Se connecter10分ほど経った頃、運転手が車で迎えにきた。美羽が乗り込み目的地を告げると、車は走り出した。だが、ちょうど帰宅ラッシュの時間帯と重なり、道はひどい渋滞だ。1時間近くかかって、ようやく北条家の本邸に到着した。車を降り、美羽は邸宅の正門へと歩いていくと、一台のロールスロイスがゆっくりと門を通るのが見えた。それが誰の車か、一目で分かった。美羽は淡々とした気持ちで視線を外し、大股で前へと進んだ。翔平が先んじてリビングの中へと入っていく。ちょうど美羽が軒先に差し掛かった時だ。リビングから、柚葉の嬉しそうな声が聞こえてきた。「パパ!なんでイヴリンさんと一緒に来なかったの?パパがお迎えに行く約束だったんでしょ?」「……」美羽は使用人に促され、家の中へ続く廊下を進んだ。翔平は柚葉を抱きかかえている。リビングで弾んでいた楽しげな談笑が、部屋に入ってきた美羽を見た瞬間、ぱたりと止まった。美羽を見つけた時、その場にいる人々の表情が、一斉に複雑なものに変わったのだ。翔平は柚葉を抱えたまま、振り返って美羽を見た。美羽を見つけた柚葉の表情が、一段と輝く。「イヴリンさん!」柚葉が手を伸ばして、抱っこをせがむ。美羽が近づき、翔平の腕からそっと柚葉を受け取った。柚葉は美羽の首に抱きつき、甘えるようにすり寄ってくる。美羽はその髪を優しく撫でた。「いい子だね」仲睦まじい二人の様子を、リビングの全員が見つめていた。美羽が部屋に入ったその時だった。日和は、驚きのあまり思考が停止していた。だが柚葉の反応を見て、ようやく合点がいったのだ。この女性が美羽だったのか。この5年という年月は、人の雰囲気すらも大きく変えてしまうものだ。以前の美羽だとは、到底気づかなかった。今の美羽なら、翔平の隣に立っていても釣り合っている。美羽が柚葉を下ろすと、柚葉は彼女の手を取り、ソファの方へ案内しながら誰かを紹介しようとした。美羽が歩み寄ると、玲が言った。「おじいさんが話していた大切なお客様っていうのは、イヴリンさんだったんですね。ようこそ」美羽は玲に穏やかに笑いかけた。「ありがとうございます」美羽は隣の席を勧められた。そちらへ向かい、ごく自然に腰を下ろした。真奈美が美羽に気づき、丁寧に挨拶をす
「今日は忙しいから、柚葉ちゃんと一緒にいられないの」「……」その後、子供たちは先生と一緒に幼稚園の中へ入っていった。美羽は横にいる翔平を無視し、隆に向かって言った。「先生、行きましょう」隆は静かに頷いた。二人は背を向け、車に乗り込んだ。隆が切り出した。「大輔から聞いたよ。昨夜、中山社長に会ったそうだな。話はどうだった?」その話題になると、美羽は言いようのない重苦しさと怒りを感じた。彼女は深く息を吐き出し、事の経緯を隆に説明した。隆が言った。「本当に婚姻関係を世間に公表するつもりなのか?」美羽はため息を深く吐き出した。「もちろん、そんなことはしたくないです」公表すれば事態はますますややこしくなり、今井家まで巻き込みかねない。昨日の発言は、翔平というクズに対する当てつけに過ぎなかった。だが、あの男の「勝った」と言わんばかりの高飛車な態度を思い出すだけで、腹の虫が治まらないのだ。隆が続けた。「それを公にしても、向こうの評判を落とすだけで、離婚裁判で有利になるとは限らない。中山社長は長期戦も厭わないだろう。柚葉ちゃんにとっても悪影響だよ」美羽もそれは分かっている。今、彼女の心身は極限まで削られていた。隆は美羽を横目で見やり、諭した。「まずは第一審の判決を待とう。後のことはすべて郷田先生に任せるんだ。中山社長のペースに振り回されて、自分の心まで乱されないように」美羽は力なく頷いた。隆の言う通りだ。翔平に感情を揺さぶられるままの現状から、抜け出さなければならない。隆と話した後、美羽の心はいくらか軽くなった。今日の仕事を片付ける。昼過ぎ、悠斗からランチに誘う連絡が入った。美羽は断った。「まだ山のように仕事が残ってるの。週末まで待って」彼女の弾んだ声を聞き、悠斗は安心したようだった。「分かった。じゃあ、週末は一緒にバーベキューに行こう」美羽は快諾した。「ええ、いいわよ」さて、夜は北条家へ行く予定だったが、本当は断る口実を考えていた。だがその時、急に勲からの着信があった。「今夜の食事会に、翔平が柚葉ちゃんを連れてくる。美羽さんも来なさい」美羽は戸惑った。勲は笑い飛ばす。「何を怖がる必要がある?今日は誰にも、お前に無礼な態度など取らせん」美羽は苦笑いを漏らす。「北条先生が
