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第29話

Author: 小貝あい
これまで揺るがない自信を支えにしてきた綾音だったが――この瞬間、胸に残っていたのは苦い自嘲だけだった。

恒生は自分を必要としている。そう信じて疑わなかった。けれど尚弥は、たった一人の人材を引き抜くだけで、自分の立場を簡単に置き換えられる状況を作ってしまった。

これは単なる人事の話ではない。まるで――最初から周到に準備された包囲討伐のようだった。

その指揮を取っているのが薫だとしたら。

松崎家の「娘」として育てられた彼女の影響力が、尚弥の意思決定にまで及んでいるのだとしたら。

胸の奥が静かに冷えていく。もう、この席にいる意味が分からなかった。綾音は箸を置き、立ち上がる。

「すみません。用事がありますので、お先に失礼します」

バッグとコートを手に取り、そのまま店の外へ出た。

店の入り口に差しかかったところで――背後から声が届く。

「俺も一緒に帰る」

振り向くと、照明の下を歩いてくる尚弥が見えた。ちょうど上着を羽織りながら、ボタンを留めているところだった。薄暗い灯りの中でも、その整った輪郭ははっきり分かる。

この顔を――綾音は何度も見つめてきた。

結婚式の日のことも思
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    「つまり――」綾音は静かに口を開いた。だが声の温度だけが、わずかに下がっていた。「松崎家のリソースを使って薫さんの道を整え、たとえ経営上のリスクが残っても、彼女に松崎家に残る理由を作りたい――そういうことだね」尚弥は即答した。「そうだ」その迷いのなさが、かえって胸に響く。「……分かった」綾音は短く言った。長年寄り添ってきた義理の姉への配慮だと思えば――理解できないわけではない。尚弥はその返事を聞いた瞬間、目に見えて肩の力を抜いた。空気が少しだけ緩む。だが次の言葉は予想外だった。「ただし」綾音はハンドルを握ったまま続けた。「株式の補填とは別に、もう二つ条件を飲んでもらう」尚弥が少し驚いたように顔を向ける。「いいだろう。聞かせてくれ」綾音は昔から争わない性格だった。優しくて、それでいて芯が強い。尚弥が最も評価していた部分でもある。だからこそ、無理なことを口に出すとは思っていなかった。車内は静かだった。尚弥は酒が回っていたこともあり、綾音の言葉を待ちながら目を閉じた。だが結局、彼女は何も言わなかった。そのまま車は二人の自宅へと戻る。家の前に差しかかると――階段のところに小さな影が見えた。はるかだった。薄手の上着を肩に掛け、発光する魔法のステッキを握ったまま、灯りをつけたり消したりして遊んでいる。車のライトに気づいた瞬間、小さな顔がぱっと明るくなった。車を止め、綾音がドアを開けるより早く尚弥が外に出る。次の瞬間、はるかはその胸に飛び込んでいた。「パパ、おかえり!どうしてママの車で帰ってきたの?」「今日はね、少しお酒を飲んだから」尚弥の声は自然と柔らかくなる。はるかは小さな手で父の肩を軽く叩いた。「もうお酒飲んじゃだめだよ。ちゃんと約束して?」まるで大人のように父を説教する。尚弥は笑って答える。「分かった。次は少なめにね」尚弥とはるかは並んで玄関へ向かって歩いていく。その背中を見ながら――綾音の胸の奥がじりじりと焼けるように痛んだ。今すぐ離婚届を突きつけてしまいたい。けれど、はるかの父を見る目に、揺るぎのない信頼があった。そのすべてが、綾音の足を止めてしまう。バッグを握る手に、自然と力が入った。リビングに入ると、尚弥はソファに座り、はるかのスケッチブックを見ていた。「すごいな。はるかち

