LOGIN第520便が着陸した。これまで一度も迎えになんて来たことのない恋人、高城修司(たかしろ しゅうじ)が、空港で私・藤原夏希(ふじわら なつき)を待っていた。 彼は空輸で取り寄せたブルースローズの花束を抱え、ベルベットの箱の中ではダイヤの指輪がきらきらと輝いている。彼が膝をついた瞬間、周囲から信じられないというように息をのむ音が上がった。 付き合って十年。彼が私と結婚したいと言ったのは、これが初めてだった。 私は平静を装いながら、指輪をはめてもらい、震える声で言った。 「修司、私たち……」 けれど彼は、ふっと笑った。 そしてそばにいる誰かへ視線を向け、軽く眉を上げる。 「言っただろ。こいつなら絶対うなずくって。賭けは俺の勝ちだ。絵を寄こせ」 私はその場で固まった。 背後で、悪意のこもった笑い声がどっと起こる。 育ちのよさそうな若い男女の一団が、私の前までやって来た。 先頭にいたのは佐伯伊織(さえき いおり)だった。 修司の、かつての縁談相手。 彼女は涙が出るほど笑っていた。 「だから言ったでしょう?夏希がどうしてこんなに長くあなたのそばにいられるのか不思議だったけど、ここまで言いなりになる犬なら、私だって簡単には手放せないわ」
View More蓮が、私の後ろに立っていた。「どうして来たの?こういう場は面倒だって言ってたのに」「来るつもりはなかった」彼は酒をひと口飲み、私に視線を落とした。「でも、お前ひとりでこれだけの相手をするのは、疲れるだろうと思って」「それで来たの?」「うん」私は彼を見て、ふいに笑ってしまった。「何を笑ってる?」「あなたを」私は言った。「人を気遣うのまで、そんなに不器用なんだなって」彼は片眉を上げただけで、否定はしなかった。二秒ほど沈黙してから、彼がふいに口を開いた。「さっき、バルコニーであの男と何を話していた?」私は一瞬固まった。それから気づいた。彼は、私と修司がバルコニーにいたところを見ていたのだ。「見てたの?」「うん」彼は言った。「二階の個室から」私は何も言わなかった。窓の外から夜風が入り、彼の額にかかる髪を揺らした。彼は私の前に立っていた。宴会場の灯りを受けて、全身にやわらかな金色の光をまとっていた。現実の人ではないみたいに、きれいだった。宴会場の灯りが、一つ、また一つと消えていき、人々も散っていった。蓮は私をホテルまで送ってくれた。車がホテルの前に停まると、彼はポケットから何かを取り出し、私に差し出した。小さなベルベットの箱だった。「開けてみて」私は開いた。中に入っていたのは、ブローチだった。小さな金木犀の枝をかたどったもので、銀と細かなダイヤで作られている。信じられないほど繊細だった。「お前の庭の金木犀」彼は言った。「今年、咲いた」私は顔を上げて彼を見た。「帰る頃には、まだ散っていないはずだ」私はその箱を握りしめ、急に目の奥が熱くなった。悲しかったからではない。ようやく分かったからだ。本当に大切にされるというのが、どういうことなのか。静かに、確かに、毎日少しずつ。後ろで見守ってくれて、待っていてくれる。必要なときにはそばにいて、そうでないときは、少し離れた場所で見守ってくれる。私は顔を上げ、車窓の外に広がる浜都の夜空を見た。星はなかった。けれど、数えきれないほどの灯りがあった。その灯りの一つ一つの下で、誰かが誰かの帰りを待っている。「蓮」私は言った。「うん」「帰
その瞬間、目の奥が熱くなった。「この写真、どこで見つけたの?」「佐伯家の金庫だ」修司は淡々と言った。「佐伯正臣が当時、お前の家から持ち去ったものだ。ほかにもあった。お前の父親の手稿、実験記録、母親の研究ノートも、全部そこに残っていた。整理はもう済ませてある。来週、お前のメルボルンの住まいに届けさせる」私は写真を握りしめた。指先に力が入り、関節が白くなる。長い沈黙のあと、私は深く息を吸い、顔を上げて彼を見た。「どうして、そこまでしたの?」「お前の父親のものだからだ」彼は言った。「お前に返すべきものだろう」「私が聞いているのは」私は一語ずつ、昔の自分の代わりに問いただすように言った。「どうして佐伯家から取り戻したのかってこと。あなたは佐伯家と手を組んでいたんでしょう。伊織を守るつもりだったんでしょう」彼は数秒、黙っていた。それから、風に消えてしまいそうなほど低い声で言った。「夏希。俺は最初から、佐伯家の側に立っていたわけじゃない。ただ、自分の側に立っていただけだ。でも、お前がいなくなってから」そこで彼は、少し言葉を切った。「その自分の側に、もう何も残っていないことに気づいた」私は彼を見ていた。彼は目をそらさなかった。かといって、深く悔いているような、許しを乞うような目で私を見ることもなかった。ただ静かに、ひとつの事実を口にしていただけだった。けれど、その静けさが、私の心のどこかをほんの少しだけ揺らした。私は初めて、本当の高城修司を見た気がした。上から人を見下ろす修司でも、喜怒哀楽を表に出さない修司でもない。後悔もする。孤独にもなる。自分が選ぶ道を間違えたのだと気づく。そんな、ひとりの普通の人間だった。けれど、揺れたのはそれだけだった。「返してくれて、ありがとう」私は封筒を大切にしまった。「でも、私とあなたはもう何の関係もない」彼はうなずいた。引き止めることもなく、手すりにもたれたまま、私が背を向けるのを見ていた。背後から、追ってくる足音はしなかった。ふと、ずっと昔のことを思い出した。霊園の入口で、彼が私を待っていた日のこと。泣き終えて出てきた私に、彼は黙って水のボトルを差し出した。何も言わなかった。あのとき私は初
