Masuk綾は胡桃の気遣いに感激して、「もう大丈夫です。お気遣いいただきありがとうございます」と言った。胡桃は優しく綾の肩を支えて言った。「よかったわ。明里からあなたのおばあ様に電話して聞いてほしいと言われて、いてもたってもいられなくて。とりあえず今はゆっくり休んで。夜にまた明里を連れて様子を見に来るからね」その時、幸子が茶を運んできて、「後藤様、お茶でも召し上がって、一息つかれてはいかがでしょうか?」と引き留めた。だが、胡桃は「私まだ会社に行かないといけないの」と手を振り、足早に外へ向かって出て行った。ドアのところまで行くと、彼女はふと振り返り、まるで我が子を見つめるような優しい眼差しを向けた。「ゆっくり休むのよ。夜また来るわ」「はい、ではまた夜に」そう言って綾は一緒に外まで行き、胡桃の車が見えなくなるまで見送ってから、ようやく家の中へ戻った。再び、ベッドに戻って、彼女はまたスマホの画面をスクロールした。明里のほかにも、弘幸からいくつもメッセージが入っていた。【先生から聞いたよ。体調不良で休んでいるとか。どこの病院?見舞いに行きたいんだけど】【そんなに酷いの?どうして返信くれないんだ?】【メッセージを見たら返信して。心配で堪らないんだ】それに綾は、【もう退院したよ。気遣ってくれてありがとうね】とだけ返した。最後に、健吾からの未読メッセージがあった。内容は極めて簡潔だ。【無事なら、『はい』くらい言え】綾は冷淡なその一文をじっと見つめ、思わず呆れて溜息をついた。入院患者に対するメッセージだというのに。大丈夫かの一言すら言えないのか?そう思いながらも、彼女は暫く画面を見つめたまま動かなかった。心の中では妙なトキメキが湧き上がっていた。この男なりに、心配を表現しているのだろうか?でなければ、彼の性格上、わざわざ連絡なんてしてこないはずだ。そう考えると、彼女は意地を張っているかのように一言返した。【は~い!】メッセージを送った瞬間、青木家の書斎で健吾のスマホが軽く震えた。健吾は反射的にスマホを手に取り、メッセージを開いた。そして、そこに映る「は~い!」の文字を見たとき、健吾の、ずっと張り詰めていた神経が思わず緩んで、きつく寄せていた眉間の皺も消え、口元も無意識に緩んだ。綾の入院中、健吾
翌日、綾が退院したいと強く要望したため、湊は退院の手続きをしてあげた。帰宅後、綾は初めて和子から自分が倒れたことを知った湊が、国際大会を辞退してその日のうちに帰国したことを知ったのだった。そうと知って、彼女は胸に込み上げてくる切なさと申し訳なさ、そしてそれ以上に、言いようのない不安が募った。「湊……私が病気になっても、おばあさんが一番いいお医者さんを手配してくれるはずよ。だから、もう無理しないで。私のせいで、あなたの将来にまで影響が出るようなことにはなってほしくないの」湊は優しい笑みを浮かべ、お茶の入ったコップを差し出しながら言った。「たかが一つの大会だ。俺の将来は、そんなことで影響されないさ」綾は思わず吹き出したが、すぐにわざとむっとした顔を作り、心配半分、脅し半分で言った。「とにかく、次は絶対にダメだからね。さもないと、今度倒れても二度と目を覚まさないんだから!」すると、湊もまた真剣な表情で、彼女のおでこを叩く振りをして言った。「また縁起でもないこと言って……これからは絶対に病気になんてさせないからな」綾と比べれば、大会のことなど大したことではないと湊は思っているのだ。それは病気のときだけでなく、たとえ綾がただ機嫌が悪くてそばにいてほしいと言っただけでも、自分は迷わず大会を捨てて帰ってきていただろう。それに、湊は自分の実力を信じていた。たった一度の大会で、自分の将来が左右されるとは思えなかった。一方、綾はお茶を口にしたが、それでも心の底の不安は消えなかった。顔を上げ、彼女は確かめるかのように尋ねた。「あの……大会ってもう終わっちゃったの?今から戻っても間に合うんじゃない?」湊は困ったように笑い、綾の頭を撫でた。「しっかり休め。変な心配をするな。今回の大会なんてそれほど重要じゃないんだ」そんなことを言われても、綾はどうしても信じられなかった。彼女は部屋に戻ってドアを閉めると、すぐにパソコンで検索をかけた。すると、検索画面に、その大会が有名校の推薦枠に直結していることが書かれているのを見て、綾の気持ちはどん底に沈んだ。これのどこがそれほど重要じゃないっていうんだ。湊は自分一人のために、これほど素晴らしいチャンスを捨てたんだ。そう思うと綾は深いため息をつき、椅子の背にもたれかかった。湊が自分にして
