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蓮が、私の後ろに立っていた。「どうして来たの?こういう場は面倒だって言ってたのに」「来るつもりはなかった」彼は酒をひと口飲み、私に視線を落とした。「でも、お前ひとりでこれだけの相手をするのは、疲れるだろうと思って」「それで来たの?」「うん」私は彼を見て、ふいに笑ってしまった。「何を笑ってる?」「あなたを」私は言った。「人を気遣うのまで、そんなに不器用なんだなって」彼は片眉を上げただけで、否定はしなかった。二秒ほど沈黙してから、彼がふいに口を開いた。「さっき、バルコニーであの男と何を話していた?」私は一瞬固まった。それから気づいた。彼は、私と修司がバルコニーにいたところを見ていたのだ。「見てたの?」「うん」彼は言った。「二階の個室から」私は何も言わなかった。窓の外から夜風が入り、彼の額にかかる髪を揺らした。彼は私の前に立っていた。宴会場の灯りを受けて、全身にやわらかな金色の光をまとっていた。現実の人ではないみたいに、きれいだった。宴会場の灯りが、一つ、また一つと消えていき、人々も散っていった。蓮は私をホテルまで送ってくれた。車がホテルの前に停まると、彼はポケットから何かを取り出し、私に差し出した。小さなベルベットの箱だった。「開けてみて」私は開いた。中に入っていたのは、ブローチだった。小さな金木犀の枝をかたどったもので、銀と細かなダイヤで作られている。信じられないほど繊細だった。「お前の庭の金木犀」彼は言った。「今年、咲いた」私は顔を上げて彼を見た。「帰る頃には、まだ散っていないはずだ」私はその箱を握りしめ、急に目の奥が熱くなった。悲しかったからではない。ようやく分かったからだ。本当に大切にされるというのが、どういうことなのか。静かに、確かに、毎日少しずつ。後ろで見守ってくれて、待っていてくれる。必要なときにはそばにいて、そうでないときは、少し離れた場所で見守ってくれる。私は顔を上げ、車窓の外に広がる浜都の夜空を見た。星はなかった。けれど、数えきれないほどの灯りがあった。その灯りの一つ一つの下で、誰かが誰かの帰りを待っている。「蓮」私は言った。「うん」「帰
その瞬間、目の奥が熱くなった。「この写真、どこで見つけたの?」「佐伯家の金庫だ」修司は淡々と言った。「佐伯正臣が当時、お前の家から持ち去ったものだ。ほかにもあった。お前の父親の手稿、実験記録、母親の研究ノートも、全部そこに残っていた。整理はもう済ませてある。来週、お前のメルボルンの住まいに届けさせる」私は写真を握りしめた。指先に力が入り、関節が白くなる。長い沈黙のあと、私は深く息を吸い、顔を上げて彼を見た。「どうして、そこまでしたの?」「お前の父親のものだからだ」彼は言った。「お前に返すべきものだろう」「私が聞いているのは」私は一語ずつ、昔の自分の代わりに問いただすように言った。「どうして佐伯家から取り戻したのかってこと。あなたは佐伯家と手を組んでいたんでしょう。伊織を守るつもりだったんでしょう」彼は数秒、黙っていた。それから、風に消えてしまいそうなほど低い声で言った。「夏希。俺は最初から、佐伯家の側に立っていたわけじゃない。ただ、自分の側に立っていただけだ。でも、お前がいなくなってから」そこで彼は、少し言葉を切った。「その自分の側に、もう何も残っていないことに気づいた」私は彼を見ていた。彼は目をそらさなかった。かといって、深く悔いているような、許しを乞うような目で私を見ることもなかった。ただ静かに、ひとつの事実を口にしていただけだった。けれど、その静けさが、私の心のどこかをほんの少しだけ揺らした。私は初めて、本当の高城修司を見た気がした。上から人を見下ろす修司でも、喜怒哀楽を表に出さない修司でもない。後悔もする。孤独にもなる。自分が選ぶ道を間違えたのだと気づく。そんな、ひとりの普通の人間だった。けれど、揺れたのはそれだけだった。「返してくれて、ありがとう」私は封筒を大切にしまった。「でも、私とあなたはもう何の関係もない」彼はうなずいた。引き止めることもなく、手すりにもたれたまま、私が背を向けるのを見ていた。背後から、追ってくる足音はしなかった。ふと、ずっと昔のことを思い出した。霊園の入口で、彼が私を待っていた日のこと。泣き終えて出てきた私に、彼は黙って水のボトルを差し出した。何も言わなかった。あのとき私は初
