FAZER LOGIN手術室の扉は再び閉ざされた。赤いランプだけが、変わらず点灯している。梨沙は隣に立つ礼都を見上げ、かすれた声で言った。「ありがとうございます、土岐さん。本当に、助けてくださって......このご恩は、必ずお返ししますから......」礼都は彼女を見つめたまま、表情をほとんど変えなかった。梨沙はさらに口を開きかける。「土岐さん、先に――」だが言葉は途中で途切れた。胸の奥にずっと押し込めていた熱が、もう限界まで達していた。連日の精神的な重圧。積み重なった疲労。抑え込み続けた怒りと悲しみ。そのすべてが血液の中で渦巻き、一気に噴き出した。「ごほっ......ごほ、ごほっ――」梨沙の顔色が変わる。彼女は急に身体を折り曲げ、激しく咳き込んだかと思うと、次の瞬間、暗赤色の血を吐き出した。視界がぐにゃりと歪む。周囲の音も遠ざかっていく。世界が回転するような感覚の中、糸の切れた人形のように身体が崩れ落ちた。――けれど、床に叩きつけられる痛みは来なかった。倒れ込む寸前、力強い腕が彼女の身体を支えたのだ。梨沙は全身から熱が失われたように冷たく、目を閉じたまま顔色も真っ白だった。唇の端には、まだ鮮やかな血が残っている。礼都は眉を深く寄せ、そのまま梨沙を横抱きにすると、足早に救急処置室へ向かった。――「梨沙、やっと目が覚めた」聞き慣れた声に、梨沙の焦点の合わなかった瞳がゆっくりと定まる。「......どうしてあなたが?」海渡は慎重に彼女の手を握った。「無理に動かないで。まだ点滴中だ。おばあちゃんの手術はまだ終わってないけど、悪い知らせがないってことは、きっと大丈夫だよ。医者の話じゃ、最近過度な精神的ストレスのせいで、急性胃潰瘍を起こして吐血したらしい。ちゃんと休まなきゃ駄目だぞ」梨沙は静かに自分の手を引き抜いた。海渡は申し訳なさそうに言う。「おばあちゃんがあんな重体だなんて思わなかったんだ。あの時は会社で急用があって、君の話をちゃんと聞けなかった。本当にごめん。おばあちゃんが目を覚ましたら、俺、謝りに行くよ」梨沙は海渡を見つめた。その目は空虚だった。怒りすら、あの吐血と一緒に吐き尽くしてしまったかのように。残っているのは、冷え切った麻痺だけ。彼
そう言い残して。海渡は電話を切った。「もしもし、海渡?海渡!」返ってきたのは、冷たい通話終了音だけだった。梨沙はスマホを握ったまま、その場に立ち尽くす。耳の奥で、ぶうん、と耳鳴りが響いていた。胸の中にぽっかりと大穴が開き、そこへ冷たい風が一気に吹き込んでくるようだった。身体の芯まで凍りついていく。けれど、梨沙には悲しんでいる暇も、怒っている暇もなかった。祖母は今、生死の境をさまよっている。自分がしっかりしなければ。祖母を助けなければ。この世で、自分を本当に気にかけてくれる家族は、もう祖母しかいないのだから。――誰に頼ればいい?そのとき、梨沙の脳裏に浮かんだのは、真希子だった。まるで最後の命綱に縋るように、彼女は急いで電話をかける。「真希子さん......祖母が倒れて、危険な状態なんです。病院では比嘉先生に執刀してもらうのが一番成功率が高いって......どうか助けてください......!」真希子は意外そうに声を漏らした。「助けたくないわけじゃないの。ただ、比嘉家は土岐家を後ろ盾にしている医者の名門よ。普通の人間じゃ、そう簡単に繋がりは持てない。私だって比嘉家の奥様と一度顔を合わせた程度なの」梨沙はかすれた声で「そうですか......失礼しました」とだけ言い、すぐ電話を切った。――比嘉家は土岐家を後ろ盾にしている。土岐家。土岐礼都。梨沙は顔を片手で乱暴に拭い、深く息を吸って気持ちを落ち着かせる。そして震える指で、礼都の番号を押した。呼び出し音が鳴るたび、張り詰めた神経が削られていく。――お願い......出て......自動で切れそうになった、その寸前。電話が繋がった。「もしもし」低く落ち着いた男の声。その瞬間、梨沙は口元を押さえた。涙がまた溢れそうになる。「土岐さん......私です、秋谷梨沙です。急にお電話してすみません......祖母が今、病院で救急搬送されていて、すぐに手術が必要なんです......病院では比嘉、比嘉柊治先生が一番成功率が高いって......でも、どうしても連絡が取れなくて......お願いです、助けてください......」最後には完全に涙声になっていた。熱い涙が手の甲へ落ちる。梨沙は返事を待った。可能
