LOGIN「別れよう」 自分の声とは思えないほど、それは酷く冷たく、凪いでいた。 月のモノが重く、下腹部を締め付けるような痛みに耐えていた私のため、恋人の結城陸斗(ゆうき りくと)は「温かいものでも買ってくるよ」と部屋を出た。……はずだった。 しかし、彼が持ち帰ってきたミルクティーは、すっかり冷めきっていたのだ。 理由を問う私、須永紬希(すなが つむぎ)に対し、陸斗は悪びれもせずに言い放つ。 「途中で美紅に会ってさ。あいつも温かいのが飲みたいって言うから譲ったんだ。お前はぬるくても平気だろ?」 白川美紅(しらかわ みく)――彼が昔から甘やかしている女友達。 窓の外で十一月の木枯らしが吹く中、私ははっきりと悟ってしまった。 この3年間、陸斗が私と美紅を天秤にかけ、私を優先してくれたことなどただの一度もなかったのだと。 その事実を突きつけられた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、ぷつんと切れた。 「別れよう」 再びそう告げると、陸斗は呆れたように鼻で笑った。 「はいはい、またそれか。今度はどのSNSをブロックする気だよ?どうせすぐ機嫌を直すくせに」 彼は、私がただの痴話喧嘩で拗ねているだけだと思っている。 でも、彼は知らない。 別れを切り出すより前に、私が海の向こうにある最高学府への特別留学枠を勝ち取っていることを。 ええ、ブロックなんて面倒なことはもうしない。 今度こそ、私はあなたから完全に離れるのだから。
View Moreこれ以上言葉を投げても、彼と会話が噛み合うことは一生ないだろう。どっと深い徒労感が湧き上がってきた、その時だった。「紬希。荷物、持とうか」氷のようにひんやりとした、けれど穏やかで心地よい声が割って入った。エントランスの入り口から姿を現したのは、ファイルを手にした琉生先輩だった。どうやら彼も、同じマンションの自室からラボへ向かうところだったらしい。彼は私の横に並んで重いエコバッグをさっと引き取ると、冷徹を極めた視線で陸斗を一瞥した。それから、何事もなかったかのように私へ視線を戻す。「プロジェクトのデータに少し気になる点があってね。悪いが、今すぐ議論したいんだが」それはまるで、前から待ち合わせの約束をしていたかのような、あまりにも自然で完璧なアシストだった。私は琉生先輩に小さく頷き、陸斗に向かって手短に告げた。「これから予定があるから。申し訳ないけど、帰ってちょうだい」そして、私はごく自然な流れで琉生先輩と共に振り返り、ラボへ向かって歩き出した。陸斗は、雷に打たれたように呆然とその場に立ち尽くしていた。私が見知らぬ男の隣に並び、彼から離れていく背中を見つめる。その表情に浮かんでいたのは、強烈な驚愕と、不完全燃焼の怒り。――そして、自分がついに「私の生きる世界」から完全に締め出されたのだという、絶望的な敗北感だった。その後も、陸斗は一、二度ほど大学周辺で待ち伏せたりしていたようだが、私は彼を完全に空気として扱い、視界に入れすらしなかった。私の日常は、高度な講義、手強い実験、そして論文執筆でみっちりと埋め尽くされている。合間には琉生先輩と研究のディスカッションを交わしたり、カフェテリアで向かい合ってランチをとったり。同じ目標に向かって並び立ち、互いの能力を認め合いながら切磋琢磨するうちに、彼との関係は少しずつ、確かな熱を帯びていった。琉生先輩は相変わらず口数は少ないけれど、研究においてはこの上なく的確な道筋を指し示してくれるし、私が壁にぶつかった時には、いつも何も言わずに手を差し伸べてくれる。その静かで温かい思いやりは、いつしか単なる「同じ研究チームの仲間」という一線を越え始めていた。彼もまた、陸斗が私の周囲をうろついていることに感づいていたらしい。ある日、私は琉生先輩がマンションの
彼は何度も何度も問い詰めてくる。【どうしてなんだ】【たかがミルクティー一杯と、数回美紅のことを優先したくらいで、どうしてこの3年間の愛情と、二人で思い描いた未来をあんなにもあっさり見捨てられるんだ】と。過去の楽しかった思い出を引き合いに出し、【俺たちは一緒に未来へ進むはずだったじゃないか】と、最後には哀願するような言葉まで綴られていた。私はその長い画面を無表情でスクロールし、淡々と返信を打った。【私が必要としていたのは、対等に尊重され、誰よりも一番に優先されることでした。いつまでも誰かの後回しにされることではありません。私たちの望む未来は既に枝分かれしており、私は自分にとって最も適した環境を選びました。ただそれだけのことです。どうかお元気で。返信は不要です】すぐに彼からのメッセージが跳ね返ってきた。激しく感情を乱しているようで、【お前は損得勘定だけの冷酷な女だ】【最初から俺を捨てる計画だったんだろ!】と、ヒステリックな非難の言葉が並んでいた。もう、そのメールを開くことはなかった。……トップクラスの大学院での学業は、想像以上に過酷だった。課題の締め切りに追われるあまり、食事の時間を削り、シリアルバーや冷たいサンドイッチで適当に空腹を紛らわせる日々が続くことも少なくなかった。同じ研究プロジェクトのチーム内に、久我琉生(くが るい)という、私と同じ母国から留学してきている先輩がいた。少し近寄りがたいクールで無口なタイプだが、研究能力は極めて高く、気難しい教授からも一番の教え子として一目置かれている人だ。同じ実験プロジェクトに配属されたことで、私たちは少しずつ接点を持つようになった。彼は私がよくラボに籠もりきりになり、食事を抜いていることに気づいていたようだ。ある日。徹夜による寝不足と空腹で、私が胃の痛みを堪えながらパソコンのデータを処理していた時のことだ。たまたま外から戻ってきた琉生先輩が、片手に紙袋を下げたまま、何気ない足取りで私のデスクのそばへやって来た。そして、コトリと静かにその紙袋を置いた。「ついでに買ってきた。少し買いすぎたから」彼はそれだけ言い残し、さっさと自分の席へ戻っていった。中を覗き込むと、そこにはテイクアウト用のデリボックスと、湯気が立つほど温かいホットスープが
