LOGINそのとき、助手から凛のもとへ電話がかかってきた。今日の会議で約束していた取引先が、すでに到着しているという。凛を急かす電話だった。「すぐ行くから、二分だけ待って」会議に遅れそうになり、凛は蓮を見て、早く車を降りなければならない。ドアを開けるよう促した。ところが、彼は涼しい顔したまま、ロックを解除しょうとしない。これでは降りられない。焦る凛をよそに、蓮は余裕たっぷりの表情で彼女を見つめると、不意に手を伸ばした。「口紅、ついてる。それより、夜、俺を迎えに来てくれる?」どうやら今の蓮は、こうして凛に甘え、わざと困らせることも、すっかり味を占めてしまったようだっだ。昨日、少し駄々をこねてみたら、おもいのほかうまくいったらしい。凛は仕方なく、渋々答えた。「迎えに行くから、ここで降ろしてくれる?」「いい子だ」ようやくドアが開く。蓮は、彼女が車を飛び降りるようにして駆け出し、ビルへ向かっていく姿を、黙って見送った。マーメイドスカートが風をはらみ、裾がひらひらと舞う。その姿は、まるで一羽美しい蝶が羽ばたいているようだった。そしてその蝶は、彼の心へそっと舞い降りた。凛の姿が見えなくなってから、蓮はようやく車を発進させた。向かった先は、九条グループだった。湊は、自分のソファに悠々と座っている男を見るなり、手にしていた書類を投げつけた。蓮は片手で難なく受け止めた。「朝から俺のところへ来て、社員のプライバシーを調べろって?」「プライバシーってほどでもないだろ。そちらの社員が、自分の身の安全を守れないような目に遭ってるんだ。グループのトップなら、少しくらい気にかけてもいいんじゃないか?」湊は呆れたような顔で彼を見つめた。「俺が暇に見えるか?凛のことが心配なら、自分であいつの家の前に張り込め。俺まで巻き込むな」もしその社員の家が凛の向かいでなければ、蓮はそこまで事情を知ることはなかっただろう。まして、名前すら知らない社員を調べろなど、ここで堂々と言えるはずもない。そもそも、これは社員のプライベートな問題だ。本人が話さなければ、会社が勝手に調べるわけにはいかない。湊から見れば、蓮は明らかに別の目的があってここへ来ている。蓮はソファの上にあったルービックキューブを弄っている。4×4のキュ
隣人のほうが、ここに住んでいる年月は長かった。凛の戸惑った顔を見ると、駐車場で一緒に車を探しながら、世間話を話してくれた。「向かいに住んでる女の人、すごくいい仕事をしているから、このマンションの部屋も買えたのよ。その彼氏さんももともとは大手企業に勤めてたんだけど、何度も浮気するし、酒癖も悪いし、すぐ怒るの。それに今回が初めてじゃないわ。昨日の夜も警察が来てたでしょう?結局、少し注意されただけみたいだけど」凛は眉を寄せた。「初めてじゃないの?じゃあ、向かいの人は何か対策を取らないの?」「どう対策するの?自分で買った家だから、売って引っ越すわけにもいかないし。この辺の相場が一番高いときに買ったから、今の値段で売ったら、何千万の損になる。そんなの、誰だって手放せないわ。それに、あの男ときたら、ちょっと普通じゃないから。向かいの人は地元の人じゃないし、頼れる人もいないんじゃない?」凛はもうびくびくしている。「管理会社は何もしてくれないの?」「どうすればいいの?あの男もこのマンションの一階に部屋を持ってるから、住人なのよ。管理会社だって見て見ぬふりするしかないでしょう。それに、あくまで男女間のトラブルだし」隣人は自分の車を見つけると、凛に手を振って車に乗り込んだ。凛は頭が痛くなった。こういう厄介ごとは、どうにも苦手だった。紗月の家に行って数日泊めてもらおうか、それとも真理の家に転がり込もうか、そんなことまで考え始めていた。けれど、紗月はいま、朔と一緒に暮らしている。真理の家には子どもがいる。どちらへ行っても、邪魔になるだけだ。だからといって、急に一軒家を買うわけにもいかない。考えるだけで面倒だった。いきなり後から、男の声がした。「だったら、俺の家に住めば?」物思いに深く沈み、周囲の気配さえ忘れていた凛は、突然耳に届いた声に驚いて、細い肩を小さく震わせた。「まだ帰らないの?」「俺、どこに帰るんだ?」凛はしばらく黙った。そう言えば昨夜、二人は蓮の車で帰ってきたのだ。だから凛は、駐車場をいくらうろついていても、自分の車を見つけられなかった。やがて自分の駐車スペースの前に足を止めると、目の前に泊まっている車を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。「私の車じゃあないわ」確かに違う
