Share

第4話

Author: 瑞木結花
パァン!

本当に彼を叩くつもりなどなかった。完全に本能的な反応だった。

男の顔にみるみるうちに浮かび上がる赤い手形を見て、結月は無意識に息を呑んだ。そして震える手でシートベルトを外し、逃げ出そうとした。

慎也は壁のようにドアを塞いだ。

「ふん。これで気は済んだか?」

結月は青ざめた。自分の気が済んだかどうかは分からない。だが、間違いなく相手を激怒させてしまったと感じ、いっそのこと抵抗するのをやめた。

慎也は再び結月にシートベルトを締めさせ、自身も運転席に乗り込んだ。

カリナンはすぐさま車の波へと合流し、車内は死に絶えたような静寂に包まれた。

三十分後、車は都心にある高級マンションの駐車場へ入った。慎也は結月の手首を掴み、そのままエレベーターへと引きずり込んだ。

結月は半ば諦めたように言った。「好きにしていいから、後でブレスレットを返してくれる?」

慎也は何も答えなかった。

エレベーターが最上階で止まると、今度は引きずられるまでもなく、結月は自ら彼の後ろについて降りた。

どうせすでに一度寝た仲だ。二度目があろうと大した違いはない。狂犬に噛まれたと思えばいい。

そう自分に言い聞かせ、部屋に入るなり服を脱ぎ始めた。リビングに他の人間がいることにも気づかずに。

大野賢吾(おおの けんご)は医者だ。

仕事柄、患者の様々な体を見慣れているとはいえ、これほど美しい女性が部屋に入るなり服を脱ぎ始めたことには度肝を抜かれた。親友の慎也が自分を罠に嵌めようとしているのではないかと疑ったほどだ。

このまま止めなければ下着まで脱いでしまう勢いだったため、彼は慌てて両目を覆い、大声で叫んだ。「ストップ、ストップ!慎也、早く彼女を止めろ!」

慎也はもともと腹に据えかねる怒りを抱えていたが、結月が大人しく従ったことで、少しだけ火が収まっていた。

そこへ、賢吾のけたたましい叫び声が響いた。

振り返ると、結月はすでに下着のホックを外していた。まさか部屋に他の人がいるとは思わなかったのだろう。彼女も完全に硬直していた。

「クソッ!」

顔を真っ青にして怒った慎也は、床に落ちていた服を拾い上げ、力任せに彼女の体を包み込んだ。こめかみに青筋を浮かべ、荒々しく振り返ると、賢吾に向かって低く唸った。

「賢吾、お前は出て行け!」

賢吾は下を向いて目を覆ったまま外へ逃げ出そうとしたが、慎也が歯を食いしばるようにして放った言葉が背中に飛んできた。

「三十分後に入ってこい」

「……」

賢吾は絶句した。絶対に今日は、八つ当たり要員として騙されて呼ばれたに違いない。

そう疑いながらも、彼はそそくさと部屋を出て行き、気を利かせてしっかりとドアを閉めた。

部屋の中では、慎也にきつく服で包み込まれた結月が、ようやく我に返っていた。

自分が先ほど何をしたのかを自覚し、顔が一気に充血する。耳の裏から首元まで真っ赤に染まり、彼女はうつむいたまま、くぐもった声で言った。「人がいるなら、どうして早く言ってくれなかったの」

結月の理不尽な言い草に、慎也は呆れて鼻で笑った。たまらず彼女の頬をつまみ、軽く引っ張る。

「あのな、よく考えろ。普通の人間はな、他人の家に入って靴を脱ぐより先に服を全部脱いだりしねえんだよ」

結月はぐうの音も出ず、黙り込んだ。

その姿は、慎也に昔家で飼っていた猫を思い出させた。

気位が高くて冷淡で、誰かが近づけばすぐに爪を立てるくせに、自分が粗相をした時は大人しく部屋の隅にうずくまって、あからさまに申し訳なさそうな態度をとるのだ。

慎也はなぜかその様子に機嫌を良くし、彼女の腰をポンと叩いた。

「シャワー浴びてこい。出たら、賢吾に喉の傷を診てもらうぞ」

結月は何か言いかけたが、結局口をつぐみ、そのままバスルームへと向かった。

彼女とて、相手の厚意を無下にするほど恩知らずではない。

ただ、自分が傷ついた時に気にかけてくれたのが、家族ではなく、嫌悪してやまない慎也だったことが意外だっただけだ。

感謝しているか?