飛行機が浜都に着いたのは、ちょうど夕暮れどきだった。窓の外では、一年半前に逃げるように離れたこの街が、夕焼けに染まって淡い金色に輝いていた。高層ビルが立ち並び、車の流れは途切れない。私が去ったときと、何ひとつ変わっていないように見える。けれど分かっていた。変わったのは、私のほうだ。プロジェクト審査会は、浜都国際会議場で開かれた。森川バイオファーマのADC医薬品開発プロジェクトは、アジア太平洋地域での第Ⅲ相臨床試験の承認を得た。実用化に向けて、また大きく一歩前進したということだった。祝賀会は午後七時から、シャングリ・ラホテル三階の宴会場で開かれる予定だった。私は深いグリーンのベルベットのロングドレスに着替え、髪をまとめた。鎖骨が見え、耳元には小さなパールのピアスが揺れている。鏡に映る女は、一年半前、空港からよろめくように逃げ出した女とは、まるで別人だった。美咲は宴会場の入口で待っていた。顔を合わせた瞬間、彼女の目が赤くなる。「夏希、痩せたね」彼女は私を上から下まで見た。「でも顔色、すごくいい。なんか、全身がきらきらしてる」私は笑って、彼女を抱きしめた。「あなたは少し太った?」「うるさい」美咲は涙ぐみながら笑い、私の腕を取って中へ入った。宴会場では、人々がグラスを手に談笑していた。浜都の医薬業界の古くからの顔ぶれと、新進の企業関係者が一堂に集まっている。蓮は今夜、来ていなかった。こういう場は面倒だから、自分で何とかしろ、と言っていた。私はシャンパンを手に、提携先の代表たちと挨拶を交わした。業界の動向、政策の流れ、次の段階の研究開発計画。どの話題にも、自然に応じられた。すべてが、無理なく進んでいた。入口に立つその人影に気づくまでは。修司だった。彼は深い黒のスーツを着ていた。シャツは真っ白で、ネクタイはしていない。襟元が少し開いている。人混みの中でも、彼はいつもすぐに分かる。顔立ちのせいではない。身にまとった、あの冷たさのせいだ。彼の視線は人混みをまっすぐ抜けて、私に向けられた。どうして彼がここにいるのか、私には分からなかった。森川バイオファーマの祝賀会に、高城家の人間が招かれるはずはない。宴会場の反対側から、私たちは目が合った。
彼が慣れた手つきで料理を注文し、店主と地元の言葉で話しているのを見て、私は少し不思議な気持ちになった。この人は、まるで一冊の本みたいだ。ページをめくるたびに、知らない一面が出てくる。食事を終えると、彼は私をアパートまで送ってくれた。車をアパートの前に停めても、彼はすぐにはエンジンを切らなかった。代わりにグローブボックスから封筒を取り出し、私に差し出した。「これは?」私は受け取って、中を開けた。入っていたのは、プロジェクト計画書だった。ADC医薬品の初期研究開発プロジェクト。主導するのは森川バイオファーマで、提携先は浜都医科薬科大学と、シンガポールのベンチャーキャピタル。プロジェクト責任者の欄には、私の名前があった。私は顔を上げ、彼を見た。何か言おうと口を開いたのに、声が出なかった。「このプロジェクトは、お前が責任者をやれ」彼は言った。「チームはもう組んである。研究開発の責任者はマードック教授の教え子だ。前臨床研究には、グラクソ・スミスクラインの人間も入る。夏希。お前の父親がやり残したことを、お前がやるんだ」その夜、アパートに戻った私は、机の前に座り、その計画書を三度読み返した。プロジェクトが始まってから、私は目の回るような忙しさになった。蓮が研究室に来ることは少ない。けれど、彼のプロジェクトへの理解は驚くほど正確だった。進捗を報告するたびに、彼はすぐに核心をつかみ、問題点を鋭く指摘した。一度、私たちはある技術的な難題で行き詰まった。研究開発チームが三日間会議を続けても、結論は出なかった。私はデータを持って蓮を訪ねた。彼は十分足らずで、問題を解いてしまった。研究開発責任者が私に電話をかけてきたとき、その声には、ほとんど崇拝に近い驚きが混じっていた。「森川蓮って人は、いったいどんな頭をしているんですか?」私は少し笑って、何も言わなかった。けれど心の中では思っていた。本当に、彼はいったいどんな人なのだろう。その問いに答えが出たのは、ずっと後のことだった。けれど、それはまた別の話だ。そのときの私は、ふと夜空を見上げた。南半球の星空は、北半球より明るく見える。天の川まで、はっきり見えた。父が星座の見分け方を教えてくれたことを思い出