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別人にプロポーズ?家と金をもらい華麗にサヨナラ

別人にプロポーズ?家と金をもらい華麗にサヨナラ

By:  年華Completed
Language: Japanese
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18歳のときから、私・桐生渚(きりゅう なぎさ)はずっと佐伯弘恭(さえき ひろやす)と一緒にいた。 美容室のアシスタントから彼の会社の経理部長になり、狭いアパートから彼が買った一軒家へ移り住んだ。 でも、彼が結婚の話をすることは一度もなかった。まだその時期じゃないんだろう、とずっと思っていた。 けれど、会社に新しく入った受付の女性・成瀬寧々(なるせ ねね)と出会ってわずか3ヶ月。弘恭は彼女の誕生日にプロポーズした。 その話は、見かねた弘恭の友達がこっそり教えてくれたものだった。 10年という月日も、たったの3ヶ月には勝てないんだ。 送られてきた位置情報を見つめる私の手は、スマホを落としそうになるほど震えていた。 高級ホテル内レストランのVIP個室に駆けつけると、中は大盛り上がりだった。 ドアを開けると、弘恭が寧々と抱き合っている姿が真っ先に目に入った。 私はシャンパングラスを手に取り、彼の前へと歩み寄った。 「おめでとう」 彼は反射的に「ありがとう」と返した。 だが、私の顔をはっきりと見た瞬間、彼はその場で凍りついた。 「なんで、お前がここに?」

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Chapter 1

第1話

私は彼を見ず、手元のグラスを軽く揺らした。

「プロポーズなんて大事なこと、どうして私に教えてくれなかったの?」

弘恭は顔色を変え、私の手を掴もうと伸ばしてきた。

「渚、先に帰っててくれ。後でちゃんと説明するから」

私はその手をかわし、静かな声で言った。

「説明なんていらないわ。ただ聞いてみただけ」

寧々が立ち上がり、唇を噛んで私を見つめた。

「桐生さん、ごめんなさい。弘恭さんに言わないでって頼んだのは私なんです」

彼女の声はか弱く、泣きそうに震えていた。

「会社で嫌がらせをされるのが怖くて、陰口を言われるのも嫌だったんです」

私はクスッと笑った。

「安心して。私はそんなことしないわ」

私は彼女の目をまっすぐ見つめ、静かに言葉を返した。

「でも、浮気相手が陰口を言われるのは当然じゃない?そう思わない?」

彼女は顔を青ざめさせ、ぽろぽろと涙をこぼした。

弘恭はすぐに彼女を後ろにかばい、眉をひそめて私を睨んだ。

「渚、もういい加減にしろ。話なら帰ってから聞く」

まるで壊れやすい宝物でも守るように、弘恭は寧々をかばっていた。

彼の顔を見つめながら、ふと見知らない他人のように思えた。

10年。一人の人間の本性を見抜くのに、10年もかかってしまった。

「いいわ、どうぞ続けて」

グラスをテーブルに置き、私は踵を返して個室のドアへと向かった。

背後から寧々のすすり泣く声と、彼女を優しくなだめる弘恭の声が聞こえてくる。

私は一度も振り返らなかった。

ホテルを出ると、夜風が吹き抜けた。

私は道端に立ち、タクシーを拾って家へ向かった。

車窓を流れるネオンを眺めながら、私の頭の中には昨日の出来事がよみがえっていた。

昨日だって、鏡の前で新しく買ったワンピースを合わせては、今週末にでも弘恭に結婚の話を切り出してみようかと考えていたくらいなのに。

付き合って10年。そろそろ落ち着く頃だと思っていた。

今思えば、本当に滑稽だ。

18歳のとき、私は弘恭の女になった。

その年、妹の腎臓病が発覚した。実家が身代を潰す勢いで金をかき集めても、とても手術費用には届かない。私は高校を中退し、美容室の見習いとしてシャンプー台に立ち続けた。