結局、隆は手を引くと、くるりと背を向けて上の階へと戻っていった。戻ってきた彼の姿を見て、紗良が声をかける。「ずいぶん早いわね。何か話したの?」隆は歩み寄りながら言った。「とりあえず今日は、美羽さんを一人にして冷静にさせておこうと思って」紗良は溜息をついた。「お兄ちゃん、本当にもどかしいよ。もっとビシッとしてよ。美羽が一番寂しくて誰かに頼りたい時なのに、なんで尻込みしちゃうの?」「いいから。その話はまた明日の朝にでもしよう」紗良は困ったように肩をすくめた。美羽はその晩、一睡もできなかった。彼女は起き上がり、キッチンへ行って水を汲んだ。すると、インターホンが鳴った。コップを置いてドアを開けると、そこには隆が立っていた。「先生?」隆は美羽のやつれた顔色を見て尋ねた。「昨晩は眠れなかったのか?」美羽は小さく頷いた。「ええ、ちょっと」「支度をしたら、上がって朝食を食べよう」「はい」今日はさすがに、顔色がすぐれない。美羽はメイクを整え、出かける準備をして上の隆の家へ向かった。「美羽、早く来て!お兄ちゃんが朝からキッチンに立つなんて、珍しいんだから!」と紗良が忙しなく声をかける。「美羽さん、おはよう」と詩音が美羽に挨拶する。美羽が近づいて詩音の小さな頭を撫で、隣の席に座った。食卓に並ぶ豪華な朝ごはんを見て、思わず笑みがこぼれる。「今日は朝からごちそうが食べられるわね」隆は普段、使用人に任せていて料理をすることは少ない。だが彼の料理の腕前は相当なもので、美羽も何度か味わったことがある。隆はご飯をよそって差し出すと、「さあ、たくさん食べろ」と言った。一晩中何も食べていなかったこともあり、お腹がすいていた美羽は心底、美味しいと感じた。側には人がいて、詩音がいてくれるおかげで、辛い現実を少しの間だけ忘れられた。食後。「お兄ちゃん、美羽。詩音を幼稚園まで送るの、お願いね!」紗良は朝食の残りを詰め込んだ弁当袋を持ちながら出かけようとしている。美羽は彼女の目的をすぐに察した。「それを持ってどこへ行くつもり?」これから涼太に届けに行くのだ。紗良は笑いながら答えた。「そんな、お兄ちゃんが作ったものは私が作ったものと一緒だもの」そもそも紗良の料理なんて到底口にできるものではなく、イ
悠斗はそれ以上、何も聞かなかった。大輔が近寄ってきて、「美羽さん、大丈夫か?」と声をかけた。「ええ、大丈夫です」「夕飯まだだろう?よかったら俺のところで食べていかないか?」美羽は答えた。「陣内さん、お誘いありがとうございます。でも今は何も食べる気がしなくて……帰らせてもらいます」大輔は小さく頷いた。「そうか。それなら、ゆっくり休んでくれ」やがて悠斗が車を回してきた。大輔と別れ、美羽を乗せてその場をあとにした。帰り道、美羽はシートに力なく背中を預け、ただ窓の外を眺めていた。その表情には何も読み取れなかった。悠斗は心配そうに横目で美羽を見た。翔平との話し合いが上手くいかなかったのは明らかだった。悠斗はあえて口を開かず、静かにハンドルを握った。美羽は今井家には戻らず、そのまま青凪郷へ直行した。今の状態で帰れば、家族に無駄な心配をかけてしまう。車を降りると、悠斗が声をかける。「美羽、本当に大丈夫か?俺が今夜付き添ってやろうか」美羽は弱々しく微笑んだ。「ありがとう。大丈夫だよ。今は一人で静かにしていたいだけなの。心配しないで」悠斗は無理に引き止めることはしなかった。「そうか。今日はもう疲れただろう。早めに休め。すべて、きっと良くなるから」美羽は小さく応え、マンションの中へ消えていった。その寂しげな背中を見送る悠斗には、思わず車を降りて美羽を強く抱きしめたいという衝動がこみ上げた。