司から電話がかかってきたのは、3分後だった。
画面が明るくなり、そして暗くなるのを、私はじっと見つめる。
3度目の着信音が鳴ったとき、通話ボタンを押す。
司の声は、氷のように冷たい。
「茜音、どういう意味だ?」
ローテーブルの上の薬箱を閉じ、指でその縁をなぞる。
「文字通りの意味よ」
電話の向こうが一瞬、沈黙する。
「鈴の投稿を見たのか?それで俺と別れるって?」
司はごく自然に、「鈴」と呼んだ。
以前の私は、その呼び方を聞くたびに胸が痛んだが、心の狭い女だと思われたくなくて、聞こえないふりをしていた。
今だって、苦しい。
でも、もう取り繕う気にはなれない。
「彼女のせいじゃないわ」
「じゃあ、何が原因だ?」
司は鼻で笑い、苛立ったように言う。
「俺があいつにデリバリーを頼んでやったからか?家まで送ったからか?それともメッセージを返信したからか?」
司の一言一句は、私の胸に釘を打つようだ。
血は出ない。それでも、ひどく痛い。
「私が傷つくって、分かっててやったからよ」
電話の向こうが静まり返る。
しばらくして、司が淡々と言う。
「だったら、お前も分かってるだろ。次から俺の前で他の男とあんなに長く話すな」
俯くと、スマホの画面にはまだ【もう、あんたの彼女じゃないから】というメッセージが残っている。
送信してから、まだ5分も経っていない。
それなのに私は、もう司から遠く離れたところまで来てしまったような気がする。
「あの人はただの大学の同級生よ」
「俺が気に入らない」
司は当たり前のように言い放つ。
「俺が気に入らないことは、お前はするべきじゃないんだ」
私は、ふっと小さく笑った。
「私が他の人と話すのが気に入らないからって、わざと白川に優しくしたの?」
「少しは懲りろってことだ。茜音なら分かると思ってた」
スマホを握る手に、ゆっくりと力が入る。
司は以前からいつも、私なら分かるはずだと言っていた。
忙しいのだから、分かってほしい。
素っ気なくても、分かってほしい。
鈴と親しくすることも、分かってほしい。
どうせ、彼が最後に選ぶのは私だと言っていた。
だから私は、どんな理不尽なことでも黙って耐えるべきだ。
「分かった」
そう答えると、司の声が少し和らいだ。
「分かったなら下りてこい。お前のマンションの前にいる」
窓辺へ歩み寄り、見下ろす。
下には司の車がヘッドライトをつけたまま停まっている。
以前なら、司が会いに来てくれさえすれば、私はすぐにほだされてしまっていた。
たとえ彼が謝らなくても、そこに立っているだけで、私は自分が大切にされていると思えていた。
しかし今夜は、動かなかった。
「下りない」
司の声が低くなる。
「茜音、いい加減意地を張るな」
その言葉はまるで鍵のように、カチャリと音を立てて記憶の扉を開ける。過去3年間のみじめな思いが、一気によみがえってくる。
司を怒らせたくなかった。
無視されたくなかった。
私を放ったらかしにして、他の人に笑いかけてほしくなかった。
だから、いつも私から折れてきた。
でも今は、もうこりごりだ。
「意地を張ってるわけじゃない。
別れるって言うのは、本気だから」
司は呆れたように笑った。
「いいだろ。ずいぶんと強気になったな。
しばらく頭を冷やせ。
ちゃんと気持ちが整理できたら、また連絡してこい」
私は何も答えない。
司はさらに言う。「お前が折れるのを待っている」
私は下に停まっている車を見つめる。
数秒後、ドアが開いた。
助手席から降りてきた鈴は、司の黒いジャケットを羽織っている。
彼女は顔を上げ、私のいる部屋を見つけると、笑いながらスマホを軽く振った。
司も鈴の視線を追って、私に気づいたが、言い訳は一切ない。