店に通っていた弘恭が、水仕事で赤く荒れた私の手を見て、ふと声をかけてくれたのだ。「うちの会社で働いてみないか。一から全部教えてやるよ」

彼は手取り足取り、決算書の読み方やビジネス書類の作り方、そして大人としての世間の渡り方まで、何から何まで教えてくれた。

狭いアパートから一軒家へ、美容室のアシスタントから経理部長へ。私は10年の歳月をかけた。

誰もが私をシンデレラだと羨み、私自身も信じかけていた。

けれど童話のシンデレラなら、王子様がプロポーズしてくれる。

私の王子様は、別の女の前に跪いていた。

息を深く吸い込んで、車の窓を下げた。

吹き込んできた風で目が痛んだが、涙はこぼさなかった。

これから先、私と弘恭は、もう何の関係もない。

家に着いた時には、もう11時を回っていた。

部屋の明かりは点けず、玄関の小さな灯りだけを残して、私はソファに腰を下ろした。

この一軒家に住んで5年。隅々まで私が片付けてきた。

ソファを選んだのも、カーテンのサイズを測ったのも私。キッチンの食器だって、ひとつひとつ私が揃えたものだ。

もちろん、登記の書類に書かれているのは、弘恭の名前だった。

急にどっと疲れが押し寄せ、ソファにもたれて目を閉じた。

頭の中はぐちゃぐちゃで、この10年間の思い出ばかりが浮かんでは消えた。

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第1話
私は彼を見ず、手元のグラスを軽く揺らした。「プロポーズなんて大事なこと、どうして私に教えてくれなかったの?」弘恭は顔色を変え、私の手を掴もうと伸ばしてきた。「渚、先に帰っててくれ。後でちゃんと説明するから」私はその手をかわし、静かな声で言った。「説明なんていらないわ。ただ聞いてみただけ」寧々が立ち上がり、唇を噛んで私を見つめた。「桐生さん、ごめんなさい。弘恭さんに言わないでって頼んだのは私なんです」彼女の声はか弱く、泣きそうに震えていた。「会社で嫌がらせをされるのが怖くて、陰口を言われるのも嫌だったんです」私はクスッと笑った。「安心して。私はそんなことしないわ」私は彼女の目をまっすぐ見つめ、静かに言葉を返した。「でも、浮気相手が陰口を言われるのは当然じゃない?そう思わない?」彼女は顔を青ざめさせ、ぽろぽろと涙をこぼした。弘恭はすぐに彼女を後ろにかばい、眉をひそめて私を睨んだ。「渚、もういい加減にしろ。話なら帰ってから聞く」まるで壊れやすい宝物でも守るように、弘恭は寧々をかばっていた。彼の顔を見つめながら、ふと見知らない他人のように思えた。10年。一人の人間の本性を見抜くのに、10年もかかってしまった。「いいわ、どうぞ続けて」グラスをテーブルに置き、私は踵を返して個室のドアへと向かった。背後から寧々のすすり泣く声と、彼女を優しくなだめる弘恭の声が聞こえてくる。私は一度も振り返らなかった。ホテルを出ると、夜風が吹き抜けた。私は道端に立ち、タクシーを拾って家へ向かった。車窓を流れるネオンを眺めながら、私の頭の中には昨日の出来事がよみがえっていた。昨日だって、鏡の前で新しく買ったワンピースを合わせては、今週末にでも弘恭に結婚の話を切り出してみようかと考えていたくらいなのに。付き合って10年。そろそろ落ち着く頃だと思っていた。今思えば、本当に滑稽だ。18歳のとき、私は弘恭の女になった。その年、妹の腎臓病が発覚した。実家が身代を潰す勢いで金をかき集めても、とても手術費用には届かない。私は高校を中退し、美容室の見習いとしてシャンプー台に立ち続けた。店に通っていた弘恭が、水仕事で赤く荒れた私の手を見て、ふと声をかけてくれたのだ。「うちの会社で働いてみないか
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第2話
