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第188話

Author: 玉酒
エンペラーグラブでの一件は、やはり華子の耳から逃れることはできなかった。

京市というこの地では、陸川家の情報網は隅々にまで張り巡らされている。言ってしまえば、この街全体が華子の掌中にあるようなものだ。

あとは、彼女が「知りたい」と思うかどうかだけだ。

朝早く、美穂は激しいノックの音に目を覚ました。ドアを開けると、そこには華子が二人の使用人を連れて立っていた。

「おばあ様……?」美穂は少し呆然としながら、寝起きのかすれた声で問うた。「どうしてこちらに?」

「あなたの様子を見に来たのよ」華子はそのまま玄関を通り抜け、少し赤くなった目で彼女の手を取ってリビングへ向かった。

部屋をぐるりと見渡すと、眉をひそめてため息をついた。「たとえ和彦と別々に暮らすとしてもね、自分をこんなに粗末に扱うものじゃないわ。こんな狭いところ、まともなお茶室もないじゃないの」

美穂は一瞬言葉を失った。

この三百平方メートルを超える最上階のマンションは、窓の外に京市の夜景が一望でき、リビングだけでも普通の家の倍はある。

けれど、陸川家の豪奢な本家で暮らしてきた華子にとっては、確かに質素で窮屈に映るのかもしれない。

「私はここが気に入ってます」美穂は穏やかに微笑み、華子をソファに座らせると、峯に【お客様来訪】のメッセージを送った。

「おばあ様、今日はどういったご用件で?」

その言葉に、華子はようやく本題を思い出したように立ち上がり、美穂の肩や背を優しく撫で、二、三度回らせた。

何の怪我もないことを確かめると、張り詰めていた肩の力がふっと抜けた。

「一昨日の夜、エンペラーグラブに行っていたんだって?危ない目に遭ったそうじゃない」華子の声には厳しさよりも、心配の色が濃かった。「会社の者が妙な動きをする秘書に気づいて、調べてくれたから分かったのよ。あなた、私に黙っているつもりだったの?」

美穂は少し驚き、胸の奥が温かくなった。

彼女は華子の手をそっと包み込んだ。「本当にごめんなさい。大したことじゃなかったから、心配をかけたくなかったんです」

「馬鹿な子ね。あなたのことが『大したことじゃない』なんて、済むわけがないでしょう」華子は逆に彼女の手を握り返した。「あなたは私の孫嫁なのよ。何かあったら、私が一番に知って当然じゃない」

「私の落ち度です、ごめんなさい」美穂は両手を上げ
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