ただ手を伸ばし、鈴の肩からずり落ちそうになったジャケットをかけ直してやっただけだ。
まるで、私に見せつけるかのようだ。
電話越しの司の声は、静かで冷たい。
「見たか?これで少しは懲りただろ」
私は目を伏せ、電話を切る。
窓の外では、車のライトが長い間ついたままだ。
やがて、司は鈴を連れて去っていく。
そのとき、スマホが震えた。
鈴からのメッセージだ。
【茜音さん、今度は何日我慢できるかな?】
……
翌朝早く、司の母親・碓井美佐子(うすい みさこ)から電話がかかってきた。
「茜音ちゃん、今夜は家で食事会があるから、司と一緒にいらっしゃい」
アトリエの鍵をバッグに入れたところだ。その言葉に、手が止まる。
「今夜は用事があるので」
電話の向こうの態度が少し冷たくなる。
「一緒に食事をするより大事なことなの?」
私は答えない。美佐子がさらに続ける。
「昨日、司と喧嘩したよね?恋人同士の喧嘩はよくあることだけど、女が意地を張りすぎるのはよくないわ。
司は小さい頃から周りにちやほやされて育ってきたのよ。そんな司が他人の機嫌を取ってるなんて、めったにないことよ」
指先がバッグの中の退去届に触れる。紙の端が少し硬い。
「司とはもう別れました」
電話の向こうがしばらく静まり返る。
やがて、美佐子はふふっと笑い声を上げた。
「茜音ちゃん、冗談はよしてちょうだい。
どれだけの女の子が司を狙っていると思う?司の彼女でいるだけでも、あなたは十分恵まれているのよ。
鈴ちゃんも来るから、ちょうどいいわ。彼女とも話してみたら?」
顔を上げ、窓の外を見る。
どんよりとした曇り空で、ガラスには光が鈍く反射している。
「私は行きません」
「茜音ちゃん」
美佐子の声が、とうとう低くなる。
「今までずっと聞き分けのいい子だったのに、こんなときに馬鹿なことをしないでちょうだい」
その聞き慣れた口調、まるで、司と同じだ。
親子そろって、私の「聞き分けのよさ」は生まれつきのものだと思っている。私が彼らの言いなりになるのは当たり前で、いくら利用されてもいいと思っている。
私は電話を切った。
午後、アトリエで授業をする予定だ。
アトリエの中へ入ると、アシスタントの夏木芽衣(なつき めい)が困ったような顔で私を見る。
「茜音さん、あの……碓井さんが来ています」
顔を上げる。
休憩スペースには、司が座っている。スーツの上着を椅子の背にかけ、片手にコーヒーを持っている。
その隣には鈴が座り、うつむき加減で生徒たちの作品集をめくっている。
私が入ってきたのに気づくと、彼女は愛想良く笑った。
「茜音さん、すごく絵が上手ですね」
彼女の指先が、1枚の水彩画の上で止まる。
それは、展覧会に出す予定の作品だ。
古い街灯と、その下には、誰も座っていない椅子が描かれている。
司は以前、この絵が好きだと言っていた。
その一言のために、光の表現を17回も描き直してきた。
鈴はしばらく首を傾げて見てから言う。
「ただ、なんだかぽつんとしてて、縁起が悪そうですけど」
司が顔を上げ、私を見る。
「鈴が絵を習いたいっていうから、見学に連れてきた」
私はバッグを置く。
「ここは予約なしの見学は受け付けてない」
鈴が一瞬固まり、すぐに目を潤ませる。
「ごめんなさい、茜音さん。歓迎されてないなんて知らなくて……」
司が眉をひそめる。「茜音」
その声には、怒りがにじんでいる。
「鈴はただ興味があるだけだ。八つ当たりするな」
何か言い返そうとしたが、近くにいた何人かの生徒がこちらを見ているのに気づく。
芽衣が小声で言う。「茜音さん、よかったら私が先に生徒たちを中へ連れていきます」
司は立ち上がり、私の前まで歩いてくる。
声を落として言う。
「昨日のこと、まだ騒ぎ足りないのか?