飛行機が浜都に着いたのは、ちょうど夕暮れどきだった。窓の外では、一年半前に逃げるように離れたこの街が、夕焼けに染まって淡い金色に輝いていた。高層ビルが立ち並び、車の流れは途切れない。私が去ったときと、何ひとつ変わっていないように見える。けれど分かっていた。変わったのは、私のほうだ。プロジェクト審査会は、浜都国際会議場で開かれた。森川バイオファーマのADC医薬品開発プロジェクトは、アジア太平洋地域での第Ⅲ相臨床試験の承認を得た。実用化に向けて、また大きく一歩前進したということだった。祝賀会は午後七時から、シャングリ・ラホテル三階の宴会場で開かれる予定だった。私は深いグリーンのベルベットのロングドレスに着替え、髪をまとめた。鎖骨が見え、耳元には小さなパールのピアスが揺れている。鏡に映る女は、一年半前、空港からよろめくように逃げ出した女とは、まるで別人だった。美咲は宴会場の入口で待っていた。顔を合わせた瞬間、彼女の目が赤くなる。「夏希、痩せたね」彼女は私を上から下まで見た。「でも顔色、すごくいい。なんか、全身がきらきらしてる」私は笑って、彼女を抱きしめた。「あなたは少し太った?」「うるさい」美咲は涙ぐみながら笑い、私の腕を取って中へ入った。宴会場では、人々がグラスを手に談笑していた。浜都の医薬業界の古くからの顔ぶれと、新進の企業関係者が一堂に集まっている。蓮は今夜、来ていなかった。こういう場は面倒だから、自分で何とかしろ、と言っていた。私はシャンパンを手に、提携先の代表たちと挨拶を交わした。業界の動向、政策の流れ、次の段階の研究開発計画。どの話題にも、自然に応じられた。すべてが、無理なく進んでいた。入口に立つその人影に気づくまでは。修司だった。彼は深い黒のスーツを着ていた。シャツは真っ白で、ネクタイはしていない。襟元が少し開いている。人混みの中でも、彼はいつもすぐに分かる。顔立ちのせいではない。身にまとった、あの冷たさのせいだ。彼の視線は人混みをまっすぐ抜けて、私に向けられた。どうして彼がここにいるのか、私には分からなかった。森川バイオファーマの祝賀会に、高城家の人間が招かれるはずはない。宴会場の反対側から、私たちは目が合った。
彼が慣れた手つきで料理を注文し、店主と地元の言葉で話しているのを見て、私は少し不思議な気持ちになった。この人は、まるで一冊の本みたいだ。ページをめくるたびに、知らない一面が出てくる。食事を終えると、彼は私をアパートまで送ってくれた。車をアパートの前に停めても、彼はすぐにはエンジンを切らなかった。代わりにグローブボックスから封筒を取り出し、私に差し出した。「これは?」私は受け取って、中を開けた。入っていたのは、プロジェクト計画書だった。ADC医薬品の初期研究開発プロジェクト。主導するのは森川バイオファーマで、提携先は浜都医科薬科大学と、シンガポールのベンチャーキャピタル。プロジェクト責任者の欄には、私の名前があった。私は顔を上げ、彼を見た。何か言おうと口を開いたのに、声が出なかった。「このプロジェクトは、お前が責任者をやれ」彼は言った。「チームはもう組んである。研究開発の責任者はマードック教授の教え子だ。前臨床研究には、グラクソ・スミスクラインの人間も入る。夏希。お前の父親がやり残したことを、お前がやるんだ」その夜、アパートに戻った私は、机の前に座り、その計画書を三度読み返した。プロジェクトが始まってから、私は目の回るような忙しさになった。蓮が研究室に来ることは少ない。けれど、彼のプロジェクトへの理解は驚くほど正確だった。進捗を報告するたびに、彼はすぐに核心をつかみ、問題点を鋭く指摘した。一度、私たちはある技術的な難題で行き詰まった。研究開発チームが三日間会議を続けても、結論は出なかった。私はデータを持って蓮を訪ねた。彼は十分足らずで、問題を解いてしまった。研究開発責任者が私に電話をかけてきたとき、その声には、ほとんど崇拝に近い驚きが混じっていた。「森川蓮って人は、いったいどんな頭をしているんですか?」私は少し笑って、何も言わなかった。けれど心の中では思っていた。本当に、彼はいったいどんな人なのだろう。その問いに答えが出たのは、ずっと後のことだった。けれど、それはまた別の話だ。そのときの私は、ふと夜空を見上げた。南半球の星空は、北半球より明るく見える。天の川まで、はっきり見えた。父が星座の見分け方を教えてくれたことを思い出