弘恭が付き合いで深酒をして帰ってきた夜は、水と二日酔いの薬を用意して、背中をさすりながら飲ませてあげた。彼の誕生日には、1ヶ月前からプレゼントを用意した。仕事が忙しくて結婚はまだ無理だと言われても、分かった、待つよと答えていた。そうして待ち続けた結果が、今日だった。深夜の2時、鍵の開く音がした。弘恭が帰ってきた。目を開けると、彼が靴を脱いでリビングに入ってくるところだった。リビングの電気は消していた。でも、玄関のわずかな明かりで、彼の首筋にある生々しい赤い痕が見えてしまった。キスマークだ。彼は昔から、体裁が悪いからと、人目につく場所にキスマークを残させるのを嫌がっていた。今日はよっぽど嬉しかったのだろう。ソファーに座っている私に気づき、彼は足を止めた。いつもみたいに抱きしめてくれることも、遅くなった理由を話すこともなかった。彼は私から一番離れた一人掛けのソファーに腰を下ろし、しばらく黙り込んだ。「渚」彼の声は、少し嗄れていた。「俺たち、一緒にいすぎたんだ」私は何も言わず、彼を見つめた。「もう、女として見られないんだ。これじゃ結婚なんて踏み切れない」彼はうつむいて、言葉を選んでいるようだった。「寧々は違う。彼女といると、すごく結婚したくなるし、落ち着きたいと思えるんだ」寧々。あの受付の女性のことだ。私は心の中で、その名前をそっと繰り返した。「この件は俺が悪い。埋め合わせはするから」ようやく彼が顔を上げた。「この家はお前に譲るし、手切れ金として1億円も渡す。それだけあれば十分暮らせるだろ」彼は一呼吸置いた。「会社の方は、自分で退職届を出してくれ。寧々が社内でお前を見たら、きっと嫌な思いをするから」それを聞き終えて、私は小さく頷いた。「分かった」彼が一瞬ぽかんとした。まさかこんなにあっさり承諾するとは思わなかったのだろう。「いいのか?」「いいよ」私は立ち上がり、彼を見つめた。「今すぐ出て行って」彼は眉をひそめた。「今から?」「そう、今夜のうちに」私の声は淡々としていた。「この家を私にくれるなら、今すぐ荷物をまとめて出て行って」彼は数秒間私を見つめ、最後には頷いた。「分かった。上の部屋から荷物をまとめてくる」
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第3話
翌朝、私はいつものように出社した。片付けなければいけない荷物があったからだ。会社の正面玄関を入ると、受付の向こうに寧々が座っているのが見えた。白いワンピースを着て、髪をお団子にまとめた彼女は、見るからに若々しく清楚な印象だった。彼女は私に気づくと、わざとらしく左手を持ち上げた。薬指につけたダイヤモンドの指輪が、照明の下で眩しく輝いていた。私が顔色も変えずに奥へ進もうとすると、彼女は席から回り込んできて、私の前に立ちふさがった。「桐生さん、出社されたんですね」彼女は笑いながら手を掲げ、私の目の前でひらひらと揺らした。「綺麗でしょう?弘恭さんが選んでくれたんです。1カラットなんですって」彼女は首を傾げて私を見つめ、甘ったるい声で言った。「弘恭さんと10年も一緒にいて、ダイヤモンドの指輪なんて買ってもらったことありましたっけ?」私は視線を落とし、その指輪をちらりと見た。「ダイヤモンドの指輪なら、何十個も持ってるわよ」私はふっと笑った。「どれもそれより大きいけれど、服に合わせて着けてるだけ。自慢するほどのものでもないしね」寧々の顔が引きつった。私は彼女を横目に通り過ぎ、自分のデスクへ直行した。デスクの引き出しを開け、私物を片付け始めた。持っていくものなんて、たいしてない。私物は少なかった。私はそれらをダンボール箱に詰めていく。片付けていると、寧々がまたついてきて、私の横から覗き込んできた。「それ、会社の備品ですよね?勝手に持って帰っちゃダメですよ」彼女はダンボール箱の中のファイルを指さした。私はそれを手に取り、中を開いて見せてやった。「これは私の仕事のノートよ。私物だわ」彼女は口元を歪めて、不満をあらわにした。私は片付けを続け、ダンボール箱からいくつかの物を取り出してデスクの上に置いた。「あなたの言う通り、これらは確かに持って帰る必要はないわね」私は彼女に目を向けた。「ここに残したら片付けが面倒だろうと思って、ついでに捨ててあげようと思っただけよ」彼女の顔色が変わった。「なんですって?」「だから、こんな役に立たないもの、ついでに捨ててやろうと思ったのよ」私はそれらの物を彼女の目の前に押しやった。「そんなに気になるなら、代わりに捨てておい