今夜は家で一緒に食事をするから、迎えに来た」
「行かないって言ったはずよ」
司はしばらく私を見つめたあと、ふと鼻で笑った。
「俺が本気で怒らないとでも思ってるのか?」
彼は振り返り、鈴に言う。
「その絵、気に入ったんだろ?持っていけ」
私は思わず顔を上げる。
鈴も驚いたように目を見開き、恐る恐る尋ねる。
「いいんですか?それ、茜音さんの作品ですよね」
司は淡々と答える。
「俺が買う。
ここの家賃も、画材代も、出展料も、全部俺が払ってるんだ」
休憩スペースが、水を打ったように静まり返る。
その言葉が、こだまのように何度も繰り返されている。
誰かが息を呑む音が聞こえる。
私はその場に立ち尽くし、手足が冷たくなっていくのを感じた。
確かに、過去3年間、司には助けてもらったことがある。
しかし、このアトリエを経営しているのは私だ。
家賃を一度立て替えてもらったことはあるが、あとからきちんと全額返した。
絵具は、司が誕生日にプレゼントしてくれたものだ。
出展料だって、アルバイトで稼いだお金で払った。
それなのに、たった一言で、私が積み重ねてきたものを、彼からの施しへとすり替えてしまった。
「その絵は売らない」
司が私を睨みつける。
「売らない?それとも、鈴には渡したくないだけか?」
司の後ろにいる鈴を見る。
俯いているけれど、その指はすでに額縁の縁にかかっていた。
私は歩み寄り、彼女の手から絵を取り戻す。
「誰にも渡さない」
司の表情が険しくなる。
手を伸ばし、私の手首をつかむ。力は強くないが、振りほどくことはできない。
「茜音、謝れ」
私は司を見返す。「誰に?」
「鈴に、失礼な態度を取ったことを謝れ」
思わず笑ってしまった。おかしすぎて、涙が出そうだ。
「私のアトリエで、私の作品を奪おうとしている人に謝れって言うの?」
司は手を離さない。
「二度言わせるな」
私は謝らなかった。
結局、司は鈴を連れて帰っていった。
帰り際、彼は飲みかけのコーヒーをテーブルに置き、事務的な口調で言った。
「展覧会の主催者には、俺から話をつけておく。
まともな口の利き方を覚えたら、また参加させてやる」
私はその場に立ち尽くしていた。玄関の風鈴の音が止んで初めて、自分の手首に赤い跡が残っていることに気がつく。
芽衣は目を赤くして、駆け寄ってくる。
「碓井さん、どうしてあんなこと……」
首を横に振る。「授業を始めよう」
授業が終わる前に、展覧会の主催者から電話がかかってきた。相手は丁寧な口調で告げる。
「林さん、大変申し訳ありませんが、今回の出展について、改めて審査をさせていただくことになりました」
私はスマホを握りしめる。
「審査はすでに通っていたはずですが」
「はい。ただ、作品について、著作権侵害の疑いがあるという通報がありまして……」
目を閉じる。「誰からですか?」
相手は言葉を濁す。「こちらからはお答えしかねます」
電話を切り、SNSを開くと、ちょうど鈴が新しい写真を投稿した。
古い街灯と椅子の絵だ。
私の絵ではない。彼女が適当に模写したものだ。
投稿には、こう書かれている。
【初めて絵を習ったんだけど、司が、そこらのプロより才能あるって褒めてくれた】
コメント欄では、友人たちが盛り上がっている。
【碓井社長のマンツーマンレッスン?】
【鈴ちゃんすごい!元の絵より温かい感じ!】
鈴はこう返している。【もう、そんなこと言わないでよ。茜音さんに怒られちゃう】
私はその絵を見つめる。
ひどい絵だ。
線は弱く、遠近感も狂っている。光と影のバランスもおかしい。
それでも彼女には、司からの「褒め言葉」がある。
たったそれだけで、私のこれまでの努力は笑い草になってしまう。
夜、司からメッセージが届く。
【家で食事だ】
私は返信しない。
1分後、再びメッセージが届く。
【お前の母親の介護施設、来期の費用がまだ払われてないよな】
そのメッセージを見た瞬間、胃が締め付けられるような痛みに襲われる。
母・林理恵(はやし りえ)は、3年前に脳卒中で倒れて以来、ずっと施設に入っている。
その施設は、司が手配したものだ。
環境もよく、優秀な医師もそろっている。
施設の費用は、私が毎月、少しずつ司に返済している。