そのまま、美羽の姿が完全に見えなくなるまで見送った。悠斗はゆっくりと視線を外し、車を出した。帰宅した美羽は、一人、リビングのソファに深く腰を下ろした。部屋には明かりを灯さなかった。窓の外から最後の夕日が消え、部屋の中は暗闇に包まれた。美羽はただ、じっとしていた。そのとき、スマホにビデオ通話の着信音が響いた。美羽は画面を一目見ると、起き上がってスイッチを押した。明るくなった部屋で、通話ボタンを押す。画面には、可愛らしい柚葉の顔が映し出された。「イヴリンさん!」明るい声を聞くと、沈んでいた心がふっと軽くなった。まるで闇に光が差し込んだように、美羽は安堵のため息をついた。柚葉は宿題をチェックしてほしいと、画面に向かって一生懸命見せてきた。美羽はしっかりと柚葉の勉強ぶりを褒めた。宿題の話
翔平が言い放った。「選択肢を二つやろう。一つは、柚葉をしっかり世話して母親としての責任を果たすことだ。もし法廷で争いたいなら付き合ってやる。もう一つは、今すぐA国へ帰り、二度と戻ってこないことだ。そうすれば柚葉は、母親なんて最初からいなかったものとして育つだろう」ガシャン!美羽がテーブルのボトルを叩き割り、中身が翔平のズボンの裾を汚した。彼女は怒りに震える声で叫んだ。「いい加減にして!」翔平は表情ひとつ変えず、光を吸い込むような深い漆黒の瞳で、逆上する美羽を静かに見つめ返した。彼はタバコを取り出して火を点けると、深く吸い込み、吐き出した白い煙にその身を包んだ。骨の髄まで染みついた非情で冷淡な空気を漂わせ、翔平は視線を上げた。「感情的になるのは構わないが、限度を考えろ」美羽は彼を睨みつけ、荒い呼吸を繰り返した。そして唐突に皮肉な笑みを浮かべた。「ねえ、翔平。あなたは本当に柚葉を愛しているの?それとも、最初から愛していたのは、自分だけだった?」翔平は答えた。「俺は柚葉を見捨てない。あの子にひもじい思いなんてさせない」「そう?じゃあ白石さんと結婚する気はないわけ?一生、愛人にするつもり?」美羽が冷ややかに問い詰める。翔平の瞳にわずかな揺らぎが走り、彼は淡々と言った。「瑠衣の件はお前が首を突っ込むことじゃない」美羽は指先が白くなるほど強く拳を握り、込み上げる感情を押し殺しながら深く息を吐いた。「だったら、いいわ。あなたが柚葉のことを考えるなら、私たちが入籍していることを公表して。できないなら、私がバラすわ」今の界隈で、翔平と瑠衣のただならぬ関係を知らない者はいない。白石家の令嬢が不倫関係にあること、翔平が既婚者であること。これが露見すれば天嶺には大きな打撃となり、名誉を重んじる中山家への影響も計り知れない。セレブ同士の泥沼の実態は、表に出なければいつも完璧で近寄りがたい輝きを放っている。だがひとたび裁かれれば、秘められたすべての裏側が鋭い刃となって彼らに突き刺さるのだ。白石家だって、娘が不倫女の烙印を押されるのを黙って見過ごすはずがない。翔平の視線がわずかに鋭くなった。微塵も動じなかった眼差しが、ようやく変化を見せた。「俺を脅す気か?」美羽が冷ややかに笑う。「やっと脅威だと認めた?予想外のことね。全てをコントロ
悠斗は美羽が去っていく背中を見つめ、どうしても気がかりでならなかった。彼はスマホを取り出し大輔に電話をかけた。こうして近くに自分がいれば、少しは安心できる気がしたからだ。大輔から教えられた暗証番号を入力し、悠斗はそのまま大輔の家へ入った。美羽が邸内に入る。翠と恵は美羽の姿を見て息をのんだ。こんな時間にどうして帰ってきたのか?美羽の険しい表情とただならぬ気迫に、二人は言葉にできない後ろめたさを感じ、思わず距離を置いた。美羽はバッグを置き、ソファに腰を下ろすと、スマホで翔平に電話をかけた。電話はすぐに繋がった。「何の用だ?」美羽は言った。「今日、柚葉をあなたのお母さんのところに送って。私はあなたと話したいことがあるの」翔平はそれを聞くと、すべて察したように淡々と言った。「分かった」電話が切れると、美羽はスマホをソファに放り投げた。