LOGIN蓮はそう言うと、ドアノブに手をかけたまま凛の返事を待った。帰れと言えば、本当にそのまま出ていきそうだった。今の二人はもう恋人ではなかった。別れた相手を泊めるのも妙な話だったが、このまま一人になるのは正直怖かった。外ではまだ男が向かいのドアを叩き、元恋人らしい女性の名前を何度も叫んでいた。凛は向かいの女性を一度だけ見かけたことがあった。年も背丈も凛とそれほど変わらず、たしか九条グループに勤めていたはずだった。あれだけ酔っていれば、凛を向かいの女性と見間違えてもおかしくなかった。迷った末、凛はそっと蓮の袖をつかんだ。「……行かないで」蓮はその言葉に満足そうに笑うと、そのままドアノブを回した。「ちょっと、何するの?」「大丈夫」蓮がドアを開けると、男は一瞬目を丸くし、すぐに怪訝そうな顔をした。「お前、あいつの新しい男か?」「部屋、間違えてるぞ。こんな時間に騒ぐなら、もう一回警察呼ぶからな」男は部屋番号を見上げ、向かいのドアと見比べた。「……ちっ、こっちじゃねえのか。だから何だよ。警察ならさっき来たけど、結局何もできなかっただろ」酒が入っているせいか、男はまだ強気なままだった。蓮は何も言わず、ポケットから煙草を取り出して火をつけ、そのまま袖をまくった。袖の下から、大きなタトゥーがのぞいた。凛が東都を離れていた二年の間に入れたものだった。以前なら、凛が嫌がりそうで、入れようとは思わなかった。けれど別れてからは、少しくらい痛いほうが、まだ気が紛れた。彫っている間も、蓮はほとんど顔色を変えなかった。男は煙草をくわえた蓮の腕を見ると、さすがに少しひるんだ。「こんなとこで騒いでも、どうにもならないだろ。まだ騒ぐなら俺が相手する。でも、彼女に迷惑かけるのはやめろ」男は一瞬言葉に詰まったが、まだ引く気はないらしかった。蓮は煙草をくわえたまま、淡々と言った。「その辺にしとけ。これ以上やるなら、こっちも黙ってないからな」さっきは警察に注意されただけで済んだせいで気が大きくなっていたようだが、今度はさすがに黙り込んだ。「分かったって。部屋、間違えただけだよ」そう言って男は向かいへ戻り、またドアを叩き始めた。蓮はドアにもたれたままスマホを取り出し、警察に電話するふりをした。
蓮は洗った食器を戻そうとして、棚の奥に見覚えのある皿を見つけた。手に取ってみると、色とりどりの模様で、小さなアライグマが描かれていた。蓮はその皿を手にしたまま凛のほうを向き、思わず口元を緩めた。「これ、凛が持ってたんだ?」その皿は、以前二人で出かけた時に、ふらりと立ち寄った陶芸工房で作ったものだった。見た目が気に入って作っただけで、普段使うことはほとんどなかった。別れてしばらく経った頃、蓮はふとあの時の皿を思い出し、家の中を探したことがあった。けれど、アライグマの皿だけはどうしても見つからなかった。凛が持っていったのかもしれないとは思ったが、あの時はほとんど何も持っていかなかった。だから、この皿だけ持っていったとは思わなかった。凛は少し気まずそうに目をそらした。「つい持ってきただけ。別に大したものじゃないし」別れた時、蓮にもらったバッグも服もアクセサリーも、ほとんど置いてきた。それなのに、この皿だけはなぜか置いていけなかった。あの日は二人で小さな町をぶらぶら歩き、食事をしたあと、たまたま見つけた陶芸工房に入った。そこで一緒に皿を作った。何か特別なことをしたわけでもないのに、あの日のことだけは今もよく覚えていた。凛は出来上がったアライグマの皿をあまり気に入っていなかったが、蓮はかわいいと言って喜んでいた。蓮は家で使うと言っていたが、凛は食事に使うのはやめたほうがいいと止めた。自分で作った皿なのだから、持ってきても別におかしくない。そう思っていたのに、蓮に見つかると、なぜか急に気まずくなった。凛が目をそらしても、蓮はまだ嬉しそうに笑っていた。この二年、こんなふうに心から笑うことはほとんどなかった。キッチンを片づけた蓮は、上着を手に玄関へ向かった。その時だった。すぐ向かいの部屋から、ドアを激しく叩く音が響いた。続いて男の怒鳴り声まで聞こえ、凛も思わず顔を上げた。蓮は玄関を少し開けて廊下の様子を確かめると、すぐにドアを閉めた。「男がいる。向かいの人か?」「分からない。私もここに戻ってきたばかりだから」二人が顔を見合わせている間にも、向かいでは男が何かでドアを叩き続けていた。凛の顔から血の気が引いていくのを見て、蓮は上着を置き、スマホを取り出して警察に電
