LOGIN夫の高瀬修也(たかせ しゅうや)が今も忘れられずにいる女は、かつて3年間、私をいじめ続けた張本人だった。その女が息子の高瀬悠(たかせ ゆう)の担任になり、今度は息子の身の安全を盾に私を脅してきた。 それでも夫は何もしないばかりか、冷たく私を責めた。あの女をかばうためなら、悠が傷つくことさえ構わないのだ。 けれど、今度ばかりは譲れない。私·岡田千尋(おかだ ちひろ)は、この子の母親なのだから。
View More何年も前のことだった。大半の人は忘れていて、覚えているわずかな人たちも、証言したがらなかった。あれほど脅しに使われた動画も出てこなかった。つまり、証拠がない。全身に残った傷痕だけでは、あの女の罪を問えなかった。私の受けた被害が裁かれる日は、いつまで待っても来なかった。また朝日が昇るたび、疑いたくなる。私だけが、ずっと暗闇にいる運命なのだろうか。悠は、しばらく車椅子を使うことになった。退院の日、家に戻ると修也がいた。壁に飾られた結婚写真をぼんやりと見つめ、私たちが入ってきたことにも気づかなかった。「気が済んだら、外しておいて」私は淡々と言った。修也の目が、指輪のない私の指に落ちた。そのまま、長いこと動かなかった。「離婚は、考え直せないか」ようやく絞り出した声は、すがるようだった。「千尋、一生、二人でちゃんとやっていこうって約束しただろ。忘れたのか?毎日、傷んだ見切り品の野菜を買って、期限の切れた牛乳を飲んでた。寝る場所だって、古いベッドで、カビだらけだった」修也は涙声で、私の手を取った。「でも、あの頃は二人とも、諦めようなんて言わなかった。あんなにつらい時期を乗り越えたのに、どうして今になって……」私は手を引き抜き、涙に濡れた目を見返した。なぜだろう。自分を嘲るような笑いが漏れた。「そうね、修也。私も不思議なの。あんなに苦しい日々は乗り越えられたのに、どうして今は、一緒にいられないんだろうって。でもね、苦しみは分かち合えても、幸せは分かち合えない人もいるのよ」修也は、長いこと言葉を失っていた。私は目をそらし、背を向けてスーツケースを持ち上げた。疲れた声で告げる。「修也、離婚しよう」夢の中では、まだあの頃の彼を覚えている気がした。若さにあふれた少年が、土砂降りの中で私の手を取り、一緒に走っていた。先生が不公平な扱いをすれば、ひるまず立ち上がって私をかばい、相手を指さして激しく抗議した。酔った父に殴られたときは、細い体で覆うようにして、私を守ってくれた。私が試験で1位を取って喜んでいると、抱きしめて、声を上げて笑った。言葉を覚え、よちよち歩きをしていた頃から、幼い子どもだった日々を経て、少年と少女になるまで、ずっと一緒だった。指輪はもうない。それでも、その跡は深く指に刻まれている。幼なじみとしての絆も失われ、長く育
ペンを受け取っても、手が震えて握れなかった。3度目にペンを落としたとき、誰かが私の手に自分の手を重ね、支えながら名前を書いた。【岡田千尋 高瀬修也】「怖がらなくていい。きっと大丈夫だ」修也が私を抱き寄せ、手を握った。押しのけることもできず、ただ涙ばかりが落ちた。手元に冷たさを感じて、顔を上げた。修也はわずかに顔をそらした。その目元に、涙が光ったように見えた。しばらく呆然としてから、ぼんやりとうつむき、口を押さえてすすり泣いた。「どうして……私一人を傷つけるだけじゃ足りなかったの?悠が何をしたっていうの?」修也は唇を固く結び、長いこと黙っていた。私はその襟元をつかみ、叫んだ。「あの子が何かしたの?何が悪かったの!あの女はあなたが欲しいんでしょう。だったら行ってよ!あの女のところに行けば、私たちを放っておいてくれるんじゃないの!」力任せに修也を押しのけた。修也は殴られるまま、顔を真っ青にして、ぎこちなく立ち尽くしていた。「どうしてあなたを助けてしまったんだろう。受験が終わったあのとき、死なせておけばよかった!」釘で足裏や脚の神経が傷つき、悠はしばらく脚を動かせない状態になった。「ママ、脚がしびれる。どうして足の感覚がないの?どうして動かないの?」悠が怯えた目で私を見上げ、小さな手でシーツを握りしめた。喉が詰まり、果物の皮をむいていた手が止まった。「もう少ししたら、よくなるよ。心配しないで」悠は黙ってうつむいた。「ママ、僕もテレビで見た人みたいに、ずっとあの椅子に座ってなきゃいけなくなるの?」唇を動かしたけれど、すぐには声が出なかった。私は強く首を振った。「そんなことないよ。悠は小さなヒーローでしょ。ヒーローは、強いんだから」悠が眠ると、私は黙って病室の白い壁を見つめた。どうして幼稚園の砂場に、あれほどたくさんの釘があったのか。あれだけ子どもがいるのに、なぜ悠だけがけがをしたのか。そんな偶然が、あるはずがなかった。警察と一緒に幼稚園に行くと、砂場の防犯カメラだけが壊されていた。つまり、誰かが故意にやったということだ。幼稚園で起きた凄惨な事件は、近隣に知れ渡っていた。特に園児の保護者たちは、恐怖と怒りに震えていた。警察も騒ぎを抑えきれず、保護者たちは連名で上部機関に訴えた。騒ぎは大きくなっていった。それでいい。もっ