湊は幸子の言葉が招く最悪の事態を考え、少しの躊躇もなく、指導教官に事情を説明して大会を棄権した。幸い個人種目だったため、他の学生に迷惑をかけることはなかった。彼は深夜便のチケットを取り、帰国した。そして、病室に姿を現した時には、もう午後になっていた。和子は湊が疲れ切った様子で駆けつけたのを見て、あえて多くを問わなかった。彼女にとっても、どれほど大事な大会であろうと家族とは比べられないのだから、帰国を選んだ湊は正しい選択をしたと思っているのだ。この時彼女は湊を見て、立ち上がり、ベッドサイドの場所を彼に譲った。「医者からは、意識を取り戻せるかもしれないから、綾に話しかけてみてと言われているの」「分かりました」湊は低い声で答え、ベッドサイドに座ると、恐る恐る綾の手を握った。覗き込むと、彼女は青ざめた顔で、長い睫毛に覆われた目を固く閉じ、唇は乾いて皮がむけ、呼吸は浅くて速かった。それを見た湊は胸が張り裂けそうになり、息が詰まるような痛みを覚えた。出来ることなら、綾の苦痛を彼は全て自分の身に引き受けたかった。「綾、戻ったよ」低い声で名前を呼び、親指で彼女の手の甲を優しくなでた。「心配するじゃないか、お願いだから目を覚ましてくれ」彼は独り言のように語りかけた。午後から夕方へ、そして夜中まで続けた。幼い頃のドジ話や、回復したら新しくできたお菓子の店に連れて行くなどの話を声が枯れるまで話し続けたが、それでもやめることはできなかった。医師が何度も入れ替わり立ち代わり様子を見に来たが、首を振るばかりだった。和子は横で、時折胸を押えながら座っていた。もし綾になにかあれば、自分は綾の亡き両親に合わせる顔がなくなってしまうだろう。そこで、幸子は湊の声が枯れているのに気づき、水を運んできた。「湊様、お水を飲んで、少し喉を潤してください」湊は首を振り、再び綾の方を向いて、切ない笑みを浮かべた。「綾、これ以上起きてくれないと、俺の喉が本当にダメになるぞ。そしたら責任を取ってくれるだろうな」すると、その言葉と同時に、彼の手の中で綾の指先がピクリと動いた。それに続いて、綾の瞼がわずかに震え、長い睫毛も微かに動いた。湊は大きく目を見開き、裏返った声で叫んだ。「早く医者を呼んでくれ!」和子はベッドに飛びつき、涙なが
それからというもの、綾は放課後になると、毎日健吾と一緒に地下鉄で帰宅するようになった。地下鉄は揺れるが、健吾はいつも彼女の後ろに立ち、距離を保ちつつも何気なく彼女を守るような体勢を取っていた。それには綾もひそかに感心していた。青木家はなんと寛大だろう。ダニエルが何日も休み続けても、何も言われないのだから。尋ねようかと一度は思ったが、口には出さなかった。他人の家庭の事情を詳しく聞くほど、彼らは親しい仲ではなかったからだ。週末、綾はいつも通り明里と遊びに出かけた。二人でデパートをぶらぶらして過ごした。明里が「最近なんだか顔色がいいね」と言うので綾は「よく眠れているからかも」と笑って返した。けれど家に帰り着いた途端、どっと重い疲労感が押し寄せ、骨の軋みからじわりと脱力感が滲み出るようだった。その日の夕方、和子と散歩に出たが、吹く風を浴びた途端、綾は頭がクラクラとした。玄関に入ると、ついに堪えきれず、そのまま崩れ落ちた。耳元で和子が叫ぶ声が響いたが、綾の世界は深い闇に包まれた。完全に意識を失う直前まで、遠くから自分の名前を呼ぶ、和子の声が聞こえたような気がした。何度か朦朧と意識が浮上したが、何も見えず聞こえず、身体が重い繭に閉じ込められたようで、指先ひとつ動かせなかった。その夜、いつも冷静な和子は一睡もできなかった。彼女は綾の手を自分の頬に当てたが、その肌はぎょっとするほど熱を持っていた。翌朝、幸子が静かに声をかけた。「和子様、少し横になられては、あとは私がついておりますから」和子は額を押さえ、綾の顔から一瞬たりとも目を離さず答えた。「綾が目を覚ますまで、休めるわけがないでしょう」一晩の間に医師を何度か変えたが、どの医師も口を揃えて「インフルエンザによる発熱で、少し容態がひどいだけです」としか言わなかった。こうして、和子は綾の看病に夢中で時間も忘れ、学校へ欠席の連絡を入れることすら忘れていた。この時、和子の瞳には、熱で頬を赤く染めて横たわる綾の姿しか映っていなかったのだ。……一方、学校では、国際クラスの担任が、綾が1限目から欠席していることに気づいた。綾はいつも素直で、無断欠席なんて一度もなかったはずだ。そう思って教室の後ろに足を運んだ担任は、綾の後ろの席に座る健吾に尋ねた。「中野さんは今日