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第4話
弘恭は顔を上げ、複雑そうな眼差しで私を見た。「どういう意味だ?」「言葉通りの意味よ」私は段ボールを抱えて歩き出し、ドアの方で立ち止まって彼を振り返った。「そうそう。退職届は午後、メールで送るから」彼は立ち尽くしたまま、何も言わなかった。経理部を出てオフィスエリアを抜け、エレベーターを待っていると、受付のところにいた寧々がこちらをちらりと見た。私は目も合わせなかった。エレベーターが到着し、乗り込むと、ドアが閉まった。10年間の物語は、ここで終わり。段ボールを抱えてオフィスビルを出ると、エントランスで親友にメッセージを送った。【家と1億円は私のもの。弘恭はその女にあげたわ】親友から即レスが返ってきた。【飲みに行くよ】私はいいよ、と返した。私たちは個室のあるお店で待ち合わせた。静かな個室には、私たち二人だけだった。親友の名前は橘美緒(たちばな みお)。この街で唯一、本音を話せる相手だ。向かいに座る美緒は、私から一部始終を聞き終えると、箸をパシッとテーブルに叩きつけた。「弘恭さんは頭でもおかしくなったの?その成瀬寧々って女、何なのよ。顔しか取り柄がないじゃない!」私はサーモンを一切れつまんで、ゆっくりと噛み締めた。「若くて、綺麗で、何より新鮮味がある」私は少し間を置いた。「あの頃、彼が私と出会った時と同じよ」美緒は怒りにまかせて、酒をグラス半分ほど一気に呷った。「これからどうするの?」「どうもしない。家とお金はもらうけど、男なんてもういらない」私はグラスを持ち上げて、彼女と軽く合わせた。「今日から、私は新しく生き直すのよ」美緒はきょとんとした顔になったあと、ふっと笑った。「オッケー。新しいスタートに乾杯」「乾杯」酒が進んだ頃、美緒がふと身を乗り出し、声を潜めてきた。「ねえ、本気で復讐とか考えないの?」私はグラスを揺らしながら、彼女を見つめた。「復讐って、どうやって?」「成瀬寧々って女、同じ会社にいるんでしょ?そのまま席を譲っちゃうわけ?」美緒は悔しくてたまらないといった顔をしている。私はくすっと笑った。「会社に残って、二人のイチャつきを毎日見届けるのが勝ちだとでも思う?」私はお酒をひと口含んだ。「弘恭のことは、私が一
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第5話
ランニングウェアに着替えて、外の空気を吸いながら軽くひと走りしてきた。汗だくで帰ってきてからシャワーを浴びると、すっきりと爽快な気分になった。それからパソコンを開き、ずっとやるべきだった作業に取りかかった。片付けだ。まずはスマホの中から、弘恭に関係するものをすべて削除した。トーク履歴、写真、メモ帳に残していた彼の好物。全選択して、削除、決定。すっきりと、ためらいもなく消した。それからラインを開き、ピン留めを解除して、表示名を「旦那」から「弘恭」に変えた。次は、この部屋だ。午後をまるまる使って、弘恭の私物をすべて引っ張り出した。服、靴、シェーバー、彼が使い慣れていた枕に、本棚に並んだまま一度も開かれた形跡のない自己啓発本の数々。それらを、用意した何枚もの大判ゴミ袋へ詰め込んでいく。リビングのローテーブルの下には、これまでの二人の写真が入ったアルバムがあった。ページをめくってみたが、自分でも驚くことに何の感情も湧かなかった。写真の中で無邪気に笑う女の子は、まるで前世の出来事のように思えた。そのアルバムも、ゴミ袋の中に放り込んだ。夜の8時、インターホンが鳴った。出前かと思ってドアを開けると、弘恭の運転手の柴田武司(しばた たけし)だった。「桐生さん、社長に言われて、残りの荷物を取りに伺いました」武司はドアの方に立ち、どこか居心地が悪そうにしていた。何か耳に入っているのだろう。体を横によけて彼を通し、リビングの隅に積んだゴミ袋を指差した。「あそこにあるのが全部です。全部で6袋あります」武司はそのゴミ袋を見て、数秒ほど呆然としていた。「運ぶのを手伝いましょうか?」返事を待たずに、私は2袋をつかんで外へと歩き出した。武司は慌てて受け取り、往復して二回でようやく運び終えた。最後のゴミ袋を運び出すとき、彼は私を見て少し躊躇した。「桐生さん、私は社長の元で5年働いてきましたが……差し出がましいことを言うようですが、本当につらい思いをされましたね」私はくすっと笑った。「大丈夫ですよ、柴田さん。これから道で見かけたら、声をかけてくれればそれでいいです」武司はうなずき、何かを言いかけたが、結局は言葉を飲み込んだまま立ち去った。車が走り去った後、私はドアを閉め、手に