ドンッ!鈍く重たい音が響いた。頭蓋が大理石の床に叩きつけられたような、ぞっとする音だった。「おばあちゃん!!」梨沙は狂ったように駆け下り、膝を床へ強く打ちつける。震える両手で千鶴のぐったりした身体を抱き起こした。「おばあちゃん、しっかりして......!」声は震え、まともな形にならない。涙がぼろぼろと落ちていく。――スマホ......スマホはどこ?救急車を呼ばなきゃ。梨沙はポケットを必死に探り、スマホを取り出すと、震える指で通話ボタンを押した。「救急です!祖母が階段から落ちて意識がありません!お願いです、すぐ来てください......!住所は都北の......」明里の身体がぴくりと強張った。手すりを握る両手に力がこもる。胸の奥に、じわりと恐怖が広がった。――あのババア、死なないよね......?次の瞬間、鋭く冷たい視線が、憎悪と嫌悪を剥き出しにして明里へ突き刺さる。明里の心臓が一瞬止まりそうになり、反射的に顔を上げた。梨沙は涙に濡れた目で彼女を睨み据え、しゃがれた声で一言ずつ吐き出す。「......おばあちゃんに何かあったら、私は絶対、あんたを殺す」――冷え切った病院の廊下。鼻を刺す消毒液の匂いが濃く漂っている。梨沙は一人、通路脇のプラスチック椅子に座っていた。「手術中」と灯る赤いランプが、焼けるように彼女の目を照らしている。やがて大西が望を連れてやって来た。梨沙の補聴器も持ってきている。大西がいると、梨沙は無意識に補聴器を耳へつけた。その時、手術室の扉が開き、深緑の手術着を着た医師が出てきた。「秋谷千鶴さんのご家族は?」梨沙は弾かれたように立ち上がる。「わ、私です!孫娘です!祖母は......祖母は大丈夫なんですか!?」医師は無駄な前置きをせず、端的に告げた。「搬送時、非常に危険な状態でした。ご家族はご存じかと思いますが、患者さんには心臓の持病があります。今回の外的衝撃によって、急性の広範囲心筋虚血と重度の不整脈――つまり急性心筋梗塞を起こしています」その一言一言が、氷の塊のように梨沙の胸へ叩きつけられる。足の力が抜け、今にも医師の前に跪きそうになった。「そ、そんな......どうすれば......?お願いです、祖母を助けて
梨沙はきょとんとした顔で彼女を見た。「何言ってるのか聞こえないんだけど。手、離して」明里はくすりと笑った。「さっき外で電話してた時、補聴器つけてなかったの、私ちゃんと見たんだから。その芝居やめたら?いったい何を隠してるの?耳が聞こえるようになったなんて大事なこと、どうして海渡さんに黙るの?」梨沙はまつ毛を震わせながら目を伏せ、唇の端にかすかな笑みすら浮かべた。そして空いている方の手で明里の手を払いのける。「耳の聞こえない人相手に延々しゃべり続けるなんて、そんなに友達いないの?」明里は梨沙の目をじっと睨みつけた。「まだしらばっくれるつもり?」梨沙は呆れたような視線を向け、そのまま階段を下りようとする。だが明里は苛立ったように再び立ちはだかり、顔が触れそうなほど近づいてきた。勝ち誇ったような笑みを浮かべる。「じゃあ教えてあげる。海渡さん、あなたが年寄りと結婚してたこと、ずっと気にしてるの。潔癖症だからね。真夜中に車飛ばして私のところに来て抱く方が、あなたに触るよりマシなんだって。どうして海渡さんがあなたと結婚したかわかる?一つは恩知らずって言われたくなかったから。二つ目は、あなたの弟が私を庇って植物状態になったから、哀れに思ったから。三つ目は、真希子さんが彼の力が大きくなりすぎるのを警戒してたからよ。後ろ盾のない障害者のあなたを妻にしておけば、安心できたってわけ」言えば言うほど、明里の笑みは深くなっていく。「実は海渡さん、性欲めちゃくちゃ強いの。毎晩私を求めてくるんだから。新婚初夜だって、私たち二人、あなたの部屋のバルコニーで汗だくになって――」パァン!鋭い音が響いた。梨沙の平手が、容赦なく明里の頬を打ち抜いたのだ。顔は勢いよく横を向き、白い肌には赤く腫れた指の跡がくっきり浮かぶ。けれど明里は怒るどころか、顔を戻す前から高笑いした。「ついにボロ出したわね......!」ぎらついた目で梨沙を見つめる。「やっぱり聞こえてるんじゃない!」梨沙は痺れる手を引っ込めた。表情はなおも冷えきったまま。「どいて」明里は梨沙を掴み、無理やり階下へ引っ張る。「今すぐ海渡さんのところへ行って、耳が聞こえるくせに嘘ついてたって、全部バラしてやるんだから!」二人は階段口でもみ合いになっ
