は後悔していた。市役所で桐嶋を見かけ、検察庁行きと聞いて送ると申し出たのが運の尽き。車中で桜井園長の資料を取り出し、意見を仰ごうとしたのだ。数キロの道中で、一流弁護士の無料相談を得られると思ったのに、まさか学校まで来てしまうとは。後続の車には規律監察部の職員たち。先導と思い込んで、何も知らずについてきてしまった。桐嶋は自分のスマートフォンを局長に差し出した。「ALIコンテストの予選順位が発表されました」局長は聞く耳を持たず、運転手に指示を出す。「すぐに検察庁へ向かってくれ!」「藤宮夕月が首位です」桐嶋は淡々と続けた。石田局長の目に微かな波が立った。角張った顔には感情を押し殺したような固さが残る。桐嶋の視線は局長の横を通り過ぎ、窓の外へと向かう
「桐井、君の書類を持ってきた」低い男声が静寂を破った。一斉に振り向く人々。石田局長が大勢の職員を引き連れて現れた瞬間、園長の体が震えた。今回の態勢は尋常ではない。その異様な雰囲気に気づいた園長は、震える足を必死に動かして前に出た。「石、石田局長!まさかこんな所にご足労いただくとは……」園長が慌てて握手を求めたが、石田局長は代わりに茶封筒を差し出した。封筒には園長の名前が記されていた。「石田局長、これは……?」石田局長は冷厳な声で命じた。「書類を持って、桜井から出ていけ」園長の手が震え、封筒が地面に落ちる。膝が折れそうになり、まともに立っていられない。「局長……私が何を……」夕月の方をちらりと見た園長は、慌てて言い訳を始めた。「橘美優ちゃんの退園の件でしたら、すべて誤解です!むしろ私から丁重に、彼女の再入園をお願いしたところで……」石田局長は顎を上げ、「自分で開いて、中身を確認してみろ」と命じた。園長は震える手で紐を解き、中の書類を取り出した。細めていた目が一瞬で見開かれる。一番上の用紙には、昨夜の橘大奥様との通話記録が印刷されていた。会話の一言一句が克明に記録されている。その時、一枚の小切手がひらりと舞い落ちた。園長はその小切手を目にした瞬間、膝から崩れ落ちるように地面に座り込んだ。校門前に集まった記者たちは、鋭い取材勘で石田局長の来訪が尋常ではないことを直感的に悟った。数台のカメラが、床に散らばった書類に向けられる。「桐井園長の通話が盗聴されていた?不正の疑いがあるということでしょうか」「桐井」石田局長の声が冷たく響く。「よく見るんだ。長年に渡るキックバックの証拠が、そこにある。橘大奥様と結託して他の理事を締め出し、彼女の意のままに生徒を退学させた。私が今日来たのは、お前を解雇するだけじゃない。規律監察部の者たちに、教育現場を蝕む害虫の巣窟を示すためだ」地面に崩れ落ちたまま起き上がれない園長は、夕月に必死の面持ちで言い訳を始めた。「若葉社長からの指示だったんです。彼女には世話になっていて、私はただその言葉に従っただけで……」「娘に謝罪なさい」夕月の声は冷徹だった。園長は地面に這いつくばり、瑛優と夕月に向かって何度も頭を下げた。「申し訳ございません!若葉社
夕月が花橋大学に入学した当時、石田局長はまだ同大学の行政部門で書記を務めていた。石田の目に留まった彼女は、わずか14歳。養父母の負担を少しでも減らそうと、年齢を偽って放課後にアルバイトを探し回っていた。「そんな生活を続けていては、君の才能が潰れてしまう」石田は彼女を呼び止めると、諭すように言葉を続けた。「今は勉強に打ち込みなさい。君の持つ才能があれば、きっと今の君には想像もつかないような未来が待っているはずだ」そして夕月が桜都大学の博士課程への進学を決めた年、石田も昇進の知らせを受けていた。花橋大学の門前で、彼は夕月に手を振った。「天野夕月、ここまでだ。お前はきっと、私の届かない高みまで登っていくだろう。山々を見下ろす頂上に立った時、私が下から声援を送っているのが見えるはずだ」六年の歳月が流れ、再会した時には、石田局長は多くの随行員を引き連れ、学校視察という形で彼女の前に現れていた。夕月は子供たちを幼稚園に送った後、急ぎ足でショッピングモールへと向かった。今夜の冬真のパーティー用に、スーツを受け取らねばならない。それに合わせるネクタイとタイピンの選択も彼女の仕事だった。