いや、そんなことはない。

そもそもこの傷は慎也のせいだ。彼が自分の体に痕を残さなければ、涼介に首を絞められることなどなかった。

彼が医者を呼ぶのは当然の義務だ。慎也への嫌悪感は以前と何ら変わらない。

というより、涼介と親しい人間はすべて、等しく嫌悪の対象だった。涼介がろくでもない男なら、慎也はそれ以上のクズだ。

結月がバスルームに入るのを見届けると、慎也は口角を上げた。先ほど彼女の頬をつまんだ手を、目の前まで持ち上げる。

指先にはまだ、あの温かく柔らかな感触が残っているような気がした。無意識に指をこすり合わせると、喉の奥がチリチリと乾くのを感じた。

シャワーから上がると、慎也は彼女がきちんと服を着ていることを確認してから、外でしゃがみ込んでいた賢吾を呼び入れた。

賢吾は医者としてのプロ意識を発揮し、真剣な表情で傷の状態を診察した。ゴム手袋をしてはいたが、指が彼女の肌に触れるのを極力避けているのが分かる。

結月も気まずさのあまり、賢吾の方を見ることができなかった。

「頸部の軟部組織挫傷、喉の充血と声帯の損傷を伴っているな」

賢吾は眼鏡を押し上げた。

「ここ数日は、筋肉が強張ったり、動かすと引きつるような痛みが出るかもしれないが、幸いそこまで重症じゃない。

表面の痣には内出血を散らす軟膏を塗って、声帯の損傷には消炎剤を飲ませろ。ここ数日はなるべく口数を減らして、食事も消化にいい薄味のものを」

慎也は頷き、処方箋を受け取ると、冷たい声で言い放った。「もう帰っていいぞ」

賢吾は鼻で笑った。

「都合のいい時だけ呼びつけて、用が済んだらすぐ追い出す。本当に情の薄い男だな」

文句を言いながらも、その逃げ足は風のように速かった。

賢吾が帰ると、部屋全体が嘘のように静まり返った。結月が口を開く。「するの?しないならブレスレットを返して。金目のものじゃないから、あんたが持っていても意味ないでしょ」

それは満がまだ幼かった頃、自分のお小遣いを使って道端で買ってくれた小さなアクセサリーだった。身に着けていること自体が、結月にとって一つの心の拠り所だったのだ。

慎也は意味深な笑みを浮かべた。

「お前、本当に頑固だな」

「よく言われるわ」

結月は頑なに慎也を見つめ返した。今度は手を出さなかった。また彼に舐められるのではないかと恐れたからだ。

「わかったよ。お前には敵わねえ」

慎也はポケットからブレスレットを取り出して彼女に返すと、立ち上がって部屋のドアへ向かった。

「大人しく待ってろよ」

結月はそのまま帰ろうかとも考えたが、こんな時間に帰れば、ドアを叩いて朋美を起こしてしまう。

それに、帰ったところでどうせソファで縮こまるしかないのだ。これだけ散々な目に遭ったのだから、これ以上自分に我慢を強いるのはやめよう。

そう思い直し、結月はまっすぐゲストルームへ向かった。清潔な掛け布団が用意されていたのをいいことに、そのままベッドへ横になった。

十数分後、救急箱を提げて戻ってきた慎也は、もぬけの殻となったリビングを見て、一瞬にして険しい表情を浮かべた。

だが直後、結月の靴がまだ残っていることに気づく。ゲストルームで彼女を見つけ、体を何度か揺すってみたが、起きる気配はない。蓑虫のように布団に包まっていた彼女を引っ張り出し、襟元を広げ、薬を絞り出して塗り込んだ。