蓮は凛の細い腰をしっかり抱え込み、そのまま離そうとしなかった。「キスくらい、だめなのか?忘れた?条件、まだあと五つ残ってるだろ」凛は一瞬、固まった。残っている五つの条件を、蓮が何に使うつもりなのか。凛も考えたことはあった。せいぜい、一緒にいてほしいと言われるくらいだと思っていた。まさか、こんなことに使われるとは思わなかった。凛が黙って視線を落とすと、蓮はその反応を見て、ふっと笑った。「こういうのは、どっちもその気じゃないと駄目だろ。さすがに無理やりどうこうする気はないよ」……本当だろうか。餃子を食べ終わっても帰ろうとせず、人の家でこんなことをしている蓮を見ていると、素直には信じられなかった。「じゃあ、離して」「……じゃあ、今のは撤回。まだ離したくない」蓮があっさり言い直したので、凛はもう何も言う気になれなかった。別れてから、蓮は誰とも付き合っていなかった。そういう気持ちがなくなったわけではない。ただ、誰でもよかったわけでもなかった。今も、触れたいと思う相手は凛だけだった。凛はこれ以上相手にせず、乱れた服を直しながら蓮の胸を押した。「キスもしたでしょ。もう帰って」「凛ってほんと冷たいな」そんなふうに甘い声で名前を呼ばれたら、事情を知らない人には、まだ付き合っているようにしか見えなかっただろう。蓮の指が腰をなぞり、服の裾から覗いた肌に触れるたび、凛の体が小さく震えた。「すぐ帰るよ。そんなに急かすなって」そう言ったあと、蓮は少し声を落とした。「母さんとのことをちゃんと片づけるまでは、これ以上凛を困らせるつもりはない。ただ、その間だけでいい。誰とも付き合わずに、俺を待っててくれないか?」いつもの余裕はなく、縋るような目で凛を見ていた。凛はすぐには何も言えなかった。「凛が戻ってきた時から、ずっとやり直したいと思ってた。でも、今のままじゃ、また同じことを繰り返すだけだって分かってる」だから蓮は、今度こそ先に母さんとのことをきちんと片づけるつもりだった。もう同じことで、凛を傷つけたくなかった。凛は小さく息を吐いた。「前より余裕あるように見えたのに、こういうところは変わってないね」「凛のことになると、余裕なんてなくなるよ」凛は何も言わず、そっと下唇を噛んだ
スーツケースの中には、それほど物は入っていなかった。荷物の大半は海外から別便で送ってあり、リビングの隅には大きな段ボールがいくつも置かれていた。税関で貼られたテープもそのままで、まだ一つも開けていなかった。帰ってきてからも仕事ばかりで、荷ほどきはほとんど進んでいなかった。今日、蓮が来なければ、キッチンを使うことすらなかっただろう。冷凍餃子は、この前真理とスーパーへ行った時についでに買ったものだった。美月が生まれてから、真理は子どもの世話だけでなく、自分の食事にも前より気を使うようになっていた。今では冷凍餃子やカップ麺も、家ではほとんど食べないらしい。その時は、そこまでしなくてもいいのにと思っていた。けれど、いざ蓮に出すとなると、冷凍餃子だけというのが急に物足りなく思えてきた。その間、蓮はスーツケースに残っていた服を畳み、蓋を閉じていた。キャスターの汚れまできれいに拭くと、ベランダ脇の収納棚の上にしまった。「ここに入れとくから。次使う時、忘れるなよ」そう言って手を洗うと、蓮は席についた。凛は自分の分は焼かず、蓮の分だけ皿に盛った。蓮が餃子を一つ口に入れた途端、思いきり顔をしかめた。「……酢、どれだけ入れた?」「入れすぎた?」蓮が酢のきいたたれを好きだったことは覚えていた。それで少し多めに入れたつもりだったが、どうやら加減を間違えたらしい。凛がたれの小皿を取ろうとした。「たれ、作り直すよ」「いい。これで食える」正直、かなり酸っぱかった。それでも、わざわざ作り直してもらう気にはなれなかった。何個か食べるうちに酸っぱさにも慣れ、空腹もようやく落ち着いた。蓮が食べ終わるのを見て、凛が口を開いた。「食べたなら、そろそろ帰ったら?健、まだ待ってるんじゃない?」凛が健を呼び捨てにしたのを聞いた蓮は、何も言わずに凛を引き寄せ、そのまま膝の上に座らせた。突然のことで凛が身を起こそうとすると、蓮の腕が腰に回った。そのまま顔を寄せ、額が触れるほど近くで凛を見つめた。「まだ俺のこと、気にしてるんだろ?」そうでなければ、わざわざ家に上げて、食事まで用意したりはしなかったはずだ。凛は顔をしかめた。「帰りに倒れられたら困るから。それだけ」「はいはい。そういうことに