そんな人が、どうして酔うほど飲んだのだろう。けれど私は何も聞かず、車の鍵を持って部屋を出た。サウスバンクに着くと、蓮は川沿いのベンチに座っていた。夜風は冷たいのに、彼は薄いシャツ一枚だった。袖は前腕までまくられ、襟元もゆるく開いている。そんな姿の彼を見るのは初めてだった。「森川さん」私は歩み寄り、彼の前に立った。彼が顔を上げて、私を見る。街灯の光が彼の顔に落ちていた。切れ長の目の奥に、これまで見たことのない感情があった。ぽっかりと空いたような、呆然とした色。「どうしてこんなに飲んだんですか」私はしゃがみ込み、彼の手にあるグラスを取ろうとした。けれど彼は、私の手を避けた。声は少し掠れて、いつもより曖昧だった。「今日は、親父の命日なんだ」私は動きを止めた。「毎年この日になると」彼は私を見た。視線は少しぼやけている。「ここに来て、しばらく座ってる。親父は、この川で死んだ」私は彼の視線を追って、川面を見た。メルボルンの夜、ヤラ川の水面は光を映して静かに揺れていた。鏡のように穏やかで、そこには悲しみの跡も、人ひとりの命を呑み込んだ気配も見えなかった。私は彼の隣に座った。何も言わなかった。何を言えばいいのか、分からなかった。大切な人を失う痛みなら、私にも分かる。どんな慰めも薄っぺらく、どんな言葉も余計に思えた。私たちはそのまま、黙って川を見ていた。その夜、私はそれ以上のことを尋ねなかった。メルボルンに来て七か月目の頃、蓮が私に一つ「課題」を出した。薬の研究開発に関する市場分析レポートを、ひとりで仕上げること。テーマは、「アジア太平洋市場におけるADC医薬品の競争環境」父が生前、最後に取り組んでいた分野だった。そのテーマを見た瞬間、体がこわばった。蓮がわざと選んだのか、偶然なのかは分からない。けれど普段の彼を見ていると、この人が意味のないことをするとは思えなかった。私は何も聞かず、課題を引き受けた。資料を集め、データを整理し、競争環境を分析した。一か月後、私はレポートを彼に送った。三日後、彼から返信が来た。【来週、プロジェクト審査会がある。俺と一緒に来い。発表はお前がやれ】その一文を見つめたまま、鼓動が少し速くなっ
マードック教授の目が、ふっと明るくなった。「藤原誠一?浜都の、あの藤原誠一かね?」私はうなずいた。胸の奥が、少し熱くなった。遠く離れたメルボルンで、父の名前を覚えている人がいるなんて思わなかった。その午前中、蓮は私を連れて、いくつもの分科会場を回った。彼はほとんど私に話しかけなかった。ただ、私が話の流れについていけなくなったときだけ、ふいに歩く速度を落としたり、今発言している人物に目を向けるよう、視線だけで合図したりした。私は影のように彼の後ろについて歩きながら、彼がどう人と接するのかを見ていた。彼は、無駄な世間話をしない。握手をする。自己紹介をする。意見を出す。情報を交換する。その流れは驚くほど自然で、余計な言葉がひとつもなかった。昼休みになって、彼はようやく私に話しかけた。「どうだった?」「情報量が多すぎます」私は正直に言った。「専門用語も、聞いたことのないものがいくつもありました」彼は私を一瞥した。「父親に専門知識を教わり始めたのは、何歳の頃だ?」私は少し驚いた。そんなことを聞かれるとは思っていなかった。「たぶん……十二、三歳くらいです」「なら、基礎は悪くない」彼はポケットからペンを取り出し、私の招待状の余白に、何冊かの本のタイトルを素早く書いた。「まずはこれを読め。読み終えたら連絡しろ」私はそのタイトルを見下ろした。どれも英語原書の専門書だった。中には、国内の図書館でも見たことのないものがあった。「ありがとうございます」そう言うと、彼は短く「ん」と返して、そのまま歩いていった。それだけだった。余計な指導も、長い説教もない。「しっかり勉強しろ」という一言すらなかった。それなのに私は、このあっさりした距離感が、不思議と心地よかった。相手の顔色をうかがう必要がない。おそるおそる本音を探る必要もない。ただ、こういうことだ。必要なものは渡す。どれだけ吸収できるかは、自分次第。それからの日々、私は蓮が薦めてくれた本に取りかかった。昼間は授業と研修。夜は明け方近くまで本を読む。私はアパートの机に向かい、スタンドライトの明かりとコーヒーだけを頼りに、難解な専門文献を一ページずつ読み進めた。どうしても分からないとこ