軟膏のひんやりとした感触に、結月は本能的に首をすくめた。薄く目を開け、それが彼だと分かると、顔を背けて再び眠りに落ちてしまった。

自分を信頼してくれていると喜ぶべきか、それとも警戒心がなさすぎると怒るべきか、慎也は一瞬分からなくなった。

結月が下心を持って自分に近づいていることなど百も承知なのに、どうしても抗えない。腹いせのように彼女の青白い唇を何度か強く指でこすり、その柔らかい唇にいくらか赤みが差すのを確認してから、名残惜しそうに手を離した。

---

翌日、結月が目を覚ました時、外はまだ薄暗かった。自分の靴に履き替え、そのままマンションを後にする。

実家に戻ってきた頃には、ちょうど朝日が昇り始めていた。

ドアをノックしようとしたが、驚いたことに鍵は開いたままで、軽く触れただけで勝手に開いた。

リビングには煌々と明かりが灯っていた。朋美と雅明が涼介と何かの話をしており、その態度はひどく卑屈で、まるで媚びへつらっているかのようだった。

結月は涼介の姿を見た瞬間、ためらうことなく踵を返した。しかし、ドアを開けようとしたその時、屈強な二人のボディガードが立ち塞がった。

涼介の声が、すぐ背後から耳元にへばりつくように響いた。

「結月、どこに行ってたんだ?ここで一晩中待ってたんだぞ」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 利用された御曹司は、もう私の夫になる気満々   第13話

    涼介にとって、自分はいったい何なのだろう。ただの玩具にすぎない。涼介は自分を愛してはいない。それなのに所有物のように扱い、愛情を注ぐこともなければ、自由にするつもりもないのだ。満がまだ元気で、これほど涼介を憎んでいなかった頃なら、きれいに別れてそれぞれの道を歩むことも考えた。実際にそうしようと思ったこともある。けれど、過去をひとつひとつ思い返すたびに、しまい込んでいた傷口を自らえぐることになる。自分を傷つけるだけで、誰への復讐にもならない。だから、口にはしたくなかった。ましてや、慎也の前で話すつもりなど毛頭ない。時には、沈黙こそが一つの答えになる。運命を受け入れ、妥協することと同じだ。慎也は驚きの入り混じった目で、長いこと結月を見つめていた。信号が変わり、車が再び走り出してようやく前へ視線を戻すと、慎也は口元をわずかに歪めて尋ねた。「そこまであいつを愛してるのか?」結月は取り合うのも面倒になり、適当に答える。「ええ、そうね。死ぬほど愛してるわ」――死んでほしいと思うほどに。「へえ。その偉大な愛に、乾杯」結月はふんと鼻で笑った。「どうも」慎也は返す言葉もなく、その後は車中ずっと口を閉ざしたままだった。ようやく静かになった車内に、結月はほっと息をつく。慎也のようなろくでもない男は、口を開かないほうがずっとマシだ。深夜、黒いカリナンが桐山家の屋敷の前に停まった。結月が車を降りようとしたとき、慎也が不意に口を開く。「結月、俺のことをどう思う?」大人の男女の間では、何もかもをはっきり口にする必要などない。結月は振り返り、慎也をちらりと見た。「脳みそを診てもらってきたら?」慎也は気だるげに返す。「俺が自ら差し出しても、いらないというのか?」今度ばかりは、結月も呆れて慎也をまじまじと見つめ返した。じっくりと値踏みするように見てから尋ねる。「何が目的なの?」「スリルがあったから」慎也は切れ長の眉をわずかに上げ、どこか軽薄で女慣れした雰囲気を漂わせていた。結月は「頭おかしいんじゃない?」と吐き捨てると車を降り、勢いよくドアを閉めて立ち去った。慎也は結月が邸宅の中へ入っていくのを見送る。その姿が見えなくなってから、ようやく窓を開けて煙草に火をつけた。そこへ一輝から電話