宗介からすれば、妻はただ蓮と意地を張り合っているだけだった。琴子が電話を終えると、彼は手にしていた新聞をめくった。老眼鏡を押し上げながら言った。「昔、俺の両親は俺たちの結婚を許していなかったけれど、それでも俺は結婚しただろう? あいつが本気で誰かを好きになったのなら、お前が邪魔したって止めるのは無理だと思うぞ」彼女は腹を立て、手にしていたクッションを夫の顔めがけて投げつけた。この老いぼれが。年を取ったせいか、言うことまで嫌味になってきた。「あんたの両親は、あの頃うちの家柄が悪いから嫌がっていただけで、私が嫌われてたわけじゃないでしょう!」それはどうだか。宗介は心の中でそう思った。――あの頃、もし九条家の当主・九条行健が商売のために琴子の両親の力を借りる必要がなかったら、俺の両親に琴子との結婚を認めるよう働きかけることもなかっただろう。とはいえ、前の世代の入り組んだ事情は、下の世代の自分が簡単に説明できるものでもない。それに宗介も長年一家の主を務めてきた身だから、今さら昔の事情を明かしては、面目を失うことになる。それに話したところで、妻の機嫌を損ねるだけだ。どうせ俺が何をしても、妻のことはどうにもできないし、息子も言うことを聞くまい。彼は言った。「好きにすればいい。俺はもう知らん」琴子はしばらく言い合ったあと、また宗介に指図をし始めた。「明日、蓮の家へ行って。凛の痕跡が残っていないか見てきてほしい」宗介は両手を上げて降参した。「明日は友達と釣りに行く約束がある。お前も蓮を探しに行くのはやめたほうがいい。あいつに腹を立たせられたところで、俺は知らんぞ」琴子は何も言えなかった。この佐原家の男たちと何を話しても時間の無駄だ。やはり梨々花に、もっと積極的に動いてもらうしかない。翌朝。凛は起きて出勤の支度をした。今日は「àl'aube」でいくつか会議があり、「アンサンブル」でも新商品の企画会議が予定されている。何人もの顧客が待っていた。凛の家は広く、蓮は昨夜、客室で寝た。凛が起きた時、蓮はちょうどドア枠にもたれながら歯を磨いていた。凛は帰宅するついでに、生活用品を大量に買ってきていたので、たいていの物は揃っていた。ただ、男物の服だけはなかった。幸い、蓮は細かい
タトゥーはかなり大きく、前腕の大半と上腕の半分を覆っていた。「痛くなかったの?」「痛かったよ。あの時は部屋いっぱいに人がいて、次々と悲鳴を上げた。死ぬほど痛かった」この大きさのタトゥーを、蓮は何日にも分けてようやく完成させた。一流の彫師の腕だったが、それでもやはり痛かった。凛は手を伸ばし、そっと触れた。「痛いのに、どうして彫ったの?」「自分がまだ生きているって、確かめたかったから」彼の答えは、意外なものだった。凛の心は震えていた。別れてから、彼女の心もまた長い間、静まらなかった。目を閉じるたびに、蓮のことや、二人で過ごした日々が次々と浮かんだ。時には心が温かくなり、時には氷の洞窟へ落ちたように冷え切った。あの頃の蓮も、彼女と同じように苦しんでいた。蓮は続けた。「最初は、君がまだ家にいたから、よく会えたし、まだそんなにつらくなかった。でも君が学校へ行ってから、しょっちゅう胸が痛むようになった」「気にしなくていい。裏社会の仲間たちと一緒に彫ったんだ。みんな入れてる」ただ、選んだ図柄がそれぞれ違うだけだった。凛は下唇を噛んだ。このろくでなし。言うべきことも、言わなくていいことも、全部一気に話しておいて、今になって気にするなと言う。どうして気にせずにいられるの?私の心は、そんなに強くないのに……蓮が当時タトゥーを彫ったのも、裏社会の仲間たちが、生ける屍のようになっていた彼を見かねたからだった。男なら男らしいことでもすれば、あの冷たい女、凛のことも頭から追い出せるかもしれない。そう思ったのだろう。凛の心が揺れないはずもなかった。たとえこの図柄が彼女とは無関係で、そこに刻まれた名前もただの偶然だったとしても、それでも凛の心には波紋が広がった。いつまで経っても、心は静まらなかった。ちょうどその時、琴子から電話がかかってきた。電話の向こうから問い詰める声が響き、蓮がいつ帰ってくるのかと尋ねている。凛は立ち上がって、二人の電話の邪魔にならないよう離れようとしたが、しかし蓮に手首をつかまれ、引き留められた。蓮は平然と言った。「帰らないって言っただろ。母さんが用意した見合いにも行かない」「蓮、あんた正気なの?私を怒らせて死なせるつもり?」「先に俺を怒らせたのは母さ