まるで、いつまでも埋まらない穴を埋めているようだ。
私は司に電話をかける。彼はすぐに出た。
「頭は冷えたか?」
「何のつもり?」
司は淡々と言う。
「脅されるのは好きじゃない。
お前は別れると言い出して、家での食事も断って、鈴にも嫌な顔をした。そのうえ、俺に恥をかかせたな。
だから、やっていいことと悪いことをちゃんと分からせる必要がある」
喉が詰まる。「だから、お母さんのことを……」
「分かってる。だからこそ、お前はもっと聞き分けよくするべきなんだ」
スマホを握る手が震え、落としそうになる。
「お母さんを使って、私を脅してるの?」
「忠告してるだけだ」
彼の口調は、驚くほど穏やかだ。
「今夜7時、運転手を迎えに行かせる。
白いワンピースを着てこい。母さんの好みだからな」
窓の外、空が少しずつ暗くなっていく。
そこで初めて気づいた。司はずっと、私の弱点が分かっていた。
これまでは、わざわざ使うのが面倒だっただけだ。
今、彼は本気で怒っている。
だからナイフを取り出し、私の急所に真っ直ぐに突きつけてきたのだ。
7時、私は碓井家に着いた。
美佐子は私を見ると、少しだけ表情を和らげる。
「それでいいのよ」
ダイニングには、多くの人が集まっている。
鈴も淡いピンクのワンピースを着て、司の隣に座っている。まるで、最初からそこが自分の居場所であるかのように。
私は、司から一番遠い席に案内された。
私が座るなり、鈴は笑いながら口を開く。
「茜音さん、あの絵、すごく気に入ったんですけど、やっぱり私じゃ上手く描けなくて」
美佐子が口を挟む。
「鈴ちゃんはまだ習ったばかりで、あれだけ描けたんだから大したものよ。
茜音ちゃんも、あんまり自分を買いかぶらないほうがいいわ。女の子が絵を描くのは趣味の範囲ならいいけど、本気で仕事にするなんて、みっともないわよ」
席のあちこちから、忍び笑いが漏れる。
私は俯いて料理に箸を伸ばし、何も言わない。
司が私を見ている。「返事は?」
顔を上げる。「何を言えばいいの?」
司は鈴のグラスに水を注ぎながら言う。「自分が間違ったって」
私は箸を置く。「施設の費用なら、自分でなんとかする」
司の表情が曇る。
そのとき、鈴が小さく咳き込んだ。「司、なんだかめまいが……」
司はすぐさま立ち上がった。「病院へ連れていく」
美佐子も慌てる。「早く行きなさい。鈴ちゃんの体が一番大事よ」
食卓にいた全員が一斉に立ち上がる。誰も私を見ていない。
司が玄関まで行ったところで、振り返って私を見る。
「茜音、今夜は一人で帰れ。これ以上、俺を失望させるな」
……
母が入っている療養施設から電話がかかってきたのは、翌日の午前中だ。
「林さんのお母様を相部屋へ移させていただくことになりまして」
生徒の絵を添削しているところだ。ペン先が紙を大きく引っかく。
「どうしてですか?」
施設のスタッフが言いにくそうに答える。
「費用のお支払いが確認できなくて……
これまでずっと碓井さんの秘書の方を通じてお支払いいただいていたのですが、本日付で支払いを停止するとのご連絡がありまして……
そして、お母様は個室からご移動いただく際にご容態が急変し、急性心不全を起こされたため、今は病院のほうで蘇生処置を受けています」
耳鳴りがする。「今行きます」
医師が懸命に処置を行う中、看護師が私に何枚もの書類を差し出す。
「林さん、お母様はかなり危険な状態です。今夜を乗り切れるかどうか……まずは、こちらの説明同意書に署名をお願いします」
ペンを握る手が震え、うまく名前が書けない。
ガラス越しに、酸素マスクをつけられ、青ざめた顔で横たわっている母の姿が見える。
私は唇を強く噛み、なんとか泣き声を押し殺す。
看護師が申し訳なさそうに声をかける。
「林さん、ICUの費用もありますので、一刻も早く支払いを済ませてください」
「1日だけ、時間をください」
アトリエの大家に電話をかけ、解約を申し入れた。
友人たちにメッセージを送り、お金を貸してもらえないか頼み込んだ。
そして最後に、司へ電話をかけた。
長いコール音のあと、ようやくつながる。
電話の向こうは、騒がしかった。鈴の声が聞こえてくる。
「司、早くケーキ切ろうよ」
今日は、彼女の誕生日だ。