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    これまで揺るがない自信を支えにしてきた綾音だったが――この瞬間、胸に残っていたのは苦い自嘲だけだった。恒生は自分を必要としている。そう信じて疑わなかった。けれど尚弥は、たった一人の人材を引き抜くだけで、自分の立場を簡単に置き換えられる状況を作ってしまった。これは単なる人事の話ではない。まるで――最初から周到に準備された包囲討伐のようだった。その指揮を取っているのが薫だとしたら。松崎家の「娘」として育てられた彼女の影響力が、尚弥の意思決定にまで及んでいるのだとしたら。胸の奥が静かに冷えていく。もう、この席にいる意味が分からなかった。綾音は箸を置き、立ち上がる。「すみません。用事がありますので、お先に失礼します」バッグとコートを手に取り、そのまま店の外へ出た。店の入り口に差しかかったところで――背後から声が届く。「俺も一緒に帰る」振り向くと、照明の下を歩いてくる尚弥が見えた。ちょうど上着を羽織りながら、ボタンを留めているところだった。薄暗い灯りの中でも、その整った輪郭ははっきり分かる。この顔を――綾音は何度も見つめてきた。結婚式の日のことも思い出す。ヴェールの向こうから見たその姿に、胸がいっぱいになって、ただ嬉しくて仕方がなかった。まるで夢みたいだと思っていた。だからこそ、言葉は少しだけ硬くなる。「ご自分の車でお帰りください」尚弥はわずかに眉を寄せた。「どうした?まだ碓氷さんの件で怒ってるのか?」綾音は答えない。そのまま足早に路肩に停めてある自分の車へ向かった。だが尚弥は迷いなく助手席側へ回り込み、ドアを開けて乗り込んできた。エンジンをかけた直後、低い声が隣から届く。「恒生グループは、管理体制を再編する必要がある」綾音の手が、わずかにハンドルを握りしめる。尚弥は続けた。「永康未来は独立した体系になるのだ。啓太くんは勢いはあるが経験が足りない。だから――お前に行ってほしい」視線を前に向けたまま、淡々と説明する。「会社全体の方向性を管理して、資源配分を調整する。投資判断がグループ戦略から逸れないようにする役割だ」綾音は顔を向けた。それは――啓太が昼に提案してきた話と同じだった。尚弥は眉間を軽く押さえた。「それと……薫さんの件だが」声は変わらず静かだった。「またおばあさまに何か言われた

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    啓太たち一行が実験エリアを去ったあとも、綾音の胸のざわめきは収まらなかった。気持ちを落ち着けるようにマグカップを手に取り、そのまま執務室へ戻る。扉を閉めると、壁にもたれた。遼の性格はよく知っている。待遇がいいからという理由だけで研究機関を離れ、収益性を追求する企業に入るような人ではない。もし彼が恒生に来たのだとしたら――尚弥が、それだけの条件を提示したということだ。窓の外は強い午後の日差しに満ちていた。けれど綾音の胸の内には、冷たいものが広がっていく。その夜、遼の歓迎会は、会社近くの居酒屋で開かれた。主催は尚弥だった。長テーブルの真ん中には尚弥が座る。その左に啓太、薫、そして恒生の幹部たちが続く配置だった。綾音が店に入った瞬間、啓太がすぐ立ち上がる。「綾音さん、こちらへどうぞ」視線を向けたその先に尚弥がいて、思わず足が止まりそうになる。グループ全体を統括する立場の尚弥にとって、恒生は最優先の事業ではない。それなのに、技術責任者一人の歓迎会に自ら顔を出すとは――予想外だった。そのとき薫が立ち上がった。「綾音、こっちに座る?」落ち着いた所作で席を譲ろうとする。仕事着ではない。淡い桃色のベルベットのロングドレスに身を包み、ゆるく巻いた髪を肩に落としている。柔らかく整えられたメイクと相まって、まるでこの場の主役のような空気をまとっていた。「いえ、ここで大丈夫です」綾音は研究開発副本部長の隣の席に腰を下ろした。――来るべきではなかったかもしれないと思う。啓太は「気軽な食事会」だと言っていた。遼とは旧知の間柄でもあるから、専門の話でもできるだろうと。だが今の空気は違う。この場の主役は、すでに別の人に変わっている。薫が何かを話している。身体を少し尚弥の方へ傾け、小声で言葉を交わしていた。白く細い指先で口元を半分隠しながら話すその仕草に、尚弥も低い声で応じる。二人のあいだに流れる空気は自然だった。まるで、そこだけ別の空間が成立しているように。綾音は視線を落とした。食事が始まると、話題の中心は自然と会社の事業計画へ移っていった。遼は多くを語らない。質問されたときだけ、簡潔で無駄のない言葉で答える。その姿勢は昔と変わらない。一方で、場の流れを完全に掌握していたのは啓太だった。技術の話題を軽やかに転が

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