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十年の恋を捨てて、私は海の向こうで咲く

十年の恋を捨てて、私は海の向こうで咲く

By:  ハルエCompleted
Language: Japanese
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第520便が着陸した。これまで一度も迎えになんて来たことのない恋人、高城修司(たかしろ しゅうじ)が、空港で私・藤原夏希(ふじわら なつき)を待っていた。 彼は空輸で取り寄せたブルースローズの花束を抱え、ベルベットの箱の中ではダイヤの指輪がきらきらと輝いている。彼が膝をついた瞬間、周囲から信じられないというように息をのむ音が上がった。 付き合って十年。彼が私と結婚したいと言ったのは、これが初めてだった。 私は平静を装いながら、指輪をはめてもらい、震える声で言った。 「修司、私たち……」 けれど彼は、ふっと笑った。 そしてそばにいる誰かへ視線を向け、軽く眉を上げる。 「言っただろ。こいつなら絶対うなずくって。賭けは俺の勝ちだ。絵を寄こせ」 私はその場で固まった。 背後で、悪意のこもった笑い声がどっと起こる。 育ちのよさそうな若い男女の一団が、私の前までやって来た。 先頭にいたのは佐伯伊織(さえき いおり)だった。 修司の、かつての縁談相手。 彼女は涙が出るほど笑っていた。 「だから言ったでしょう?夏希がどうしてこんなに長くあなたのそばにいられるのか不思議だったけど、ここまで言いなりになる犬なら、私だって簡単には手放せないわ」

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Chapter 1

第1話

第520便が着陸した。これまで一度も迎えになんて来たことのない恋人、高城修司(たかしろ しゅうじ)が、空港で私・藤原夏希(ふじわら なつき)を待っていた。

彼は空輸で取り寄せたブルースローズの花束を抱え、ベルベットの箱の中ではダイヤの指輪がきらきらと輝いている。彼が膝をついた瞬間、周囲から信じられないというように息をのむ音が上がった。