隣の男は、さっきから何度も蓮に話を遮られていた。今度こそ言い返せると思ったのか、蓮に向かって口を開いた。「なあ、そこまで彼女に合わせなくてもいいだろ。結婚したら親と同居することだって珍しくないし、子どもができたら誰かに見てもらわないと困るだろ?」蓮は平然と答えた。「凛が子どもを望まないなら、俺が手術すればいい」男は思わず黙り込んだ。そんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。すると、隣にいた女性がとうとう立ち上がり、凛を見た。「その人、いい人だよ。逃したらもったいないよ」女性はそう言い残すと、見合い相手には目もくれず、足早に去っていった。彼女は途中から、見合い相手よりも隣の蓮の話が気になっていた。目の前の男は口を開けばうんざりするようなことばかりだったが、蓮の言うことはまるで逆だった。女性が去ると、男も慌てて立ち上がってあとを追いながら、蓮を振り返った。「なあ、そこまでしても、まだ振り向いてもらえてないのか?」蓮は笑った。「いいんだよ。俺はいつまででも待つから」男は呆れたように蓮を見たが、隣の凛に目をやると、今度は妙に納得したように口を閉じた。二人が去ると、ベンチには凛と蓮だけが残った。しばらく会話はなく、時折、子どもが目の前を走り抜け、そのあとを親が慌てて追っていった。そんな中、蓮がぽつりと言った。「母さんが勧める相手と結婚する気はないよ。俺だって、自分の人生くらい自分で決めたい。母さんとは、これから先もたぶん何度も揉めると思う。凛が俺に選ばせたくないっていうなら、それでいい。でも、俺の中では最初から決まってるんだよ。今までもずっと、凛だった」蓮は昔から、凛のことになると迷わなかった。何があっても、凛の側に立ってきた。凛は何も言えず、黙っていた。しばらくして、蓮は立ち上がり、服についた花びらを軽く払った。「そろそろ帰ろう。遅くなってきたし、風も出てきた」「うん」凛も立ち上がり、蓮のあとを歩いた。少し前を歩く蓮の背中が、どこか寂しそうに見えた。それを見て、凛はふと思い出した。蓮はさっき、ろくに食べないまま自分を追いかけてきたのだった。まだお腹が空いているはずだった。「蓮」呼ぶと、蓮が足を止めて振り返った。街灯の下で、何も
二人は空いているベンチに腰を下ろしたが、間には一人分ほどの隙間があった。並んで座っているのに、親に勧められて仕事帰りにとりあえず会ってみた男女のように、どこかよそよそしかった。しかも隣のベンチには、ちょうどそんな雰囲気の二人が座っていた。どうやら見合いらしく、男性のほうがさっきから一人で話し続けていた。その内容が聞こえてくるたび、凛は思わず笑いそうになった。せっかく会っているのに、店にも入らず公園のベンチで話しているあたり、あまりうまくいきそうには見えなかった。蓮が横を見ると、凛は少し身をかがめ、口元を手で押さえて笑いをこらえていた。ちょうどその時、隣の男性の声がまた聞こえてきた。「こういうのは、あんまり時間かけないほうがいいと思うよ。男だって、いつまでも待ってられないし。学校も、今さら通う必要ある?」それを聞いた蓮が、いきなり口を開いた。「凛が留学してた時、会いに行ったことがある」隣の男は話の途中で口をつぐみ、驚いたように蓮を見た。凛も笑うのをやめた。「……会いに来てたの?全然知らなかった」「言うつもりなかったから。留学はもともと凛が自分で決めてたことだろ。前は俺と付き合ってたせいで、自分のやりたいことまで迷ってたし、また俺のことで悩ませたくなかった」会いに来たことを知れば、凛はきっと気にする。そうなれば、せっかく留学したのに、また自分のことで悩ませてしまう。蓮はそう思って、何も知らせなかった。ただ、会いたかった。それで顔を見に行っただけだった。隣の男はしばらく黙っていたが、気まずくなったのか、やがてまた相手の女性に話しかけた。「勉強したいのは分かるけど、結婚したら家庭のことも考えてほしいんだよね。仕事はしないで、家で子どもの面倒を見てくれればいいし」すると蓮が、凛のほうを見て言った。「仕事には口を出してないよ。『ドルフィン2』のチップは別だけど、それ以外は何もしてない」凛は蓮を見た。「本当に?海外で販路を広げてた時も?」「あれは手伝ったうちに入らないよ。俺が何もしなくても、湊なら遥のこともあるし、放っておかなかった。俺はちょっと間に入っただけ」やっぱりそうだった。去年、海外で仕事がうまく進まず困っていた時、突然ある人から連絡が来て、助けてもらったことがあっ