家政婦から今日の食材リストが送られてきて、夕月は一つ一つ細かく確認していく。今夜は義父母が食事に来るため、ふさわしい食器や装飾品も準備しなければならない。車の中でサンドイッチとコーヒーを口にしながら、シェフとの打ち合わせの電話をする。そんな時、ふと思い出した。今朝、校門前で六年ぶりに再会した石田書記のことを。かつて卒業する時、石田書記から贈られた言葉を、今では振り返る勇気すらない。その後も偶然出会うことはあったが、声をかける気力さえ持てなかった。あの頃、大きな期待を寄せられた天野夕月は、もういない。今の彼女は橘家の奥様であり、二人の子供の母親だ。石田局長との師弟関係は、すでに過去のものとなっていた。我に返ると、石田局長が穏やかな笑みを向けていた。「ALI数学コンテストで一位を取ったそうだね」「予選だけですから」夕月は謙遜して答えた。「おめでとう」石田局長は真摯な表情で告げた。橘家の奥様としてだけでなく、自分の人生を歩もうとする夕月の小さな一歩に、深い感慨を覚えているようだった。そして、集まった記者たちに向き直ると、「夕月のことを知
夕月は娘に優しく問いかけた。「瑛優、まだ桜井で学びたい?」瑛優は人だかりの中から、自分を切なげに見つめる古望時雨と橘望月の姿を探した。二人はすでに校内に入っていたはずなのに。しかし、校門前での騒動、園長の連行、そして規律監察部の捜査開始で状況は一変していた。主任や教師たちが次々と事情聴取に呼ばれている。特に園児たちは落ち着かない様子で、授業どころではなかった。何が起きているのか理解できないながらも、首を伸ばして校門の様子を覗き込み、珍しそうに騒ぎを見守っている。瑛優は先ほどの保護者たちを見据えて言った。「私とママにちゃんと謝ってくれたら、桜井に戻ってもいい」まだ五歳とは思えない凛とした態度。藤宮瑛優になってから、園の先生たち、友達、そして保護者たちがどれほど冷たい目を向けてきたか、痛いほど分かっていた。この保護者たちが園長に同調して、自分を追い出そうとした時の悲しみを、瑛優は忘れていなかった。何も悪いことはしていないのに。なぜ藤宮瑛優になることが、この人たちの目には、そんなに軽蔑すべきことなのだろう。「美優ちゃん」保護者たちは柔らかい声を装った。「私は藤宮瑛優です」保護者たちは口をすぼめ、毅然とした態度で娘を支持する夕月の姿を窺った。一人の保護者が小言を言いかけたような表情を浮かべたが、他の保護者たちに慌てて制止された。にこやかな笑顔を作り、深々と頭を下げる。「瑛優ちゃん、瑛優ママ、先ほどは申し訳ありませんでした。本当にごめんなさい!」「瑛優ちゃんには是非このまま桜井に残ってほしいの。うちの子も瑛優ちゃんの大切なお友達でしょう?別々になるのは寂しいわよね?」瑛優が一番心残りなのは、桜井で出会った大切な友達たちだった。「ママ」瑛優は夕月を見上げた。「どうしたら、皆が自分の間違いに気づいて、本当の気持ちで謝ってくれるの?」夕月は少し考えてから答えた。「そうね。皆さんSNSのアカウントをお持ちですよね。瑛優が今後、園で差別を受けないためにも、ご自身のアカウントで瑛優へのいじめの経緯と謝罪を投稿していただけませんか」すると、一人の母親が顔を強ばらせた。「私のSNSは数十万人のフォロワーが……」言い終わる前に、横から肘で突っつかれ、言葉を飲み込んだ。馬鹿じゃないの!サブアカウントを作って謝罪す
瑛優は両腕に望月と時雨を抱え込むと、くるくると回り始めた。「橘美優!!何してるの!早く私の娘を降ろしなさい!」橘京花の悲鳴のような声が響いた。しかし返ってきたのは、三人の女の子たちの弾けるような笑い声だけ。まるでハンマー投げのように二人を放り投げてしまわないか――そんな心配を抱きながら、夕月は優しく瑛優の背中を叩いた。「さあ、教室に行きましょう」瑛優が二人を下ろすと、望月と時雨の額には汗が浮かんでいたが、瑛優は息一つ乱れておらず、頬も上気していない。丸い黒い瞳が、夕月の手にある書類に注がれた。「私の学籍書類、もう取り出されちゃったけど、戻せるの?」「改名したでしょう?ママが来たのは、新しい名前で書類を書き直してもらうためよ」夕月は説明した。