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風邪と、限界

Auteur: 影畑凛星
last update Date de publication: 2026-04-13 18:12:46

朝から体が重かった。

喉の奥がざらつき、頭がぼんやりと痛む。

それでもいつものように早朝に起き、涼の朝食を準備した。

焼き鮭と味噌汁、丁寧に炊いたご飯。

唯は自分の分を少しだけとって、食欲がないのを無理に誤魔化しながら箸を動かした。

「今日は少し休めば大丈夫かな……」

自分に言い聞かせて、涼を見送った。

ドアが閉まった瞬間、唯は壁に手をついてよろめいた。

熱っぽい。

体温を測ると、すでに38度を超えていた。

午後に入り、熱はみるみる上がった。

39度5分。

唯はベッドに横になり、震える手でスマホを握った。

涼に電話をかける。

コールが数回鳴った後、低い声が返ってきた。

「どうした」

涼さん……ごめんなさい。熱がすごく高くて……39度を超えてるんです。帰ってきてもらえませんか……」

短い沈黙。

続く涼の声は変わらず冷ややかだった。

「大事な会議がある。夜遅くなる。薬を飲んで寝ておけ」

「でも……一人で……」

「無理なら救急車を呼べ。俺は無理だ」

電話は一方的に切れた。

唯はスマホを胸に押し当て、唇を噛んだ。

涙がにじんできたが、すぐに拭った。

「仕方ない。大事な仕事があるんだから……」と自分に言い聞かせ、フラフラと立ち上がって薬箱から解熱剤を探した。

水で薬を飲み、ベッドに戻る。

体が熱いのに、なぜか寒気が止まらない。

布団を何枚も重ねても、歯がカチカチと鳴る。

頭が痛くて、思考がまとまらない。

唯は小さくうずくまり、膝を抱えた。

「一人で……こんなに辛いなんて」

結婚して三年。

風邪を引いたことは何度かあったが、涼がそばにいてくれた記憶は一度もない。

いつも「大事な仕事がある」「会議が押している」の一言で終わっていた。

唯は目を閉じ、結婚前の自分を思い浮かべた。

当時は体調を崩しても、仕事仲間が心配して連絡をくれたり、親友の美咲が食べ物を届けてくれたりした。

今は違う。

この広い家の中で、唯は完全に一人だった。

夜が更け、熱は40度近くまで上がっていた。

唯は朦朧とする意識の中で、何度もトイレに起き、冷たい水で額を冷やした。

体が震えて、指先が思うように動かない。

「このまま倒れたら……誰も気づかないのかな」

そんな暗い考えが頭をよぎった瞬間、インターホンが小さく鳴った。

唯は這うようにして玄関へ向かった。

ドアを開けると、宅配ボックスに大きな紙袋が入っていた。

差出人は「匿名」。

中には信頼できる病院の往診医師の連絡先メモ、解熱剤と胃薬の追加分、そして栄養が取れるおかゆとスポーツドリンク、ゼリー飲料が丁寧に詰められていた。

唯は袋を抱えてベッドに戻り、医師に連絡した。

30分ほどで信頼できる若い女医が到着し、点滴と診察をしてくれた。

「かなり高熱ですね。脱水症状も出始めています。安静にして、こまめに水分を取ってください。明日も熱が下がらなければ、必ず病院へ」

医師が帰った後、唯は温かいおかゆを少しだけ食べ、薬を飲んだ。

体が少し楽になった気がした。

ベッドに横になりながら、唯は紙袋をそっと見つめた。

「……誰かが、気にかけてくれている」

高級ハーブティー、アロマキャンドル、そして今日の往診と栄養食。

すべて匿名。

唯の体調不良を、誰かが知っていて、手を差し伸べてくれている。

その事実に、微かな温かさが胸に広がった。

「ありがとう……誰かわからないけど」

唯は小さく呟き、目を閉じた。

熱でぼんやりする意識の中で、初めて「一人じゃないのかもしれない」という思いがよぎった。

でも、それが誰なのかはまだわからなかった。

そして夜が明け、朝の七時頃。

唯はゆっくりと目を覚ました。

熱は38度前半まで下がっていた。

体はまだ重いが、昨夜よりはマシだ。

唯はベッドの中で小さく呟いた。

「……もう、限界かも」

声はとても小さかった。

でも、その言葉は唯の心の奥底から自然と零れ落ちた。

冷たい結婚生活、孤独な夜、夫の無関心。

そして、誰かの見えない優しさ。

すべてが混ざり合い、唯の心を静かに、しかし確実に追い詰めていた。

唯は天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。

「このままじゃ……本当に壊れてしまう」

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