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第6話
私は呆然と立ち尽くした。そんなことを言ってくれた人は、今まで一人もいなかった。みんなは、私は運がよくて、素晴らしい出会いに恵まれ、玉の輿に乗ったのだと言った。私自身さえ、そう思い込んでいた。「彼への感謝なんて、10年分も背負わなくていいです。感謝すべきなのは、その10年間を必死で駆け抜けてきた、あなた自身ですよ」凛菜の声はとても静かだったが、その一言一言が釘のように胸に深く突き刺さった。私はうつむき、思わず目頭が熱くなった。それでも、涙はこぼさなかった。「ありがとうございます」私は立ち上がり、深く一礼した。「来週も、また来ます」カウンセリングルームから出ると、外の太陽の光がやけに眩しかった。道端に立ち、深く息を吸い込むと、この10年間ずっと胸に詰まっていた重荷が、少しだけ軽くなった気がした。夜、家に戻ってパソコンを開き、履歴書の作成を始めた。経理の実務経験10年。出納業務からスタートして部長まで務め、決算全般から節税対策まで熟知している。これまでの実績を、一つひとつ丁寧に書き連ねていく。書き終えてから全体を見直し、これならいけると手応えを感じた。それから求人サイトを開いて、条件に合う求人を探し始めた。同じ業界の会社には応募せず、あえて異業種の中堅企業をいくつか選んだ。弘恭に会うのが怖いわけじゃない。ただ、もうあの業界に関わりたくなかったのだ。世界は広いのだから、わざわざ同じ狭い池に留まる必要なんてない。数社ほど応募を済ませてパソコンを閉じ、お茶を淹れてベランダに出た。夜風が心地よく、庭に咲き誇るクチナシの花から甘い香りがふわりと漂ってくる。ふと、18歳の頃に住んでいたあの狭い部屋を思い出した。窓もなく、壁紙は剥がれ落ち、隣の部屋からは毎日のように怒鳴り声が聞こえていた。あの頃の夢は、ただ陽の当たる窓がある部屋に住むことだった。それが今では、庭付きの一軒家を手に入れている。そう考えると、やっぱり弘恭には感謝すべきなのかもしれない。私にチャンスを与えてくれたこと、そして最後はこういう形で自由にしてくれたことに感謝しよう。お茶が冷めたので、部屋の中に戻った。スマホの画面が明るくなり、新着メッセージが届いていた。美緒からで、たった一行だけだった。【
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第7話
悠と別れたあと、私はカフェのドアの方に立ち、通りを行き交う車を眺めていた。ふと、胸の中がすっと落ち着くのを感じた。仕事が決まったからだけじゃない。最初から最後まで、自分の力だけでやり遂げたからだ。自分の実力で勝ち取った結果だった。こんな気持ちになれるなんて、すごくいい。週末は部屋を徹底的に掃除して、デパートへ新しい服を何着か買いに行った。これまでの私のクローゼットは、弘恭好みの服ばかりだった。淡い色合いで、大人しくて、品がある感じ。言ってしまえば、おとなしい観葉植物みたいなものだ。そこにあれば綺麗で、決して邪魔にならないような。でも今回は、思い切って服のテイストを変えてみた。黒や深めのブルー、それにすっきりとしたシルエットの服。袖を通すだけで、自分自身の纏う空気ががらりと変わった気がした。試着室から出てきた私を見て、店員は目を輝かせた。「お客様、すごくお似合いです!かっこいいですよ」鏡を覗き込んでみると、確かに悪くない。お会計のとき、カードで40万円以上を切った。月曜日、私は時間通りに悠遠総合法律事務所へ初出勤した。事務所は街の中心部にあるオフィスビルの18階にあった。広さはそこそこだが、内装はとてもセンスがいい。