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第3話

Author: ハルエ
私は振り返り、伊織をまっすぐ見た。

彼女はビリヤード台にもたれ、首をかしげてこちらを見ていた。口元には、いつもの笑みが浮かんでいる。

その笑顔を、私はもう何度も見てきた。

私と修司の間がぎくしゃくしたときも、言い争ったときも、もう終わりだと思うほどこじれたときも、彼女はいつもその顔をしていた。

「夏希、いつもそうでしょう」

そんな軽いひと言で、私の悔しさも、苦しさも、全部ただの笑い話にされてしまう。

視線がぶつかった。

彼女は目をそらさなかった。それどころか、ほんの少し顎を上げた。大事に甘やかされて育った人間だけが持つ、余裕と気高さを全身にまとっていた。

修司が身をずらし、伊織をかばうように半歩前へ出た。

それだけで、彼が本当に気にかけているのが誰なのか、はっきり分かってしまった。

伊織の口元の笑みが、少し深くなる。

私も笑った。

彼女は勝ったつもりでいるのだろう。

けれど、知らないのだ。

修司への想いなど、あの夜、睡眠薬を飲み込んだときに、とっくに消えてしまっていたことを。

翌日、一本の記事が東区の経済ニュースを騒がせた。

【匿名告発で佐伯グループの闇が発覚――三十年にわたる血塗られた成長と、壊された家族たち】

告発文には、佐伯家に追い詰められ、一家離散にまで追い込まれた人々のことが数多く記されていた。

その中には、かつての藤原家もあった。

藤原家の一人娘である夏希もまた、その一件で、一時は夜の世界へ身を落とすしかなかったという。

ただ、その後の消息をたどっても、彼女の行方は分からなくなっていた……

その騒ぎが広がっている頃、私は両親の墓参りに来ていた。

墓石に刻まれた二人の名前を、指先でそっとなぞる。

母の遺影は、何度も洗って少し色の抜けた白衣姿だった。父は濃紺のスーツを着ていた。

写真の中の二人は肩を並べ、カメラに向かって穏やかに微笑んでいた。

その笑顔には、研究者らしい真面目さと、あの頃の二人が抱いていた、まっすぐすぎるほどの理想がにじんでいた。

「お父さん、お母さん」

私は墓前に供花を供えた。

花びらには、まだ朝露が残っていた。

十年前の今日も、こんなふうに湿って冷たい日だった。

けれど私は、あの火事が二人を奪っていくのを、ただ見ているしかなかった。

三日後、債権者たちが自宅に押しかけてきた。

彼らが吐き捨てるように口にした言葉の端々から、私は少しずつ真相をつなぎ合わせていった。

会社の重要データが持ち出され、巨額の資金も行方が分からなくなっていた。

父は取締役会で責任を追及される直前、不審な死を遂げていたのだ。

十九歳の私は、両親が人生をかけて築いた藤原製薬を、自分の手で守ろうとした。

八か月、必死に踏ん張った。

けれど、守りきれなかった。

残されたのは、他人に買い取られた負債だけだった。

そして私自身にも、値段がつけられた。

修司に出会ったあの日、私は人生でいちばん追い詰められていた。

私は遺影に向かって、少しだけ笑った。

「お父さん、お母さんは、恩も情も忘れない人間でいなさいって教えてくれたよね。あの人は、そんな私を地獄から連れ出してくれた。

だからこの十年、私は彼に青春も、命も、尊厳も、真心も返してきた。

私は、何ひとつ恥じることはしていないよ」

山道の両側に並ぶ杉の木が、さわさわと音を立てた。

まるで、返事をしてくれているみたいだった。

私は立ち上がり、階段をゆっくり下りていった。ポケットの中でスマートフォンが震え、美咲からのメッセージが次々に届く。

【夏希、ニュース見て!】

【佐伯家、ほんと最低。あの女の親があなたのご両親を死に追いやって、あの女はあなたと修司の間に割り込んできたんでしょ。佐伯家の人間、みんなおかしいんじゃないの!】

私は階段の途中で立ち止まり、その記事を一字一句、最後まで読んだ。

告発文に書かれていた細かな内容の多くが、両親が亡くなる前の記憶と重なっていた。だから分かった。この告発文に書かれていることは、決して根も葉もない話ではない。

頭の中が混乱し、足元もふらついたまま、私は階段を下りていく。

階段を下りきろうとしたところで、街灯の下にひとりの影が見えた。

すらりとした立ち姿で、指先の煙草の火だけが、暗がりの中で赤く明滅していた。

光と影の中で、修司の顔が少しずつはっきりしていった。

彼は電話をしていた。

「……佐伯家の記事を抑えろ。伊織?彼女は親のしたこととは関係ない。ああ、俺が守る」

私に気づくと、修司はこちらへ歩いてきた。

「ニュース、見ただろ。佐伯家の件がかなり大ごとになっている。ネットでは今、何もかも伊織のせいにして叩かれている。彼女は相当参っている」

彼は私を見た。

その目には、後ろめたさなど少しもなかった。

「だから、お前から説明してほしい。藤原家が破産したのは佐伯グループとは関係ない。お前の父親の経営判断の失敗が原因だった、と」

山道から吹き下ろす風が、体を貫いた。

全身の血が、すうっと冷えていった。

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