付き合って十年。彼が私と結婚したいと言ったのは、これが初めてだった。

私は平静を装いながら、指輪をはめてもらい、震える声で言った。

「修司、私たち……」

けれど彼は、ふっと笑った。

そしてそばにいる誰かへ視線を向け、軽く眉を上げる。

「言っただろ。こいつなら絶対うなずくって。賭けは俺の勝ちだ。絵を寄こせ」

私はその場で固まった。

背後で、悪意のこもった笑い声がどっと起こる。

育ちのよさそうな若い男女の一団が、私の前までやって来た。

先頭にいたのは佐伯伊織(さえき いおり)だった。

修司の、かつての縁談相手。

彼女は涙が出るほど笑っていた。

「だから言ったでしょう?夏希がどうしてこんなに長くあなたのそばにいられるのか不思議だったけど、ここまで言いなりになる犬なら、私だって簡単には手放せないわ。

今回の喧嘩ではずいぶん意地を張ったそうじゃない。澄香邸を出ていったくせに、修司がちょっと手招きしただけで戻ってくるなんてね」

若い男のひとりが、手にしたカメラをほとんど私の顔に押しつけてきた。

「見ろよ。こいつ、本気にしてるぞ。感動して泣きそうじゃん」

「修司さん、これ絶対しがみついてくるって。責任取ってとか言い出すぞ、ははは!」

修司が横目でひと睨みすると、皆はようやく黙った。

彼は珍しく、事情を説明した。

「じいさんの傘寿の祝いに、ちょうどいい贈り物が見つからなかった。

伊織が先週、『青嶺図』を落札したばかりでな。知ってるだろ、じいさんはああいうものが好きだ。だから賭けをした。

お前が俺のプロポーズを受けたら、この絵は俺のものになる」

つまり、ただの賭けだったのだ。

指の付け根がじんじんと痺れていた。

少し大きいその指輪は、薬指に力を入れていなければ、今にも滑り落ちそうだった。

まるで、私と修司の関係そのものだ。

私は力を抜いた。

指輪は床に落ち、乾いた音を立てて、取り繕われた平穏を切り裂いた。

「次に落札できない絵があったら、私に言って。そのくらいのお金なら、私が出せるから。人をからかうために、こんな茶番をする必要はないわ」

手元の絵を弄んでいた修司が、ようやく動きを止めた。

明らかに不機嫌そうだった。

以前なら、彼が少し眉をひそめただけで、私はすぐ感情を引っ込めた。

ほどほどのところで折れて、下手に出た。

けれど今回は、譲らなかった。

重い沈黙の中、伊織が鼻で笑うように言った。

「冗談が通じないなら、そう言えばいいのに。まるで私が悪者みたいじゃない。ちょっとからかっただけで、そんなに大げさにする?

