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彼は私の手を握り、薬指に指輪をはめてくれた。披露宴でお色直しを済ませた私は、悠と一緒に各テーブルを回って挨拶をした。事務所のテーブルに来た時、航が立ち上がり、グラスになみなみとお酒を注いで掲げた。「桐生さん、神崎先生、ご結婚おめでとうございます」彼はぐっとグラスをあおり、一気に飲み干した。それから悠を見て、その肩をぽんと叩いた。「神崎先生、もし桐生さんを大事にしなかったら、僕が許しませんからね」悠は笑った。「そんな機会、絶対に作らないよ」航も笑った。けれど笑うその瞳が少し潤んでいるのを、私は見逃さなかった。私は何も言わなかった。深入りしないことこそが、最善の結末となる想いもある。披露宴が終わる頃には、すでに夜遅くなっていた。私と悠は式場の出口に立ち、ゲストの見送りをした。夜風が吹き抜け、冷たさを運んでくる。見送りを終えると、悠は私に向き直り、風で乱れた髪をそっと耳にかけてくれた。「神崎さん」彼に新しい名字で呼ばれたのは、これが初めてだった。私は少しぽかんとしてから、ふふっと笑った。「はい」彼は顔を寄せ、私のおでこに優しく口づけを落とした。とても柔らかく、温かかった。あれから、何年も経ったある日。弘恭は、あれきり再婚しなかった。私が最後に弘恭を見かけたのは、スーパーの入り口だった。その日は悠と買い物に来ていて、店を出たところで、カートを押す弘恭とばったり出くわした。弘恭はすっかり老け込んでいた。まだ40を少し過ぎたばかりなのに、50代半ばのように見える。彼も私に気がついた。彼はまず私を見て、隣の悠に視線を向け、最後に私の左手薬指の指輪を見つめた。彼はその場に立ち尽くし、何かに打ちのめされたように固まっていた。悠は何かに気づいたように、私をちらりと見た。私は悠の手をきゅっと握り返し、弘恭に静かに会釈した。「お久しぶり」彼は何か言いたげに唇を震わせたが、結局は「久しぶり」とだけ絞り出した。それ以上、言葉は交わさなかった。私は悠の腕に手を添え、彼の横を通り過ぎた。だいぶ離れてから、悠が静かに尋ねてきた。「あの人か?」「うん」私は彼を見上げて、ふっと微笑んだ。彼は顔を寄せて、私のおでこにキスをした。私は振り返らなかった。
悠は一瞬きょとんとしてから、ふっと笑った。私が悠と付き合い始めたことは、事務所のみんなにも少しずつ知れ渡っていった。自分から公表したわけじゃない。周りに気づかれたのだ。最初に気づいたのは、航だった。ある日の昼休み、悠が私のデスクまで昼食を届けてくれた。そして去り際に、私のおでこへそっとキスを落とした。あいにく、ちょうどそこに航が経費精算の書類を届けに入ってきた。3人で見つめ合い、気まずい沈黙が流れる。航は私と悠を交互に見つめた。その表情は、驚きから納得へ、そして何とも言えない複雑なものへと変わっていく。「やっぱりですよ」彼は精算書をデスクに置き、わざと明るい声で言った。「毎日の差し入れ、無駄じゃなかったってわけですね」悠は平然とした顔で言い放った。「書類を置いたら、もう出ていっていいぞ」航は「はいはい」と肩をすくめ、踵を返した。一度振り返り、一瞬寂しげな目をしたが、すぐにふざけたような笑顔でごまかした。「桐生さん、おめでとうございます」「ありがとう」彼は手をひらひらと振って、そのまま去っていった。それきり、彼が向けてくる態度は、純粋な「仕事上の関係」そのものに戻った。相変わらず冗談ばかり言っているけれど、以前のような思わせぶりな態度はもう見せない。ホッとした反面、胸のどこかに少し申し訳なさもあった。けれど、恋愛の気持ちに正しいも悪いもないのだ。……弘恭の件は、とうとう決着がついた。経理担当者に虚偽の申告を指示した罪に問われ、懲役2年、執行猶予3年、罰金4000万円の判決が下された。会社は完全に倒産し、かつてのビジネス帝国は一夜にして崩壊した。その知らせが届いたとき、私は自宅で悠とビデオ通話をしていた。彼は書斎で書類を整理していて、私はリビングでフルーツを食べていた。「どうした?」私の表情の異変に、彼が気づいた。「何でもないの。昔の同僚から、ちょっと前の話を聞いただけ」彼は深く詮索せず、「言いたくないなら、言わなくていいよ」とだけ言ってくれた。少し迷ったけれど、私は打ち明けた。「元カレの会社が倒産したの。本人には執行猶予がついたみたい」悠は数秒間、黙り込んだ。「大丈夫か?」「うん、平気」それは強がりではなく、本心だった。「渚」