  • 利用された御曹司は、もう私の夫になる気満々   第12話

    春奈の悲鳴が響く中、結月の体は慣性で前へ投げ出され、次の瞬間にはシートベルトに強く引き戻された。結月は呆然とした。まさか、自分の願いがこんなにもあっさり叶うなんて。車は制御を失い、横のガードレールに激突した。強い衝撃に襲われ、結月の視界は激しく揺れ、頭がくらくらした。一方、横からの衝撃を受けた春奈は、涼介にしっかりと抱きかかえられており、かすり傷ひとつ負っていなかった。明は体勢を立て直し、バックミラー越しに後方を確認すると、驚愕したように声を上げた。「社長、相手は慎也さんの車です」結月はふらつく頭を軽く振った。少し眩暈がする。ドアを押し開けて車を降りると、道端で何度かえずいた。振り返ると、慎也が車から降りてくるところだった。両手をポケットに突っ込み、自分の車のフロント部分の損傷を確認している。そして、何気ない様子で結月へ一瞥をくれた。涼介は春奈を落ち着かせてから車を降り、慎也を問い詰めた。「慎也、どういう状況だ?」慎也は眉を上げると、気だるげな口調で答えた。「失恋してな。ちょっとぼんやりしてて、気づかなかった。奥さんたち、大丈夫か?特にそっちの奥さん、腹の子には気をつけろよ」「慎也、余計なことを言うな。結月が変に勘違いするだろう」涼介は無意識に結月へと目を向けた。結月は伏し目がちに、冷ややかな表情を浮かべている。慎也の言った「奥さんたち」という言葉など、まるで気にしていないようだった。その瞬間、涼介の中にまたしても苛立ちが込み上げてきた。自分でも理由の分からない怒りだった。まさにその怒りをぶつけようとしたとき、春奈の切羽詰まった声が響いた。「涼介、早く来て。私、お腹の調子がおかしい……」春奈は両手でお腹を押さえ、今にも倒れそうになっていた。涼介の顔色が変わる。慎也の相手などしていられず、春奈のもとへ駆け寄ると、そのふくらはぎを伝う血が目に入った。「落ち着け。すぐ病院へ連れていく。明、車を出せ!」明はちょうど、結月にペットボトルを一本渡したところだった。躊躇いがちに口を開く。「社長、奥様も怪我をされています……」涼介が振り返る。結月の顔は紙のように真っ白で、頬には先ほど叩かれた跡がくっきりと残っていた。街灯に照らされたその姿は、ひどく弱々しく

  • 利用された御曹司は、もう私の夫になる気満々   第11話

    外へ出る途中、結月のそばを通り過ぎても、涼介は一瞥すら向けなかった。ただ、自分の秘書兼ボディガードである桐山明(きりやま あきら)を呼び入れ、冷ややかに言いつける。「あいつを見張っておけ」明は頷いた。「はい」涼介が出ていくと、明は入口に立ち、結月に申し訳なさそうな視線を向けた。もし結月がここから出てしまえば、叱られるのは明だ。明はいい人で、これまで何度も自分を助けてくれた。だからこそ、自分のせいで明を巻き込みたくはなかった。結月はソファに腰を下ろすと、スマートフォンを取り出し、パズルゲームを始めた。それを見た明は少し考え、外へ出てスタッフに頼み、保冷剤を二つもらってきた。一つは春奈の付き添いのスタッフに、もう一つは結月に渡す。結月は受け取って礼を言い、保冷剤を頬に当てた。涼介がいなくなった今、春奈の涙を気にする者は誰もいない。春奈は涙を拭うと、不意に笑った。「私があなただったら、厚かましく涼介に縋りついたりしないわ。もう離婚したんだから、さっさと涼介の妻の座を明け渡したら?」結月は頭のてっぺんからつま先まで、春奈を眺め回した。「知らないの?」春奈の笑顔が止まる。「何が?」「厚かましいのはあんたと涼介でしょ。一人はしつこくまとわりついて私を離さない。もう一人は自ら進んで愛人に収まってる――」結月の言葉に、春奈の顔からさっと血の気が引いた。どの一言から反論すればいいのか、一瞬で分からなくなる。ようやく言い返す言葉を思いついた頃には、すでに絶好の反撃の機会を逃していた。ほどなくして、岳人の秘書がやって来て、春奈に岳人のもとへ来るよう告げた。春奈はさっきまでの憂鬱な表情を一変させ、勝者のような傲慢さを浮かべながら立ち上がる。そして、ゆっくりと結月の前まで歩み寄ると、二人にしか聞こえない声で言った。「あんたがどれだけ必死に私を嵌めようとしたって、どうってことないわ。涼介が全部片づけてくれるもの。結月、あなたのすべては私のもの。そしてあなたは、一生私の身代わりでしかない。涼介の妻の座も、いずれは私のものよ」結月の指先がぴたりと止まった。ゲームが終わった。春奈は小さく笑うと、勝ち誇ったようにその場を後にした。明が歩み寄り、困ったように告げる。「奥様、社長が車の中で待つように