しかし、綾は断った。「ありがとう、でも大丈夫。地下鉄で帰るから」「そっか。じゃあ、俺はさきに行くよ」弘幸はそう言うと、迎えの車に乗り込んだ。綾は健吾の方を向き、「あなたのお迎えの車は?」と聞いた。健吾は短く言った。「俺も地下鉄だ」それを聞いて、綾は目を輝かせた。「じゃあ一緒だね!」そう言ってすぐに、綾はまた少しだけ目を細め、何かを窺うように健吾を見つめた。「青木くんは、地下鉄なんて乗ったことあるの?」健吾は問い返す。「地下鉄に乗るのに、そんな特別なコツでもいるのか?」「まあ、それはないけど」そう呟くと綾は、彼を引き連れて地下鉄の入り口へ向かった。夕方の帰宅ラッシュで、ホームは非常に混雑していた。でも、綾は人混みを縫って歩くのには慣れていた。細い体で、彼女はすいすいと地下鉄に乗り込んだ。振り返ると、健吾が外で立ち往生していたのだった。人波に揉まれながら、彼は眉間に深く皺を寄せていた。やっぱりお坊ちゃん育ちだね。綾は苦笑いしながら一歩下がり、彼の腕を掴んで思い切り車内へと引き込んだ。次の瞬間、健吾は混雑する車内の真ん中にいた。こんな時、つり革どころか、座席も勿論空いていないものだ。揺れる車内で綾を見た健吾は、片手でポールを握り、もう片方の手で綾のカバンの紐をしっかり掴んだ。背後から支えるような力を感じた綾が振り返ると、それは健吾だった。人で混み合った車内で、健吾はさりげなく綾を庇うように前に立っていた。彼の気配はすぐそばにあり、心臓の鼓動まで聞こえそうなほど近い。そこから漂うかすかな香りが、ふわりと綾の鼻をくすぐった。地下鉄を降りて肩を並べて歩き出すと、風が二人の間を通り抜け、思わず胸が高鳴った。綾は何か話そうとしたけれど、言葉が出てこなかった。多分、緑の木々に囲まれ、花の香りにも酔いしれたのだろう、帰り道はいつにもまして短く感じられた。気がつくと、二人は中野邸の前に着いていた。立ち止まり、綾は顔を上げて健吾を見上げた。自分と同じ高校生とはいえ、健吾は背が高くすらっとしている。それに比べ自分はまだまだ身長が伸び始めたくらいだ。こうして彼の前に立っているとまるで、学年すら違っているように思えた。「今日は一緒に帰ってくれてありがとう」健吾はぶっきらぼうに返す。
健吾は背が高く、歩幅も広いため、綾は小走りでやっと追いつくくらいだった。本屋はオープンしたばかりで、放課後ということもあり、大勢の生徒で賑わっていた。健吾は本屋の外に立つと、中へ入るのを少し待つことにした。「混んでるから、空くのを待とう」綾もそれに同意し、彼のそばで大人しく待った。すると、弘幸が綾に近づいてきた。「綾ちゃん、アイスおごろうか?」綾は遠慮がちに微笑んだ。「ううん、いいのよ。ありがとう」彼女は和子から胃に負担をかけないよう、アイスクリームは1日1個までと厳しく言われていた。しかし、弘幸は諦めずまた聞いてきた。「どこに住んでるんだ?うちの母が迎えに来るから、ついでに送っていくよ」「大丈夫。地下鉄で帰るから」弘幸の迎えの車がどちらの方向へ行くのかを、綾はすでに知っていた。自分の家とは真逆の方向だ。こうしてしつこく話しかける弘幸にも、綾はいつも通り穏やかに応えた。一方で、健吾だけは何も言わずにそばに立ち、何度も眉をひそめていた。店内の混雑が少し落ち着くと、彼は何も言わずに店の中へ入った。すると、綾も弘幸を促した。「私たちも中に行こう」中に入ると、彼女は迷わず学習コーナーへ直行し、科目ごとに数冊ずつ参考書を選び、さらに問題集もカゴに入れた。弘幸は驚いて目を丸くした。「そんなにやりきれるの?」「まあね。家にいてもすることないし」学校から帰って勉強して、それが終わる頃に和子が帰宅し、一緒に晩ご飯を食べるのが綾の日課だ。食後に和子と軽く散歩をすると、もう和子が休む時間になる。夜はそれなりに起きているので、いつも本を読むか、問題集を解いている。ドラマはというと、高校生になってからは見ていない。長いドラマだと何十話もあって、時間の無駄だと思うからだ。週末だけはリビングのシアタールームにこもって、名作と言われる映画を観ることにしている。弘幸が持っていた小説を手に取った。「こういう小説とか読まないの?クラスの女子が結構読んでるけど」「文学を専攻してる人が家にいるから、家にはいろんな本があるの」小学生の頃から、綾は湊の読み聞かせで本に親しんできた。中身が難しくても、とにかく手にとって開くのが習慣だった。高校の国語で宿題になるような名著も、ほとんど読み終えていた。弘幸は感心