悠は数秒沈黙した後、笑顔のスタンプを送ってきた。それからというもの、私と悠の間は何ひとつ変わらないようで、すべてが変わったようでもあった。彼は変わらずコーヒーを買ってきてくれた。私が言った言葉をすべて覚えていてくれて、残業のあと、家まで送ってくれた。ただ、少しだけ変化もあった。たとえば毎朝、天気予報を送ってくれるようになった。「傘を持っていってね」とか「暖かい格好をしてね」といった言葉を添えて。たとえば、私が落ち込んでいると、何食わぬ顔でチョコを差し出してくれた。それも、私の大好きなブランドのものだった。年が明けてしばらくした頃、弘恭の会社で大事件が起きた。彼の会社に税務調査が入り、悪質な脱税行為が認定されたのだ。巨額の追徴課税だけでなく、刑事責任まで問われる可能性が出てきた。かつては注目されていた企業だっただけに、その噂は瞬く間に業界中へ広まった。そんなとき、拓海から電話がかかってきた。「桐生さん、佐伯は、今度ばかりは本当にまずい。ブタ箱行きになるかもしれない」私は少し沈黙してから言った。「彼、新しい経理部長を雇ったんではないの?」「成瀬さんのことか?」拓海の声には、あからさまな皮肉が混じっていた。「彼女なら、とっくに逃げたよ。年末のうちにトンズラ。会社の口座から動かせる金を全部持ち逃げしていったんだ」私はきょとんとした顔になった。「いくら?」「6千万円以上だ」まったく、あの女もいい度胸をしている。「佐伯も、ようやく因果応報ってやつを身をもって知ったんだろ」拓海は重いため息をついた。「彼は、あの女のために君を追い出しただろう。でもあの女は彼自身じゃなくて、金が目当てだったんだ。金が尽きたら、さっさとおさらばというわけだ」「それで、私に電話してきたのはどうして?何かしてほしい?」「いや、何でもないんだ。ただ、君にも伝えておくべきだと思っている」私はスマホを握りしめ、窓の外のどんよりと曇った空を見つめた。「北川さん、私は彼を助けられないよ」「わかっているよ。彼に頼まれたわけじゃないんだ。俺が勝手に話したかっただけだから」拓海は少し言葉を濁した。「佐伯は、本当はすごく後悔してるんだ」私は通話を切ると、椅子に座ったまま、しばらくの間ぼんやりと天井を見つめてい
美緒は私を見つめた。「好きじゃないなら、引き延ばさないで。早めに諦めさせてあげたら?」私は箸を置き、椅子の背もたれに寄りかかった。悠という人は、確かにすごく素敵な人だ。でも……「まだ心の準備ができてないの」と私は言った。美緒は私を見つめ、その瞳の好奇心は、少しずつ心配の色へと変わっていった。「弘恭のせい?」私はグラスを手に取り、ぐっと一口あおった。美緒は私の手を軽く叩いた。「焦らなくていいよ。どうせ二人ともまだ若いんだし」彼女はくすっと笑った。「それに悠って、すごく気長そうだしね」12月の第1週、弘恭がまた姿を現した。その日、仕事から帰って車をガレージに止めると、シャッターの前に誰かが立っているのが見えた。彼はダークグレーのコートを着て、街灯の下に立っていた。私は車を降りて鍵をかけ、バッグを手に歩み寄った。「何か用?」「渚、最近会社でちょっと問題が起きてな」「聞いたわ」彼は顔を上げて私を見た。「税務署の件、戻って手伝ってくれないか?」彼の目を見つめていると、ふと可笑しさがこみ上げてきた。「弘恭、会いに来たのは私に会いたかったから?それとも会社でトラブルがあったから?」「どうであれ」私は息を深く吸い込んだ。「会社のことなら力になれない。もうその業界にはいないの。税金のことは専門の事務所に頼んで。私を当てにしないで」「渚」「それと、もう来ないで。この家は私のものよ。あなたがここに立つ資格はないわ」彼の顔からさっと血の気が引いた。私は背を向けて階段を上がり、鍵を取り出してドアを開けた。「渚」彼が背後から私を呼んだ。私は振り返らなかった。「すまなかった」鍵を握る手がほんの一瞬止まったけれど、そのままドアを開けて中に入った。背後でドアが閉まった瞬間、私はドアにもたれかかり、そっと目を閉じた。それからほどなくして、事務所が大きな案件を受任することになった。ある上場企業が粉飾決算の疑いで証券取引等監視委員会から調査を受け、悠遠総合法律事務所にコンプライアンス弁護を依頼してきたのだ。この案件は係争額が莫大で、影響範囲も広く、悠が自ら陣頭指揮を執り、事務所中が目の回るような忙しさだった。私も大忙しだった。膨大な財務データの分析