  • 利用された御曹司は、もう私の夫になる気満々   第10話

    渋江骨董商工会の会長にして、業界でも名の知れた著名な収集家が放った言葉だ。その一言だけで、春奈が大物たちの仲間入りを果たす道は完全に断たれた。春奈は全身を強張らせた。自信に満ちた華やかな笑顔が、見る間にひび割れていく。彼女は反射的に弁明しようと口を開いた。「そんなつもりじゃ……私は……」だが、岳人はもう聞く耳を持たなかった。スタッフに展示品を片付けさせると、そのまま立ち上がって席を後にする。ほかの者たちも、次々と春奈から距離を取っていく。先ほどまで満席の会場から称賛の声が上がっていたのが嘘のような、あまりにも対照的な光景だった。この二年間、春奈はあまりにも順風満帆すぎた。周囲から持ち上げられ、高いところへと祭り上げられていた。だからこそ、これほど無視され、冷たくあしらわれる屈辱を味わうのは随分と久しぶりだった。そして、そのすべては結月のせいだ!春奈は反射的に結月のいる方向を睨みつけた。すると、隠しイヤホンから結月の軽やかな嘲笑が聞こえてくる。「満足?あんたに贈るサプライズよ」今日の鑑定会は、まだ始まったばかりだ。この二年間、春奈が奪い取っていった、本来なら自分のものだったすべてを、一つずつ自分の手で取り戻していく。同じ頃。岳人は足を止め、春奈の視線を追うようにして振り向いた。そして、思いがけず結月と目が合う。結月は物怖じすることなく、静かに小さく頷いた。その冷ややかで淡々とした佇まいに、岳人はどこか見覚えがあるような気がした。---パシッ――!結月が休憩室に入った途端、正面から春奈の平手打ちが飛んできた。「あんた、わざとね!よくも私を陥れてくれたわね!」打たれた勢いで、結月の顔が横を向く。視界の端に、ソファに腰掛けている涼介の姿が映った。眉間に皺を寄せ、こちらを見る目は冷ややかで、感情が読み取れない。結月は顔を上げ、乱れた髪を耳にかけると、容赦なく春奈の頬を打ち返した。春奈はその勢いで隣の衝立にぶつかる。信じられないとばかりに頬を押さえ、怒りに満ちた目で結月を睨みつけた。「あんた、私を殴ったの?」結月はヒリヒリと痛む手を振りながら、冷たく言い放つ。「ええ、殴ったわ。それがどうしたの?」春奈は唇を噛みしめると、涙を浮かべたまま涼介の胸へと飛び込んだ。