修司、行きましょう。レストラン、予約してあるんでしょう。食事に行くわよ。

みんな、何見てるの。夏希はどうせいつもみたいに自分からすり寄ってくるわ」

初めてそんなことを言われたとき、私はすっかり怯えてしまった。

クリームまみれになった顔で謝り、自分が大げさに受け止めすぎたのだと思った。

怒るべきではなかったのだ、と。

彼らは修司の友人で、誕生日だから私に冗談を言っただけなのだ、と。

たとえそのあと、髪にこびりついたアイシングがあまりにひどくて、仕方なく長い髪を切ることになったとしても。

一行が私のそばを通り過ぎていく。

私は身をかがめて荷物を持ち上げ、彼らとは反対の方向へ歩いた。

澄香邸へ戻ると、前回持ち出せなかったものをすべて荷造りし、執事に発送を頼んだ。

それから修司に、別れのメッセージを送った。

顔を上げると、執事がためらうような顔でこちらを見ていた。

「藤原様……もう、お戻りにはならないのですか。

私には分かります。修司様は、藤原様にだけは、ほかの方とは違うお気持ちをお持ちです。

佐伯伊織様とは、幼い頃からのご縁があるだけでございます」

執事は、今日空港で何があったのかを知らない。

私が前に澄香邸を出たことについて、まだ腹を立てているのだと思っているのだろう。

本当は、もうとっくに怒ってなどいなかった。

修司と過ごした十年。

私たちが喧嘩になるきっかけは、ほとんどいつも伊織だった。

言い合いがこじれると、彼は決まって「好きに思えばいい」とだけ言い残して姿を消した。

メッセージには返事をせず、電話にも出ない。

私が彼の近況を知れる唯一の手段は、伊織のSNSだけだった。

そんな状態は、いつも私が折れて終わった。

今日は、喧嘩のあと、彼が初めて自分から私に会いに来てくれた日だった。

だから、もう何も感じないと思っていた心が、それでも少しだけ揺れた。

それなのに、結局は……

私はその話には触れず、ただ言った。

「この荷物のこと、よろしくお願いします」

澄香邸を出ると、回廊の下にあるブランコが目に入った。

歪んだ木の板からは、思わず苦笑してしまいそうなほど、不器用さがにじんでいた。

その瞬間、私はこらえきれずに涙をこぼした。

あれは、付き合って三年目に、彼が私のために作ってくれたものだった。

修司は意地っ張りで、好きだなんて絶対に素直には言わない。

アプローチするのも、告白するのも、いつも私のほうだった。

それが長く続けば、私だって寂しくなる。

ちょうどその頃、彼は毎日何をしているのか分からないほど忙しく、ほとんど顔も見せなかった。

私は長いこと一人で思い詰め、ある夜、とうとう感情が決壊した。

いつも冷静な彼が、そのときだけは珍しくうろたえていた。

最後に彼は私を澄香邸へ連れていき、自分の手で作ったこのブランコを見せてくれた。

私は彼の帰りを玄関先で待つのが好きだった。

よくしゃがみ込んで待っては足を痺れさせ、数日前には急に立ち上がったせいで転んでしまったこともあった。

そのとき彼は、慰めの言葉ひとつくれなかった。

ただ冷たい顔で、もう待たなくていい、と言っただけだった。

けれど、木工作業で傷だらけになった彼の手を見たとき、私は初めて、彼が滅多に見せない本心をのぞいた気がした。

私は手を伸ばし、右側の結び目に触れた。

あのとき私は、左の縄が短くて右の縄が長いから、座ったら転ぶよ、と彼を笑った。

その後いつの間にか、彼はこっそり右の縄にもうひとつ結び目を作っていた。

それでブランコは、ちゃんと安定するようになった。

執事の言葉は、間違っていない。

最初の頃の修司は、確かに私にだけ、ほかの人とは違っていた。

でもそれは、伊織が帰国する前の話だ。

スマホが震えた。

修司が、ようやく別れのメッセージに返事をしてきたのだ。

【好きにしろ】

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第1話
第520便が着陸した。これまで一度も迎えになんて来たことのない恋人、高城修司(たかしろ しゅうじ)が、空港で私・藤原夏希(ふじわら なつき)を待っていた。彼は空輸で取り寄せたブルースローズの花束を抱え、ベルベットの箱の中ではダイヤの指輪がきらきらと輝いている。彼が膝をついた瞬間、周囲から信じられないというように息をのむ音が上がった。付き合って十年。彼が私と結婚したいと言ったのは、これが初めてだった。私は平静を装いながら、指輪をはめてもらい、震える声で言った。「修司、私たち……」けれど彼は、ふっと笑った。そしてそばにいる誰かへ視線を向け、軽く眉を上げる。「言っただろ。こいつなら絶対うなずくって。賭けは俺の勝ちだ。絵を寄こせ」私はその場で固まった。背後で、悪意のこもった笑い声がどっと起こる。育ちのよさそうな若い男女の一団が、私の前までやって来た。先頭にいたのは佐伯伊織(さえき いおり)だった。修司の、かつての縁談相手。彼女は涙が出るほど笑っていた。「だから言ったでしょう?夏希がどうしてこんなに長くあなたのそばにいられるのか不思議だったけど、ここまで言いなりになる犬なら、私だって簡単には手放せないわ。今回の喧嘩ではずいぶん意地を張ったそうじゃない。澄香邸を出ていったくせに、修司がちょっと手招きしただけで戻ってくるなんてね」若い男のひとりが、手にしたカメラをほとんど私の顔に押しつけてきた。「見ろよ。こいつ、本気にしてるぞ。感動して泣きそうじゃん」「修司さん、これ絶対しがみついてくるって。責任取ってとか言い出すぞ、ははは!」修司が横目でひと睨みすると、皆はようやく黙った。彼は珍しく、事情を説明した。「じいさんの傘寿の祝いに、ちょうどいい贈り物が見つからなかった。伊織が先週、『青嶺図』を落札したばかりでな。知ってるだろ、じいさんはああいうものが好きだ。だから賭けをした。お前が俺のプロポーズを受けたら、この絵は俺のものになる」つまり、ただの賭けだったのだ。指の付け根がじんじんと痺れていた。少し大きいその指輪は、薬指に力を入れていなければ、今にも滑り落ちそうだった。まるで、私と修司の関係そのものだ。私は力を抜いた。指輪は床に落ち、乾いた音を立てて、取り繕われた平穏を切