グレーを基調に、ウッド調の家具を合わせた、シンプルで上品な空間だった。悠自らが案内役を買って出て、事務所のメンバーを一人ひとり紹介してくれた。所内の人数は20人ほど。大半を若い弁護士たちが占めているせいか、気取ったところのない、風通しのいい空気が流れていた。「うちでお金周りを任せられるのは君一人なんだ。今までは僕が片手間にやってたから、結構ごちゃごちゃしててね。これからはよろしく頼むよ」彼は私を専用の執務スペースの前まで案内すると、少し照れくさそうにドアを開けた。中を覗くと、デスクの上には領収書や書類が山積みで、まるで事件現場のようだった。「大丈夫です、私に任せてください」私はバッグを置き、袖をまくって片付けに取りかかった。朝の9時から夕方6時までぶっ通しで作業し、合間にサンドイッチをかじっただけだった。ようやく腰を上げたときには、デスクの書類はすっかり分類され、保管するものと入力するものがきれいに分かれていた。ついでにエクセルで一覧表を作成し、すべての収支
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第8話
彼の声は低く、今まで聞いたこともないような疲れが滲んでいた。スマホを握ったまま、私は何も言わなかった。「俺の荷物……全部捨てるつもりだったのか?」彼が言っているのは、あのゴミ袋に詰めた物のことだ。「ええ」電話の向こうで、数秒の沈黙が流れた。「あのコートまで、捨てるつもりだったのか?」3年前の彼の誕生日に、給料を2か月分貯めて買ってあげたカシミヤのコートのことだ。「ええ、そのつもりよ」私は落ち着いた声で答えた。「どうせ、あなたも来ないでしょ」彼は何も言い返せず、長い沈黙が続いた。「渚、お前最近……」「用事があるから、もう切るね」言い終わるのを待たずに、そのまま電話を切った。そして、その番号を着信拒否に入れた。背もたれに寄りかかり、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。心臓が少し速く脈打っていたけれど、ときめくからじゃない。邪魔をされたことへの苛立ちのせいだ。息を深く吸い込んで、バッグを持ち、部屋の明かりを消して鍵をかけた。ビルを出ると夜風が吹き抜け、その心地よい涼しさに、頭がすっきりと冴えた。タクシーを拾おうと道端に立っていると、ふと向かいにあるティースタンドの、温かみのあるオレンジ色の明かりが目に入った。私はそこへ歩いていき、烏龍ミルクティーを1杯買った。手に取ると、ひんやりとして心地よかった。一口飲むと、ちょうどいい甘さだった。この世界には、まだまだ素敵なものがたくさんある。この美味しいお茶もそうだし、新しい仕事もそう。帰らない人を待たなくていいこともそうだ。私は道端でゆっくりとそのお茶を飲み干し、流しのタクシーを捕まえて家路についた。家に着くと部屋着に着替え、ソファにもぐり込んでスマホを眺めた。美緒からリンクが送られてきた。【早く見て!土曜の夜の恋活パーティー、あなたの分も申し込んどいたから!】開いてみると、ハイスペック向けの婚活パーティーのページだった。【あんた正気?】【いいから!新生活には新しい出会い!ガンガンいこう!】【行かないわよ】【もう申し込んじゃったもん。キャンセル不可で8万円だからね!】【美緒!】【愛してるよ!】画面を見つめながら、呆然としながらも笑ってしまうしかなかった。まあ、いいか。行く
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第9話