立ち上がってエレベーターに向かい、ワインセラーへ降りると、そこから数千万の値がつく高級な赤ワインを2本取り出した。午後4時頃、美羽に柚葉からの電話が入った。「イヴリンさん、今日はおばあちゃんちに行くね」美羽は感情を整え、声に違和感が出ないよう気をつけながら言った。「ええ。宿題、頑張ってね」「うん!今日、先生に詩音ちゃんと一緒にやった宿題を褒められて、花丸をもらったの!」「そう。柚葉ちゃんは本当にえらいわね」柚葉は美羽に褒められ、とても嬉しそうだった。二人で少し話を交わし、電話を切った。夜6時を過ぎた頃。リビングの外から人の気配がした。出迎えのために待機していた翠と恵が、車から降りてきた翔平を見つけると、頭を下げた。「お帰りなさいませ」翔平は手に持っていたバッグを翠に渡し、「自分の仕事をしろ」と言った。「承知いたしました」二人はそれ以上何も言えず、すぐにその場を離れた。翔平がリビングに入ると、鼻をつくほど濃密な赤ワインの香りが漂ってきた。ソファにもたれかかる女が目に入る。手にはグラスが握られ、中身がゆっくりと揺れていた。グラス越しに映る横顔は精巧で美しいが、その瞳に温度はなかった。翔平は大股で近づくと、ネクタイを緩め、ボタンを二つ外してソファに投げ出した。そして長椅子に深く腰を下ろし、長い足を組んで背もたれに体を預け、空になったボトルを一瞥して
コン、コン、コン。澪がドアをノックした。「美羽、お父さんたちが帰ってきたわよ」美羽は特に何も考えず、アルバムを置いて部屋を出た。玄関にいる二人を見て、嬉しそうに声を上げた。「お父さん、お兄ちゃん」涼太と正人は、美羽の方を見た。「美羽、お土産があるんだ。こっちに来て、気に入るか見てみて」と涼太が声をかけた。美羽は嬉しそうに近づいた。「何のお土産?」涼太は大小の紙袋をいくつか抱えていて、それをテーブルの上に置いた。そして、その中からブランド物のアクセサリーケースを一つ取り出して美羽に渡した。「開けてみて」美羽は嬉しそうに受け取り、開けてみると、華奢な金のブレスレット
遥は顔色を変えると、勢いよく机を叩いて立ち上がった。「何んなのよ!」美羽は遥を無視して、その場を離れた。自分のデスクに戻ると、小さな鏡を取り出し、頬のかすかなひっかき傷を見た。傷は浅かったので、ウェットティッシュで拭くだけで十分だった。どうせこんな顔なんだから、傷が一つ増えたってどうでもいい。それにしても、瑠衣の顔は、どこかで見たことがあるような気がした。仕事が終わる頃、美羽に父親の今井正人(いまい まさと)から電話があった。杉山涼太(すぎやま りょうた)が帰ってきたから、実家で一緒にごはんを食べよう、という誘いだった。美羽は嬉しくなって声を弾ませた。「お兄ちゃんが
「会社の財務レポート、お昼休みが終わるまでに仕上げておいて」美羽は自分のデスクに戻った。美羽は秘書課の一般職に降格させられたが、遥は美羽に本来の担当じゃない仕事まで、たくさん押し付けていた。それでも、美羽は黙ってすべて引き受けていた。文句ひとつ言わずに会社にしがみついているのだって、ただの自己満足に過ぎない。どうせ翔平は、見向きもしてくれないのに。美羽はレポートを完成させると、データと印刷したものを遥に提出し、それからデリバリーを頼んだ。会社には社員食堂があるけれど、美羽はいつもお弁当を持参していた。人が多い場所は苦手だから。じろじろ見られるのも、誰かと話すのも嫌だった
隆はドアの前に立つ女性に目を向けた。最初はきょとんとして誰だか分からなかったが、彼女が口を開いたことで、それが美羽だと気づいた。「佐野先生」隆は何事もなかったかのように表情を整え、「やあ、来たんだね」と声をかけた。美羽はマスクを外し、研究室の中へと入った。「佐野先生、ご無沙汰しております」「久しぶり。君だと気づかなかったよ」隆は優しく微笑んだ。美羽は自嘲気味に口角を上げ、話した。「こんな姿になってしまって、先生に会いに来るのも少し気が引けました」隆は立ち上がってデスクを回り込み、言った。「妊娠して体型が変わるのは当たり前のことだ。産めばまた戻るさ。まあ、座って!」