数年前、私がなかなか妊娠しなかった頃から、修也の母の態度は変わっていた。何かと文句をつけるようになり、陰では「子どもも産めないくせに」とこぼしていた。子どもを作るのに、どうしてあんなに金がかかるのか、とも。今の修也があるのは、私が必死に立ち直らせたからだということなど、すっかり忘れていた。人の気持ちは、あっけなく変わる。約束が意味を持つのは、人に何かを頼むときと、深く愛している間だけなのだ。慌てて戻ってきた修也も、私の手をつかみ、離婚したくないと言った。私は無表情のまま、その首筋に残るキスマークを見た。吐き気がこみ上げ、空いている手で頬を張った。あの夜、修也が家を出てわずか30分後、絢音から、彼と食事をしている写真が送られてきていた。「首のその汚いもの、ちゃんと隠して。悠に見せないで!」修也はよろめいて後ずさり、慌てて首を手で覆った。修也の母も気づいたらしく、気まずそうに目をそらす。「離婚しないであげてもいいわ」私は修也を指さし、はっきりと言った。「昔のいじめも、子どもへの虐待も、教師にあるまじき振る舞いも、全部あなたから担当窓口に訴えて。絢音をきちんと処分させて。それだけよ」ついさっきまで必死にすがっていた修也が、ぴたりと黙り込んだ。隣で修也の母がどれほど目配せをし、せっついても、ぼうっとしたまま反応しなかった。私は皮肉な笑いを漏らした。胸のあちこちが、ちくちくと痛む。「わかった。明日の朝9時、区役所で。離婚届を出しましょう」権力を持つ絢音を、どうすれば追い詰められるのか。答えが出なかった。その夜、何となくニュースを見ていて、ふとひらめいた。世論だ。今は誰もがネットを使う時代だ。注目する人が増え、ネットで騒ぎが大きくなるほど、正しく裁かれる可能性も高くなる。人々の非難は、ときに人を追い詰める。それが何千万、何億もの声になったら、どうだろう。いくら黒田家でも、それほど大勢の口を塞げるはずがない。私は伝手を頼り、絢音が中学や大学でいじめていた人たちを捜した。訪ねたのは、小さな食堂だった。そこで、捜していた相手を見つけた。「何回言えばわかるんだ!客の前に出るな!出るなって言ってるだろ!その顔を見て、どれだけ客が逃げたと思ってる!」太った店主が、苛立たしげに手をたたいた。「ああ、まったく!安く使えるからって、雇わなきゃ
笑って頭をなで、ほっと息をついた。けれど顔を上げると、絢音がこちらをにらみつけていた。私は眉を寄せた。胸の奥に、言いようのない不安が広がった。家に帰ると、何日も帰っていなかった修也がいた。険しい顔で近づくなり、有無を言わせず悠の腕をつかみ、乱暴に引き寄せる。恐ろしい形相で怒鳴った。「悠!今日、黒田先生を怒らせたのか!」悠はびくっと体を震わせた。手にしていたおもちゃが、音を立てて床に落ちる。声を上げて泣き出し、首を振りながら「違う」と繰り返した。それでも修也は怒鳴った。「嘘をつくな!」私は修也を押しのけ、悠をかばった。胸の底から、怒りがこみ上げる。「何するの!自分の子がいじめられたときは黙っていたくせに、今度は不倫相手のために悠に当たるの?」修也は後ろめたさを感じたのか、少し声を落とした。「絢音が言ってたんだ……」「絢音?」腹が立つあまり、笑ってしまった。その名前を繰り返す。「あなたの妻は絢音なの?それとも私?こんなことになるなら、あの女がいなくなったとき、放っておけばよかった。大学にも受からない成績のまま、死ぬまで酒を飲んでればよかったのよ!」修也は一瞬固まり、うつむいて黙り込んだ。シッターが悠を連れていった。がらんとした部屋には、私たちだけが残った。長い沈黙のあとで、修也が言った。「……ごめん」私は部屋を見渡した。目の奥が熱くなる。この家は、本当に広い。絢音が去ったあと、修也は死ぬだの生きるだのと大騒ぎしていた。大学には受からず、たばこと酒に溺れ、昼も夜もバーに入り浸った。毎日ぼんやりと過ごし、何度も病院に運ばれた。修也の両親は毎日のようにうちを訪ね、私に頭を下げた。すっかり老け込んだ顔には、いつも涙が浮かんでいた。「浪人して、もう一度受験して。私、待ってるから」あの日、私は修也をバーから引っ張り出し、彼がかつてもらった賞状の厚い束を、その顔にたたきつけた。私は1年間休学し、それからは修也につききりで、きちんと勉強するよう見張った。自業自得だと、自分を責めることもあった。髪をつかまれて犬の鳴きまねをさせられていたとき、この男は冷たい目で見ていただけなのに。それでも、修也の母に何度もすがられると、突き放すことができなかった。修也は翌年、よい成績で大学に合格した。大学では二人で励まし合いながら努力を重ね、卒