蓮はそう言うと、ドアノブに手をかけたまま凛の返事を待った。帰れと言えば、本当にそのまま出ていきそうだった。今の二人はもう恋人ではなかった。別れた相手を泊めるのも妙な話だったが、このまま一人になるのは正直怖かった。外ではまだ男が向かいのドアを叩き、元恋人らしい女性の名前を何度も叫んでいた。凛は向かいの女性を一度だけ見かけたことがあった。年も背丈も凛とそれほど変わらず、たしか九条グループに勤めていたはずだった。あれだけ酔っていれば、凛を向かいの女性と見間違えてもおかしくなかった。迷った末、凛はそっと蓮の袖をつかんだ。「……行かないで」蓮はその言葉に満足そうに笑うと、そのままドアノブを回した。「ちょっと、何するの?」「大丈夫」蓮がドアを開けると、男は一瞬目を丸くし、すぐに怪訝そうな顔をした。「お前、あいつの新しい男か?」「部屋、間違えてるぞ。こんな時間に騒ぐなら、もう一回警察呼ぶからな」男は部屋番号を見上げ、向かいのドアと見比べた。「……ちっ、こっちじゃねえのか。だから何だよ。警察ならさっき来たけど、結局何もできなかっただろ」酒が入っているせいか、男はまだ強気なままだった。蓮は何も言わず、ポケットから煙草を取り出して火をつけ、そのまま袖をまくった。袖の下から、大きなタトゥーがのぞいた。凛が東都を離れていた二年の間に入れたものだった。以前なら、凛が嫌がりそうで、入れようとは思わなかった。けれど別れてからは、少しくらい痛いほうが、まだ気が紛れた。彫っている間も、蓮はほとんど顔色を変えなかった。男は煙草をくわえた蓮の腕を見ると、さすがに少しひるんだ。「こんなとこで騒いでも、どうにもならないだろ。まだ騒ぐなら俺が相手する。でも、彼女に迷惑かけるのはやめろ」男は一瞬言葉に詰まったが、まだ引く気はないらしかった。蓮は煙草をくわえたまま、淡々と言った。「その辺にしとけ。これ以上やるなら、こっちも黙ってないからな」さっきは警察に注意されただけで済んだせいで気が大きくなっていたようだが、今度はさすがに黙り込んだ。「分かったって。部屋、間違えただけだよ」そう言って男は向かいへ戻り、またドアを叩き始めた。蓮はドアにもたれたままスマホを取り出し、警察に電話するふりをした。
蓮は洗った食器を戻そうとして、棚の奥に見覚えのある皿を見つけた。手に取ってみると、色とりどりの模様で、小さなアライグマが描かれていた。蓮はその皿を手にしたまま凛のほうを向き、思わず口元を緩めた。「これ、凛が持ってたんだ?」その皿は、以前二人で出かけた時に、ふらりと立ち寄った陶芸工房で作ったものだった。見た目が気に入って作っただけで、普段使うことはほとんどなかった。別れてしばらく経った頃、蓮はふとあの時の皿を思い出し、家の中を探したことがあった。けれど、アライグマの皿だけはどうしても見つからなかった。凛が持っていったのかもしれないとは思ったが、あの時はほとんど何も持っていかなかった。だから、この皿だけ持っていったとは思わなかった。凛は少し気まずそうに目をそらした。「つい持ってきただけ。別に大したものじゃないし」別れた時、蓮にもらったバッグも服もアクセサリーも、ほとんど置いてきた。それなのに、この皿だけはなぜか置いていけなかった。あの日は二人で小さな町をぶらぶら歩き、食事をしたあと、たまたま見つけた陶芸工房に入った。そこで一緒に皿を作った。何か特別なことをしたわけでもないのに、あの日のことだけは今もよく覚えていた。凛は出来上がったアライグマの皿をあまり気に入っていなかったが、蓮はかわいいと言って喜んでいた。蓮は家で使うと言っていたが、凛は食事に使うのはやめたほうがいいと止めた。自分で作った皿なのだから、持ってきても別におかしくない。そう思っていたのに、蓮に見つかると、なぜか急に気まずくなった。凛が目をそらしても、蓮はまだ嬉しそうに笑っていた。この二年、こんなふうに心から笑うことはほとんどなかった。キッチンを片づけた蓮は、上着を手に玄関へ向かった。その時だった。すぐ向かいの部屋から、ドアを激しく叩く音が響いた。続いて男の怒鳴り声まで聞こえ、凛も思わず顔を上げた。蓮は玄関を少し開けて廊下の様子を確かめると、すぐにドアを閉めた。「男がいる。向かいの人か?」「分からない。私もここに戻ってきたばかりだから」二人が顔を見合わせている間にも、向かいでは男が何かでドアを叩き続けていた。凛の顔から血の気が引いていくのを見て、蓮は上着を置き、スマホを取り出して警察に電







