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初雪の日にあう君
初雪の日にあう君
Author: 如子

第1話

Author: 如子
「江崎さん、こちらはスイスの自殺ほう助機関ですが、12月25日の安楽死を申請されたのはご本人でいらっしゃいますか?」

瑠奈のまつげがかすかに震えたが、声はとても落ち着いていた。

「はい」

「かしこまりました。申請はすでに承認されております。こちらから半月の猶予を差し上げますので、その間に後始末をお願いいたします」

電話が切れた直後、寝室のドアが勢いよく開かれた。

堀尾修は冷たい風をまとって入ってきて、彼女を見るなり笑顔で美しく包装されたプレゼントを差し出した。

「瑠奈、誕生日おめでとう」

瑠奈は穏やかに微笑んだ。

「私の誕生日は、昨日だったよ」

修の動きが一瞬止まり、顔に戸惑いと気まずさがよぎった。

「ごめん、最近仕事が忙しくてさ……」

そう言いながら、彼はしゃがんで手を伸ばし、彼女のふくらはぎに優しく手を当ててマッサージを始めた。話題を変えるように言った。

「今日、足はどう?」

力を入れすぎたせいか、彼の長い指は赤くなり、手の甲には浮き出た血管が目立っていた。

その手つきも力加減も専門的だったが、瑠奈は何の感覚もなかった。

返事がないことに気づき、修は顔を上げようとしたちょうどそのとき、ポケットの中のスマホが鳴った。

彼は画面を見て、登録された名前を確認した瞬間、思わず嬉しそうな笑みを浮かべた。

口に出しかけた言葉は頭の中から消え、彼はそのまま立ち上がり、一言だけ残して書斎へ向かった。

「ちょっと用事があるから、あとでまたマッサージするね」

瑠奈は何も言わず、静かに彼の背中を見送った。

彼の姿が完全にドアの向こうに消えても、彼女の脳裏には、さきほど彼が浮かべたあの隠しきれない笑顔がはっきりと残っていた。

それが仕事相手とのやり取りで出るような笑顔だろうか?

あんな心の底から嬉しそうな表情は、きっと「好きな人」を目の前にした時しか現れない。

あの笑顔は、彼女も何度も見てきたものだった。

高校時代の毎朝、彼女が慌ただしく牛乳を飲み終えて階段を降りると、目の前にはいつもあの笑顔の修がいた。彼は微笑みながら彼女に歩み寄り、重たいカバンを受け取り、彼女を自転車に乗せて一緒に登校していた。

あの頃、二人は18歳。まだ幼さの残る顔立ちに、青春のきらめきが宿り、互いしか見えていなかった。

幼い頃から一緒に育った二人は、まるで小説の定番のように、自然と惹かれ合って恋に落ちた。

学校にも親にも隠れて、こっそりと付き合い始めた。約束したのは、同じ大学に合格して、堂々と付き合おうという未来。

互いに支え合い、努力し、最終的に二人とも高得点で東大に合格した。

すべては順風満帆、完璧な未来のはずだった。

だが、事故が起こった。

入学の前日、二人は交通事故に巻き込まれた。危機が迫ったその瞬間、瑠奈は真っ先に修を突き飛ばした。

その日、彼は無傷で済んだが、彼女は両脚を失った。

泣きっ面に蜂とはこのことか。その年、彼女の両親は飛行機事故で亡くなり、あまりの出来事に心が耐えきれず、彼女はうつ病を発症した。

修は彼女を気遣い、大学を卒業するとすぐにプロポーズした。

絶対に君を裏切らない、と。そう誓ってくれた。

そして結婚してからの3年間、彼はその言葉どおりに過ごしていた。

……半月前に、彼の日記を見つけるまでは。

日々、彼女への愛を語っていた人は、日記ではその苦しみを吐き出していた。

そこにはこう書かれていた、

プロポーズは、義務感からのものだった。そうしなければ、世間から非難される気がした。

彼女と家にいると、息が詰まるような抑圧感に襲われ、彼女のそばにいる時間すべてが苦痛だと。

もし人生をやり直せるなら、彼女に助けてもらうくらいなら、むしろ自分が車椅子生活になっていた方がマシだった。少なくとも、こんな罪悪感に苛まれることもなかったと。

今、自分は別の女性に恋をしている。その子の名前は秋場 陽菜(あきば ひな)。情熱的で、明るく、太陽のような存在で、まるで事故前の瑠奈のようだった。

翌日、瑠奈のもとに陽菜からメッセージが届いた。

「修から聞いたけど、あんたの足って一生治らないんでしょ?これだけ長く付き合ってるなら、もう解放してあげられない?」

「知らないの?あんたのせいで彼、毎日すごく苦しんでるの。死にたいけど、死ねないの。瑠奈の面倒を見なきゃいけないって。とても可哀想だよ」

「私と出会わなければ、彼きっともう壊れてた。私は彼を大切に思ってるの。今、彼が好きなのは私。お願い、もう彼にすがらないで。離婚して、私たちの恋を応援してくれない?」

その後、一気に十数枚の親密な写真が送られてきた。

カメラの中心にいたのはすべて修。

彼は笑いながらコーヒーを淹れ、陽菜が自撮りを始めると顔を寄せてピースサイン。

山盛りのエビを剥いて、彼女の前に差し出し、指に付いたソースを丁寧に拭き取っていた。

海辺では、陽菜の足跡をなぞるように歩きながら、微笑んで大きな貝を彼女に渡していた。

写真を一枚ずつ見ていくうちに、瑠奈の胸は締め付けられ、息ができなくなった。ナイフで刺されたような痛みだった。

だが、もう涙は出なかった。

ただ空虚が広がっていた。

彼女はそのメッセージに返信しなかった。けれど、陽菜は止まらなかった。

それから毎日、新しい日常の写真が送られてきた。すべてに撮影日時の透かしが入っていた。

11月21日。夕陽の中、公園で二人は寄り添って歩いた。

11月26日。一緒に陶芸教室に行き、協力して花瓶を作った。

12月1日。コンサートに行き、音楽と未来について語り合った。

……

すべての写真の日時は、修が「残業中」と言っていた時間と一致していた。

そして昨日、彼女の誕生日。

彼女は一日中彼の帰りを待っていた。だが彼は、帰ってこなかった。

その理由は、陽菜と一緒に花火を見に行っていたからだった。

写真を見つめながら、瑠奈は笑って泣いた。

17歳の修は、17歳の瑠奈をあれほどまでに好きだった。

けれど、25歳の修は、もう25歳の瑠奈を愛してはいなかった。

その夜、彼女は窓辺に座って一夜を明かした。

そして翌朝、国外の自殺ほう助機関に資料を提出し、自らの人生に幕を引く申請をした。

【修、私にはもう、あなたしかいないの】

【でもあなたは、私をまるで化け物のように恐れている】

【だったら、もういい】

【あなたを解放する】

【そして、私自身も】

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