  • 利用された御曹司は、もう私の夫になる気満々   第9話

    藤堂家はかつて裏社会に身を置き、情報会社を裏で操っていたが、表の世界で資金洗浄を済ませた今は、真っ当な情報ビジネスを生業としている。現在は一輝がその事業を引き継いでいる。指示を出した後、慎也はタバコを一本吸い終えた。だが、まだ会場に戻る気にはなれず、もう一本に火を点けた。しばらくして、無表情のままタバコを口から外し、手の中で揉み消してゴミ箱へ投げ捨てた。---会場内。希少品の鑑定コーナーは、いよいよ大詰めを迎えていた。「続きまして、風間岳人氏がお持ちくださった、最後の秘蔵コレクションの登場です――」司会者の声が終わると同時に、スタッフが漆塗りの盆を慎重に捧げ持ち、高画質カメラに照らされた展示台へと最後の品を置いた。桐の箱が開かれると、眩い照明の下にコレクションの真の姿が露わになる。それは、青白く澄んだ釉薬が施された花瓶だった。すらりとした優雅なフォルムは、内側から控えめで柔らかな光を放っている。釉薬の表面には自然にできた細かな貫入が無数に走り、濃淡が交差し、縦横に伸びやかに広がっていた。まるで氷が割れ、玉が砕けたかのような、完全に自然のなせる業である。全体から古陶磁特有の清冷で高貴な雰囲気が漂い、静謐で風雅な趣を醸し出していた。ステージ上の司会者が紹介を終えると、岳人が立ち上がり、上機嫌に周囲へ向かって言った。「これは私の友人に頼まれて持参した品でしてね。皆様の確かな目利きで、真贋と由来を鑑定していただきたいのです」結月は無意識に姿勢を正した。来た。大型スクリーンに、花瓶の細部が次々と映し出される。数名の専門家たちは、事前に涼介から話が通されており、春奈の引き立て役を買って出ていた。次々と品を確認した後、悔しそうに自分の見識不足を認めてみせる。そして最後に、春奈の目の前へと品が回された。春奈はルーペを取り出してしばらく観察するふりをした。だが、目立たないようにつけたワイヤレスイヤホンからは、一向に何の音も聞こえてこない。焦りを覚え始めたその時、結月の冷ややかな声が響いた。「偽物ね」春奈は少し間を置いてから、自信満々に口を開いた。「これはおそらく、贋作ですね」春奈の傍らにいた数名の専門家たちが、途端にわずかに顔色を変えた。その中の一人が、慎重に注意を促す。「桜井さん、もう一度よ

  • 利用された御曹司は、もう私の夫になる気満々   第8話

    結月が時折言葉を切り、大型スクリーンに映し出された細部をじっくりと見極める。そのたびに春奈は考え込むような仕草を見せ、ルーペを特定の箇所に当てて見せる。立て続けにいくつかの展示品の由来を一目で見抜いてみせると、春奈は当然のように会場にいる先輩や大物たちからの称賛を勝ち取った。割れんばかりの拍手が湧き起こる中、誰もが感嘆のまなざしを春奈に向けていた。「さすがは清水さんの弟子だ。7歳から鑑定を始め、一度も目利きを誤ったことがないらしい。みんなに『桜井先輩』と呼ばれていたのも頷けるな」「本当に末恐ろしいな。俺たちも敵わないよ」「桜井さんは業界でも公認の天才鑑定士だからな。若いとはいえ、才能というものは誰にでもあるものじゃない」慎也の顔から徐々に笑みが消えていった。どっかりと腰を下ろしたまま、無意識に薬指のシンプルな指輪を回す。慎也をよく知る者なら、こういう時の慎也が怒っているのだとすぐに分かる。慎也は名声と利益を独占し、飛ぶ鳥を落とす勢いの春奈を見た後、暗がりの中で目立たずにいる結月へ視線を移した。だが、結月の表情は極めて淡白で、とっくに慣れっこになっているかのように麻痺していた。慎也の目には、春奈が結月の背中に張り付き、命を蝕む寄生虫のように映っていた。そして涼介という死神が傍らに立ち、見えない鎖で結月の手足を縛り、口を封じ、泣き言さえも許さないようにしている。慎也はそれを止めようとはせず、ただ立ち上がってその場を離れた。長身の背中は、瞬く間に遠ざかっていった。結月は慎也が立ち去ったことに気づいていたが、気には留めなかった。ただ、その背中からは、言葉にできないほどの威圧感が放たれているのを感じていた。慎也が通るたびに人々が道をあける。一体誰が、この凶暴で傍若無人な男を怒らせたのだろうか。慎也はそのまま展示ホールの外にあるガーデンテラスへ向かい、タバコに火をつけると、スマホを取り出して親友の一輝に電話をかけた。「おい一輝ちゃん、ちょっと調べてほしいことがある」一輝が答える。「一輝ちゃんって呼ぶな。それ以外なら何でも聞くよ。で、何を調べるんだ?」慎也は手すりにもたれかかり、上を向いて紫煙を吐き出した。「結月と涼介のここ数年についてだ。気になるんだ、あの二人の関係」その話題が出た途端、一輝は一

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status