返信しようとしたその時、事務所のドアが開いた。航がひょっこり顔を出し、にこにこしながら言った。「桐生さん、タピオカドリンク届きましたよ。給湯室に置いてあります」「今行く」席を立って外へ向かうと、すれ違いざまに彼がふっと声を潜めた。「桐生さんのだけ、特別に選んだやつですからね。他の人のとは違いますよ」それだけ言って彼はさっさと行ってしまい、私はその場に取り残されて苦笑いするしかなかった。タピオカドリンクを一口飲むと、ちょうどいい甘さだった。午後、悠が書類を届けに私の席へやって来た。デスクの上のタピオカドリンクを見て、何気なく言った。「糖質制限するって言ってなかったか?」私は思わずぽかんと固まってしまう。そんなこといつ言ったっけ?「先々週の金曜日、昼飯を食べてる時に言ってた」彼は当たり前のことのように淡々とした口調で続けた。「最近1キロ太ったから、糖分を控えるって」確かにそんなことを言った覚えがある。「よく覚えていますね」と私は笑った。彼はその話題を広げず、デスクに書類を置いた。「この案件に関係する請求書が届いたから、処理をお願いできるか」「分かりました」立ち去りかけた彼がドアの方で足を止め、少し躊躇してから振り返った。「桐生さん」「ん?」「週末、企業のコンプライアンスに関するセミナーがあるんだが、行ってみないか?」私は少し考えた。企業の経理としてコンプライアンスの最新動向を知ることは確かに必要だし、こういうセミナーは役立つことが多い。「いいですね。いつですか?」「土曜の朝9時から夕方5時まで。中心街のマリオットホテルだ」彼はポケットからスマホを取り出して確認した。「招待枠が二つあるんだ。一つは君に、もう一つは自分用だ」「了解です。じゃあ土曜日に」彼は一つ頷くと、私のデスクを離れていった。月日が流れるのは早く、あっという間に11月になった。悠遠総合法律事務所で働き始めてからもう5ヶ月が経ち、仕事にもすっかり慣れていた。悠は私にかなりの裁量を持たせてくれた。財務周りの実務判断はほぼ一任され、彼自身は全体の方針や重要なポイントを握るだけにとどめていた。この間に、事務所内の人間関係も少しずつ掴めてきた。悠という人は、物腰は柔らかくて丁寧だが、どこ
思わず、航の顔をじっと見つめてしまった。事務所ではいつもチャラチャラしているのに、プライベートではこんなにも頼りがいがあるなんて予想外のことだった。私たちは部屋の隅に座り、とりとめのない話をぽつぽつと続けた。仕事に慣れたかと聞かれ、順調だと答えた。弁護士って大変かと尋ねると、大変だけど面白いよ、と彼は言った。イベントが終わるまで話し込み、帰り際に彼が家まで送ると言ってくれた。「大丈夫。タクシーを拾うから」「こんな時間ですし、タクシーは危ないですよ」彼の口調はとても自然だった。「送りますよ。どうせ帰り道ですからさ」私は彼の顔を見て、ただの社交辞令かどうか見極めようとした。でも、彼の真剣な表情を見る限り、お世辞や気遣いではなさそうだった。「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう」車に乗り込むと、彼は行き先を聞いてナビに入力した。車内は静かで、カーステレオから懐かしい曲が小さな音で流れていた。家の前に車が止まると、彼は外をちらりと見た。驚く様子もなく、ただこう言った。「それじゃ、また明日事務所で」「はい、また明日」車を降りて、角を曲がってテールランプが見えなくなるのを見届けてから、家に入った。スマホが小さく震えた。航からのメッセージだった。【今日あなたに会えたことが、あのイベントで唯一気まずくなかった時間でしたよ】画面を見つめながら、私は思わず口元をほころばせていた。月曜日の朝、エレベーターの中で航と鉢合わせした。白シャツ姿の彼はネクタイを緩め、髪もいつもの気だるげなセットに戻っていた。「おはようございます」彼はひとつ、あくびを噛み殺した。「昨夜は徹夜で事件の記録を読んでいまして、眠くて死にそうです」「コーヒーでも飲んだら?」「桐生さん、早く、助けてくださいよ」彼は今にも倒れそうな大げさな顔をして見せた。私は笑って首を振りながら、エレベーターを降りた。事務所に入ると、私のデスクの上にすでにアメリカーノが置かれていた。冷たくて、甘さ控えめのやつだ。給湯室の方を振り返ると、ちょうどカップを手にした悠が出てくるところだった。「朝コーヒーを買った、ついでに、君の分も買ってきたんだ」彼の声は淡々としていた。「前に、微糖のアメリカーノが好きだって