思わず、航の顔をじっと見つめてしまった。事務所ではいつもチャラチャラしているのに、プライベートではこんなにも頼りがいがあるなんて予想外のことだった。私たちは部屋の隅に座り、とりとめのない話をぽつぽつと続けた。仕事に慣れたかと聞かれ、順調だと答えた。弁護士って大変かと尋ねると、大変だけど面白いよ、と彼は言った。イベントが終わるまで話し込み、帰り際に彼が家まで送ると言ってくれた。「大丈夫。タクシーを拾うから」「こんな時間ですし、タクシーは危ないですよ」彼の口調はとても自然だった。「送りますよ。どうせ帰り道ですからさ」私は彼の顔を見て、ただの社交辞令かどうか見極めようとした。でも、彼の真剣な表情を見る限り、お世辞や気遣いではなさそうだった。「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう」車に乗り込むと、彼は行き先を聞いてナビに入力した。車内は静かで、カーステレオから懐かしい曲が小さな音で流れていた。家の前に車が止まると、彼は外をちらりと見た。驚く様子もなく、ただこう言った。「それじゃ、また明日事務所で」「はい、また明日」車を降りて、角を曲がってテールランプが見えなくなるのを見届けてから、家に入った。スマホが小さく震えた。航からのメッセージだった。【今日あなたに会えたことが、あのイベントで唯一気まずくなかった時間でしたよ】画面を見つめながら、私は思わず口元をほころばせていた。月曜日の朝、エレベーターの中で航と鉢合わせした。白シャツ姿の彼はネクタイを緩め、髪もいつもの気だるげなセットに戻っていた。「おはようございます」彼はひとつ、あくびを噛み殺した。「昨夜は徹夜で事件の記録を読んでいまして、眠くて死にそうです」「コーヒーでも飲んだら?」「桐生さん、早く、助けてくださいよ」彼は今にも倒れそうな大げさな顔をして見せた。私は笑って首を振りながら、エレベーターを降りた。事務所に入ると、私のデスクの上にすでにアメリカーノが置かれていた。冷たくて、甘さ控えめのやつだ。給湯室の方を振り返ると、ちょうどカップを手にした悠が出てくるところだった。「朝コーヒーを買った、ついでに、君の分も買ってきたんだ」彼の声は淡々としていた。「前に、微糖のアメリカーノが好きだって
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第10話
返信しようとしたその時、事務所のドアが開いた。航がひょっこり顔を出し、にこにこしながら言った。「桐生さん、タピオカドリンク届きましたよ。給湯室に置いてあります」「今行く」席を立って外へ向かうと、すれ違いざまに彼がふっと声を潜めた。「桐生さんのだけ、特別に選んだやつですからね。他の人のとは違いますよ」それだけ言って彼はさっさと行ってしまい、私はその場に取り残されて苦笑いするしかなかった。タピオカドリンクを一口飲むと、ちょうどいい甘さだった。午後、悠が書類を届けに私の席へやって来た。デスクの上のタピオカドリンクを見て、何気なく言った。「糖質制限するって言ってなかったか?」私は思わずぽかんと固まってしまう。そんなこといつ言ったっけ?「先々週の金曜日、昼飯を食べてる時に言ってた」彼は当たり前のことのように淡々とした口調で続けた。「最近1キロ太ったから、糖分を控えるって」確かにそんなことを言った覚えがある。「よく覚えていますね」と私は笑った。彼はその話題を広げず、デスクに書類を置いた。「この案件に関係する請求書が届いたから、処理をお願いできるか」「分かりました」立ち去りかけた彼がドアの方で足を止め、少し躊躇してから振り返った。「桐生さん」「ん?」「週末、企業のコンプライアンスに関するセミナーがあるんだが、行ってみないか?」私は少し考えた。企業の経理としてコンプライアンスの最新動向を知ることは確かに必要だし、こういうセミナーは役立つことが多い。「いいですね。いつですか?」「土曜の朝9時から夕方5時まで。中心街のマリオットホテルだ」彼はポケットからスマホを取り出して確認した。「招待枠が二つあるんだ。一つは君に、もう一つは自分用だ」「了解です。じゃあ土曜日に」彼は一つ頷くと、私のデスクを離れていった。月日が流れるのは早く、あっという間に11月になった。悠遠総合法律事務所で働き始めてからもう5ヶ月が経ち、仕事にもすっかり慣れていた。悠は私にかなりの裁量を持たせてくれた。財務周りの実務判断はほぼ一任され、彼自身は全体の方針や重要なポイントを握るだけにとどめていた。この間に、事務所内の人間関係も少しずつ掴めてきた。悠という人は、物腰は柔らかくて丁寧だが、どこ
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