「奥様のお身体はずっと無理にその設定へ適応しようとしていたんです。そのせいで、本来適正な数値が、逆に奥様の許容範囲から外れてしまった。ですから、少しずつ慣れていく必要があります」梨沙は、ようやく腑に落ちたような表情を浮かべた。「......そういうことだったんですね」村上は頷きながら、梨沙たち親子を出口まで送り出す。「これは飛田さんが大金をかけて、奥様専用に作らせたものなんですよ。もしこれでも駄目なら、市販の補聴器はもうどれも使えないでしょう。まずは慣れてみてください。本当に耐えられないようなら、その時また別の方法を考えましょう」梨沙は素直に「わかりました」と答えた。診察室を出る。望の手を引きながら、梨沙は静かに言った。「ありがとうございます、村上先生。先生のように素晴らしい方がなさったことのすべてが、いつか必ずご自分に返ってくると、私は信じてます」村上の目元がぴくりと引きつった。笑顔が徐々にぎこちなくなる。「......当然のことをしたまでです。お気をつけて」梨沙を見送ると、村上は診察室へ戻る前に待ちきれない様子でスマホを取り出し、銀行の入金通知を確認した。――1000万円、入金済み。――医師免許を失う危険まで冒して海渡に協力しているのだ。報酬が少ないはずがない。そして海渡がこれほど気前よく金をばら撒ける以上、必ず別の収入源がある。しかも、その資産は本人名義ではなく、「彼が心から信頼している誰か」の名義に置かれているはずだ。海渡が最も信頼している相手は誰なのか。専属秘書の草場?それとも――明里?梨沙の頭の中はぐちゃぐちゃだった。絡まり合った糸のように、どう整理しても答えが見えない。ぼんやりしたまま車を走らせ、ようやく家へ戻る。車を停め、シートベルトを外したとき。スマホが鳴った。電話を終えてから、望を連れて車を降りる。望は小さな手で雪を受け止めながら、幼い声で笑った。「今年の雪、いっぱいだ!」親子二人が門をくぐったその時。少し離れた場所に停まっていたラズベリーピンクの車の中で、明里はようやく梨沙から視線を外した。彼女は片手でこめかみを押さえながら、必死に思い返す。さっき梨沙が車内で電話していた時、補聴器をつけていなかったのでは?
村上はカルテを女性医師へ手渡した。「はい、これで」女性医師は慌ただしく診察室を出ていった。その後、村上は落ち着いた様子でスマホを取り上げ、一件の電話をかける。「――飛田さんですか。奥様が、お子さんの人工内耳手術前の検査でこちらへ来ていますよ」村上は、海渡に電話をしている。梨沙の耳がぴくりと動いた。彼女はそっとスマホの録音機能を起動すると、何事もない顔でそのまま手話で望と会話を続けた。そして村上の声を、一言一句聞き逃さないよう耳に刻み込む。「本当に困ります。これ以上、奥様の補聴器のパラメータを上げれば、心身への悪影響が出ます。酷い場合は耳の奥に慢性的な痛みが出たり、聴神経が完全に破壊されて、二度と人工内耳手術ができなくなる可能性だってあります。飛田さん、私は医者です。これはお金の問題では――ははは、さすが飛田さん、気前がいい。では、その条件で」梨沙は爪が食い込むほど強く手のひらを握り締めた。胸の奥から、焼けつくような怒りが噴き上がる。全身が震えた。――全部、嘘だった。後天性難聴だから人工内耳手術ができないというのも。体質的に特殊で、補聴器にアレルギー反応を起こすというのも。全部、嘘。海渡は医師と結託して、彼女を一生「無音の世界」に閉じ込めようとしていたのだ。この人でなし。声にならない怒りが瞳の奥で燃え上がり、梨沙は吐き気を催すほどだった。青白い指先を震わせながら、彼女は補聴器を耳につけ直す。村上はその様子を横目で確認すると、慌てて電話を切った。「奥様、おめでとうございます。望くんは一か月後には人工内耳手術を受けられます。そうなれば、もう補聴器に頼らなくても音が聞けるようになりますよ」梨沙は必死に顔の筋肉を制御し、どうにか嬉しそうな笑みを浮かべた。「よかった。ありがとうございます!」村上はにこやかに手招きする。「そうだ、前に飛田さんとお会いした時、奥様の補聴器から雑音がすることが多くて、集中できずお困りだと伺いましてね。おそらく設定値が合っていないのでしょう。私が調整して差し上げます」梨沙は片手で耳に触れながら、まっすぐ村上を見つめた。「ありがとうございます、村上先生。でも先生......私は、本当に人工内耳手術を受けられないんですか?」慈愛深そう