夕月はしゃがみ込んで、真剣な表情で娘に語りかけた。「瑛優、お友達と離れたくないという気持ち、ママは理解したわ。他のお母さんたちも少しは反省したでしょうけど、悠斗くんと同じクラスで……」「逃げないよ、ママ!」瑛優の瞳には強い決意が宿っていた。「悠斗くんに教えてあげる。私のこと、藤宮瑛優のことを、バカにしたり、いじめたりしちゃダメだって!」春の風のように優しい笑みを浮かべながら、夕月は「そう」と頷いた。これは娘が自分で選んだ道。夕月は娘に自由を与え、思う存分羽ばたかせてあげようと決めていた。瑛優は左手に望月を、右手に時雨を繋ぎ、三人の幼い姿が弾むように園内へと消えていった。夕月が振り返ると、そこには悠斗の姿があった。じっと自分を見つめる息子の瞳に気付く。母親の視線を感じ取るや否や、悠斗は素っ気なく顔を背けた。「ふん!」ママが仲直りしたがってるのは分かってるけど、僕だってそう簡単には許さないもん!「楓兄貴、バイバーイ!」悠斗は藤宮楓に向かって手を振った。「じゃあね、悠斗くん!お迎えは私とパパで来るからね」悠斗の表情が途端に明るくなる。やっぱり楓兄貴は最高だ!パパを説得して幼稚園までお迎えに来させられる人こそ、世界で一番すごい人なんだから!夕月はすでに息子から目を逸らしていた。「先生、お送りいたします」石田局長の後ろについて、公用車へと向かう。局長の口元に何やら意味深な笑みが浮かんだ。桐嶋のやつ、まるで隠せてないな、その想い!夕月に対してどのように
その声に社員たちの注目が一斉に集まった。「マジで?見せて!」「この専業主婦の下には、プリンストン大学やスタンフォード大学、カリフォルニア工科大の学生が並んでるぞ!」エレベーター内に驚愕の吐息が響き渡った。冬真の秘書も社員たちの話題に興味を引かれたが、より冷静な態度を保っていた。「きっと運営側のデータ入力ミスでしょう」秘書は冬真に向かって笑みを浮かべながら言った。「これまでALIの金賞受賞者と言えば、欧米帰りのエリートか、国内トップ校の著名な研究者ばかり。専業主婦が一位なんて、ALIの看板に傷をつけることになりますよ」その言葉が終わらないうちに、ある社員がスマートフォンの画面を覗き込みながら読み上げた。「予選一位は……藤宮夕月さん、27歳。花橋大学卒業後、七年間専業主婦として……」これはALI公式サイトで誰でも確認できる参加者情報だった。この注目度の高い数学コンテストは、大手企業への就職や一流大学院への進学の足がかりとなる。そのため、参加者は自身の経歴を公開し、企業や大学からのアプローチを待っているのだ。上位100名の中で、学部卒は藤宮夕月だけだった。他の参加者たちは毎年のように輝かしい受賞歴を持ち、留学経験や華々しい職歴を誇るなか、藤宮夕月の履歴だけが空白に近かった。七年の月日は「専業主婦」の四文字に集約されていた。秘書の頭の中が真っ白になった。「え、一位の名前は?」「藤宮夕月さんです。清水さん、こちらをご覧ください」社員が差し出したスマートフォンを、清水秘書は目を見開いて凝視した。まるで画面に穴が開くほどの勢いだ。「はは……」不自然な笑みを浮かべながら、「なんとも……興味深い偶然ですね」戦々恐々とした様子で冬真の方を窺う。冬真は記憶を辿った。夕月は確かに花橋大の出身で、その後七年間専業主婦として過ごしている。まさか本当に彼女なのか?「ありえない」その思いが頭をよぎった瞬間、冬真は即座にその可能性を否定した。十年前の夕月が人並み外れた知能を持つ天才少女だったことは認める。だが、数学から七年も遠ざかっていれば、記憶は確実に薄れているはずだ。今となっては高校数学さえ怪しいだろう。仮に今回のALI数学コンテストの予選首位が本当に夕月だとしたら、それは明らかに運営側の採点ミスとしか考えら