そこで私は思い出す。司はこの前、今日、一緒に母のところへ行くと約束していた。
彼は言う。「なんだ?」
スマホを握りしめ、低い声で尋ねる。
「施設の支払い、止めさせたの?」
彼は否定しなかった。「自分でなんとかするって言っただろ?」
喉が詰まるように息苦しくなる。
「お母さんが、今、蘇生処置を受けてるの」
「だったら帰ってこい。今日は鈴の誕生日だ。ここへ来て、直接彼女に謝れ」
私は目を閉じる。「もし行かなかったら?」
司は淡々と言い放つ。
「茜音、取り返しのつかないことになる前に来たほうがいい」
電話の向こうで、鈴が笑いながら尋ねるのが聞こえる。
「茜音さんなの?まだ私に怒ってるのかな?」
司の声が、柔らかくなる。「怒ってない。あいつはあとで来る」
その絶対の自信に、笑いたくなる。
まるで、私が永遠に彼の言いなりになり、母親のため、彼のために、いつまでも頭を下げ続けるとでも思っているかのようだ。
「場所、教えて」
……
誕生日パーティーは、会員制の高級ラウンジで開かれている。
扉を開けると、大いに盛り上がっている。
鈴は部屋の中央に座り、頭にはティアラをつけている。司は彼女の背後に立ち、手にナイフを持って、一緒にケーキを切っている。
私に気づいた誰かが、からかうように声を上げる。
「お、碓井社長の彼女さんが来たぞ」
「機嫌なおった?」
鈴はすぐに口を挟む。
「もう、みんな変なこと言わないで。茜音さんが嫌な気分になっちゃうよ」
司が私を見る。「こっちへ来い」
私は歩いていく。
司はグラスを私の前に置いた。「鈴に謝れ」
グラスの酒を見ながら言う。
「私、アルコールアレルギーだって知ってるよね」
鈴が悔しそうに唇を噛む。
「もういいよ司、茜音さんが嫌なら、無理に飲ませなくても……」
司は彼女を見ず、ただ私だけを見ている。「一口だけだ」
「飲んだら病院送りになる」
司は眉をひそめる。「大げさだ」
そのとき、ふと何年も前のことを思い出す。
初めてアルコールアレルギーを起こした日、全身にじんましんが出て、呼吸も苦しくなった。
司は病院のベッドのそばで、一晩中眠らずに付き添ってくれた。
彼は言ったのだ。「今後お前に酒を飲ませる奴がいたら、俺がそいつをぶっ飛ばしてやる」
あの言葉は、嘘ではなかった。ただ、有効期限が短すぎただけだ。
グラスを手に取るのを見ると、司は私がついに折れたと思ったのだろう。
しかし私は、飲まなかった。
その代わりに、グラスの中の酒をゆっくり床へ流す。
部屋の中が静まり返る。
司を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げる。
「謝るつもりはない。
別れると言うのは本気よ。
施設の費用なら、必ず返す。
今日から、あんたとも、碓井家とも、白川とも、何の関係もない」
司の表情が曇る。「茜音、止まれ」
背を向け、出ていこうとする。
そのとき、鈴が突然近づいてきて、私の腕をつかんだ。反射的にその手を振りほどく。
すると彼女はその勢いで、テーブルの角に倒れ込み、ワイングラスを払い落として割ってしまった。
ガラスの破片で切れた手首を押さえながら、涙をこぼす。
「茜音さん、私のことが嫌いなのは分かります。でも、突き飛ばすなんてひどすぎます!」
司が大股で近づき、私の手首を乱暴につかむ。「謝れ!」
顔を上げる。「そんなことしてない」
鈴は泣きながら言う。「司、もういいの。私のために茜音さんと喧嘩しないで……」
司の手に、さらに力がこもる。
「茜音、謝れ!」
手首が痛み、指先が痺れてくるが、不思議なほどに落ち着いている。
司は私がどんな人間か一番よく知っているはずだ。それでも、私ではなく、鈴の話を信じてしまう。
バッグから1枚の紙を取り出す。
母の処置が終わったあと、病室の外で私が署名した説明同意書だ。
それを、司に差し出す。
「あんたが支払いを止めたせいで、お母さんは急性心不全を起こして、危うく助からないところだった」
司を見つめながら言う。まるで他人の出来事を話しているかのように、とても冷静な声だ。
「あんたの勝ちよ。
白川の機嫌を取るために、お母さんを死なせるところだった。
これから先、私とあんたには何の関係もないわ」