電話の向こうは、もはやパニック状態の騒ぎになっていた。私は一切の表情を崩すことなくスッと通話終了のボタンをタップし――その電話番号も、迷うことなくブラックリストへ放り込んだ。それから約2時間後。搭乗を知らせるアナウンスがロビーに響き渡った。私は小さく深呼吸をしてから、保安検査場へと向かった。無事に手荷物検査を終え、いざ搭乗ゲートへ向かって歩き出そうとした――その時だった。背後から、空港の静寂を切り裂くようなひどく切羽詰まった足音と、大声で私の名前を呼ぶ声が聞こえてきたのだ。「紬希!紬希、待てっ!!」足を止める。聞き慣れたはずのその声は、ひっくり返ったように歪んでいて、まるで別人のようだった。振り返ると、出発ロビーのど真ん中を周囲の目も憚らずに猛ダッシュしてくる陸斗の姿があった。髪はボサボサに乱れ、目は血走って真っ赤に充血している。着ていたジャケットのボタンは引きちぎれんばかりに開け放たれ、狂気を孕んだその姿はひどく惨めで、ボロボロだった。彼はそのまま保安検査場のパーテーションを突破して私に飛びかかろうとしたが、間一髪で警備員たちに羽交い絞めにされて取り押さえられた。陸斗は私から少し離れた場所で警備員に押さえつけられながら、血眼になって私を睨みつけた。その瞳には、驚愕、怒り、そして今にも崩れ落ちそうなほどの絶望など、あらゆる感情がぐちゃぐちゃに入り混じっていた。「紬希!!」彼は喉が裂けそうな声で叫んだ。「留学するってどういうことだ!?大学院の内部進学はどうしたんだよ!本気で全部諦める気か!?ちょっとした喧嘩のことで?たかがミルクティー一杯のことで!?美紅のせいだけで、俺たちの未来を捨てる気かよ!?お前、どうかしてるぞ!!」その取り乱した姿を見た瞬間、私はふと、彼をひどく哀れに思った。今のこの期に及んでさえ、彼は私が去る理由を「たかがミルクティー」と「美紅」のせいだと思い込んでいるのだ。私の積み重ねてきた失望や、すり減らしてきた心には、未だに一ミリも思い当たらないらしい。「陸斗」私はどこまでも冷ややかに、ただ事実だけを口にした。「私たちは最初から、見ている世界も歩む道も違っていた。ただそれだけのことよ。――院試、頑張ってね」淡々とした私の態度が、彼の神経を完全に逆撫でした
またこのパターンだ。果たすべき責任、義理、理解してほしいという訴え、そして「自分だって辛くて疲れている」という主張。まるでこの関係において、必死に歩み寄りながら、常に相手から蔑ろにされてきた可哀想な被害者が、彼自身であるかのように語るのだから恐れ入る。もはや彼との間で、無意味な言い争いをする気にもなれなかった。何の解決にもならない、ただ気力をすり減らすだけの不毛な時間でしかない。「そうね、あなたの言う通りだわ。すごく疲れるわね」私は静かに頷いた。「だから、これからはもう私に気を揉んで疲れる必要はないわ。それじゃあ、さようなら」私が構わず歩き出そうとすると、彼はついに取り繕う余裕すらなくしたのか、背後から思いつく限りの罵声を浴びせかけてきた。「ふざけんな!そうやって意地張って自滅しろ!俺が受かって、お前が落ちて泣きを見たって、絶対に後悔するなよ!!」最後の最後まで、彼は私の価値を「この大学院に合格できるかどうか」で測り、そして無意識のうちに「紬希は絶対に俺よりも劣っている」と見下しているのだ。私は呆れ果て、振り返ることすら馬鹿馬鹿しかった。後悔?ええ、本当に後悔しているわ。もっと早くに目を覚まして、手放しておけばよかったと心底悔やんでいる。私のパソコンには、海を越えた先にある世界最高峰の学府からの入学許可証が届いている。もっと広大で、美しい世界が私を待っているのだから。彼のその虚勢に満ちた脅し文句は――まるで、これから見知らぬ大地へと旅立とうとしている旅人に向かって、プラスチックのおもちゃの剣を振り回して威嚇している子供のように、ただただ滑稽で、ひどくちっぽけに感じられた。数日後。無事に留学ビザが下りた私は、荷造りを済ませ、寮の退去手続きなどを淡々とこなし始めた。一方の陸斗は、未だに私が意地を張っているのだと思い込んでいたらしい。共通の知人をあえて使い、「陸斗と美紅がますますいい雰囲気だ」とわざとらしくほのめかしてきた。私の気を引いて嫉妬させようとする見え透いた手口だったが、私はそのすべてを適当に受け流した。そして迎えた、出発の日。私はすでに空港の出発ロビーに到着していた。不意にスマートフォンが震える。見知らぬ番号からの着信だった。無視して切ろうとしたが、つい指が滑って
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