「もし先輩が博士課程を修了され、研究の道を選んでいたら……」高橋は深いため息をつく。「今頃は私などはるかに超える成果を上げていたはずです」「なんて恋愛脳なんでしょう!」「履歴書に『純愛貫徹七年』って書いた方が正確かもね」「天与の才能を持ちながら、それを家庭に捧げるなんて……」「でも、なぜ今になって数学コンテストに?」高橋も首を傾げながら、「いつか先輩と一緒に仕事ができる日が来ることを願っています」エレベーターを降りる高橋の背中を、社員たちの私語が追いかける。「急に数学コンテストって、きっと結婚生活に問題でも……」「旦那さんが応援してるんじゃないの?」「応援する気があったら、大学院まで行かせてたはずよ」「はぁ……男に尽くすだけじゃダメね。学も愛も手に入らず、結局自分で這い上がるしかないなんて」エレベーターを出た社員たちが呟く。「今日のエアコン効きすぎじゃない?」残されたのは冬真と清水秘書だけ。清水は恐る恐る上司の様子を窺っていた。やっぱり奥様だったんだ……清水は冷や汗を流しながら考えた。社員たちの命知らずな噂話、全部聞かれてたのに……冬真はスーツのポケットに片手を入れたまま、エレベーターを出て会議室へと足を向けた。待ち構えていた株主たちが、彼の姿を認めるや否や、一斉に歩み寄ってきた。「社長、おめでとうございます!奥様がALIコンテストで首位に立たれたそうですね!」「マスコミが大騒ぎですよ。桜国放送局の取材班がすでに動いているとか」「冬真君、他所に取られる前に、すぐにも会社に迎え入れるべきだ。まさか彼女がこれほどの数学の才能を秘めていたとは!開発部門に配属すれば、IBMの社長も我が社への信頼を一層深めてくれる。研究開発に1200億円の追加投資を約束してくれているんだ!」冬真が顔を上げると、会議室の大画面には時差を越えてM国の投資会社社長が映し出されていた。「冬真君、君の奥様が私が高給で雇った技術顧問を予選で打ち負かしたということで、重ねて祝福させてもらいたい」スクリーン越しでさえ、M国側の社長の態度が一変したことが見て取れた。周囲から祝福と期待の声が溢れる中、冬真の表情は相変わらず深い氷河のように冷たく、その胸中を読み取ることは誰にもできなかった。「予選に過ぎません」男は謙虚
インタビューが続く中、会議室は凍りついたような静寂に包まれた。その後のインタビューで、夕月は橘グループのことも、冬真の名前も、一言も口にしなかった。大画面の向こうで、IBMの社長が慣用句辞典を取り出した。彼は目当ての言葉を探し出す。「『言及に値しない』……ふむ、『取るに足らない』『論ずるに及ばない』という意味ですね。つまり、相手のことを完全に軽視する表現というわけか」「つまり、冬真君」IBMの社長は感嘆の声を上げた。「君は彼女にとって、もはや重要な存在ではないということだ」彼は両手を広げ、画面越しに会議室に立つ冬真を見つめた。「数学コンテスト首位の君の奥様が、『元夫』と呼ぶあなたと……本当に離婚されたのですか?」会議室の空気が一変した。他の株主たちも平静を失っていく。「社長、まさか本当に離婚を?」「全国放送で『元夫』と言われましたよ!本当に離婚したんですか?」「確か単なる離婚騒動だとおっしゃっていましたよね?これは……開発部門への採用の可能性は?」冬真の周りに冷気が漂い始めた。彼が何か言いかけた時、清水秘書が慌てて自分のスマートフォンを差し出した。「社長!奥様が……SNSで離婚を公表されました!」清水秘書の額に冷や汗が滲む様子にも気付かず、冬真は携帯の画面に映る夕月のSNSの投稿を凝視していた。一瞬にして男の顎先が鋼のように締まり、眉間に漂う気配は一層鋭利なものとなった。自分のスマートフォンを取り出した途端、はっとする。自分のアカウントでは夕月の投稿など見られるはずもない。とうの昔にブロックされているのだから。その時、冬真のアカウントには未読メッセージが溢れかえっていた。大半は妻のコンテスト優勝を祝う言葉。しかし、一部では夕月の離婚宣言を目にした人々からの問い合わせだった。本当に離婚したのかと。まるで見えない力に引き裂かれるような感覚が全身を包み込む。夕月の投稿のスクリーンショットを開くと、離婚証明書と共に一言が踊っていた。『人生最高の喜び』その一言が幾千もの針となって冬真の目を突き刺し、毛細血管を破り、生々しい痛みとなって全身を貫いた。クラシック・ローズ・ガーデン。桜都の名門夫人たちが集う優雅なアフタヌーンティーの会が開かれていた。今回の主催は橘大奥様ではなかっ
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付