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すれ違いばかり

Author: 影畑凛星
last update publish date: 2026-04-11 17:54:33

涼が朝に珍しく「今日は少し早く帰る」と短いLINEを送ってきた日だった。

唯は、その一文を見て胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

結婚して三年。

こんな風に「早く帰る」と連絡が来ることはほとんどなかった。

唯は朝食の準備をしながら、今日は少しだけ特別にしようと心に決めた。

キッチンで丁寧に野菜を切り、涼の好きな煮込み料理の下ごしらえを進める。

午前中はリビングのソファカバーを洗い、窓ガラスをピカピカに磨いた。

花瓶には白いバラを活け、照明の位置まで調整してドラマチックな演出になるように気を遣った。

(今日は少し話ができるかもしれない)

そんな淡い期待が、唯の心を軽やかにしていた。

それなのに、夕方六時を過ぎても、涼からの追加連絡はない。

唯はエプロンを外し、軽くメイクを直してソファに座った。

時計の針が七時を回り、八時になっても玄関の鍵が開く音はしなかった。

唯はスマホを何度も確認したが、画面は変わらず暗いままだった。

八時半を少し過ぎた頃、ようやくドアが開く音がした。

「おかえりなさい、涼さん」

唯は明るい笑顔を作って玄関へ駆け寄った。

涼はコートを唯に預けながら、疲れた様子で一言だけ返した。

「ああ」

唯はコートをハンガーにかけながら、そっと声をかけた。

「今日は少し早いんですね。夕食の準備はもうできてますよ。一緒に食べませんか?」

涼はすでに書斎の方へ歩き始めながら、振り返ることなく答えた。

「置いておいてくれ。後で食べる」

書斎のドアが閉まる重い音が響いた。

唯は一人、ダイニングテーブルに並べた温かい料理を眺めたまま立ち尽くした。

料理の湯気がゆっくりと消えていく。

期待していた温かな時間は、またしてもすり抜けていった。

唯は静かに椅子に腰を下ろし、涼の分の料理を丁寧にラップで覆った。

自分の分だけを少し取り分け、フォークを手に取った。

味はいつも通り丁寧に作ったはずなのに、今日は特に無味無臭のように感じられた。

口に運ぶたび、胸の奥が少しずつ締め付けられていく。

「どうして……一緒に食べられないんだろう」

唯は結婚前の自分を思い出した。

フリーランスのデザイナーとして忙しく働いていた頃、涼との打ち合わせで初めて会ったとき。

冷たい視線の中に、少しだけ興味のようなものが感じられた気がした。

プロポーズの言葉も「君なら問題ないだろう」だった。

あのとき、唯はそれを「信頼されている」とポジティブに受け止めた。

でも今は、それがただの「便利な妻」としての評価だったと、痛いほどわかっていた。

夜十時を過ぎ、ようやく書斎のドアが開いた。

唯は慌てて温め直した料理をテーブルに並べた。

「涼さん、お疲れ様です。どうぞ召し上がってください」

涼は無言で席に着き、箸を動かし始めた。

表情はいつも通り無感情で、ただ機械的に食べているだけだった。

唯は少し離れた椅子に座り、夫の横顔をじっと見つめた。

ネクタイを緩めた首元、疲れの残る目元。

話しかけたい言葉が喉まで出かかったが、唯はぐっと飲み込んだ。

勇気を出して、唯は小さく声をかけた。

「今日……少し早く帰れるって連絡をくれたから、嬉しかったんです。久しぶりに一緒に食事ができたらいいなと思って……」

涼は箸を止めることなく、淡々とした声で答えた。

「会議が早く終わっただけだ。期待しないでくれ」

その言葉が、唯の胸に冷たく突き刺さった。

「期待しないで」——唯はそんなつもりではなかったのに。

ただ、少しでも夫婦らしい時間が欲しかっただけなのに。

食事が終わると、涼はすぐに寝室へ向かった。

唯が後片付けを終えて寝室に入ると、涼はすでにベッドに横になり、目を閉じていた。

唯はそっと自分のスペースに横になり、暗い天井を見つめた。

隣にいるはずの夫の体温が、なぜか遠く感じる。

唯は枕に顔を埋め、静かに涙を堪えた。

「愛されてる実感が……全くない」

ベッドの中で、唯の心は静かに、しかし確実にすり減っていくのを感じていた。

広い部屋に、唯の小さな息遣いだけが響いていた。

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