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第2話
その短い返事を見つめているうちに、私の中から未練はきれいに消えていた。上司から電話が入った。「夏希、海外赴任の件だけど、今日中にメンバーを確定することになってる。君の枠はまだ空けてあるよ。三年は少し長いかもしれないが、君にとってはいいキャリアになる。もう一度考えてみないか」私はもう断らず、了承した。手続きと引き継ぎで、その日は朝から晩まで慌ただしかった。書類を出して、署名して、押印する。残念がってくれる人もいれば、祝ってくれる人もいた。こっそり、修司と喧嘩したのかと聞いてくる人もいた。私は落ち着いて言った。「喧嘩したわけじゃないよ。別れたの」最後の判が押されたとき、私は窓の外の鉛色の空に目をやった。高層ビルの隙間から、遠くに澄香邸のドームの端が少しだけ見える。私は視線を戻し、航空券の情報を親友の向井美咲(むかい みさき)に送った。【半月後に出発する。行く前に一度会える?】美咲からはすぐに返事が来た。【やっと私のこと思い出した?ちょうど白金倶楽部に新しいスヌーカールームができたの。付き合って、何ゲームか打とうよ】白金倶楽部は東区でも屈指の会員制クラブで、修司たちがよく集まる場所でもある。私が着いたとき、美咲はもう準備運動代わりに打ち始めていた。見事なブレイクショットだった。「来た?」彼女は髪をかき上げ、私を上から下まで眺めた。「顔色、思ったより悪くないじゃない。泣き暮らして、もう生きていけないとか言ってるんじゃないかと思ってたのに」私はバッグを置き、壁に並んだキューの中から一本を選んだ。「期待に添えなくてごめんね」一球をポケットに沈めると、美咲が口笛を吹いた。「やるじゃない。こんなに久しぶりなのに、まだ感覚残ってるんだ」私は少し笑った。スヌーカーは父に教わった。この競技に必要なのは、徹底した冷静さと集中力だと父は言っていた。心の中がどれほど荒れていても、手だけは震わせてはいけない、と。だから私は長い時間をかけて練習した。市大会から県大会まで勝ち上がり、賞も数えきれないほど取った。けれどその後、修司が、キューを握っている私は冷たくきつく見えると言った。それから、私はもう打たなくなった。私が身をかがめ、イエローボールを狙おうとしたそのとき、背後で自動
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第3話
私は振り返り、伊織をまっすぐ見た。彼女はビリヤード台にもたれ、首をかしげてこちらを見ていた。口元には、いつもの笑みが浮かんでいる。その笑顔を、私はもう何度も見てきた。私と修司の間がぎくしゃくしたときも、言い争ったときも、もう終わりだと思うほどこじれたときも、彼女はいつもその顔をしていた。「夏希、いつもそうでしょう」そんな軽いひと言で、私の悔しさも、苦しさも、全部ただの笑い話にされてしまう。視線がぶつかった。彼女は目をそらさなかった。それどころか、ほんの少し顎を上げた。大事に甘やかされて育った人間だけが持つ、余裕と気高さを全身にまとっていた。修司が身をずらし、伊織をかばうように半歩前へ出た。それだけで、彼が本当に気にかけているのが誰なのか、はっきり分かってしまった。伊織の口元の笑みが、少し深くなる。私も笑った。彼女は勝ったつもりでいるのだろう。けれど、知らないのだ。修司への想いなど、あの夜、睡眠薬を飲み込んだときに、とっくに消えてしまっていたことを。翌日、一本の記事が東区の経済ニュースを騒がせた。【匿名告発で佐伯グループの闇が発覚――三十年にわたる血塗られた成長と、壊された家族たち】告発文には、佐伯家に追い詰められ、一家離散にまで追い込まれた人々のことが数多く記されていた。その中には、かつての藤原家もあった。藤原家の一人娘である夏希もまた、その一件で、一時は夜の世界へ身を落とすしかなかったという。ただ、その後の消息をたどっても、彼女の行方は分からなくなっていた……その騒ぎが広がっている頃、私は両親の墓参りに来ていた。墓石に刻まれた二人の名前を、指先でそっとなぞる。母の遺影は、何度も洗って少し色の抜けた白衣姿だった。父は濃紺のスーツを着ていた。写真の中の二人は肩を並べ、カメラに向かって穏やかに微笑んでいた。その笑顔には、研究者らしい真面目さと、あの頃の二人が抱いていた、まっすぐすぎるほどの理想がにじんでいた。「お父さん、お母さん」私は墓前に供花を供えた。花びらには、まだ朝露が残っていた。十年前の今日も、こんなふうに湿って冷たい日だった。けれど私は、あの火事が二人を奪っていくのを、ただ見ているしかなかった。三日後、債権者たちが自宅に押しかけてきた。
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第4話
私は修司をじっと見つめた。その言葉が彼の口から出たものだなんて、どうしても信じられなかった。あの年、彼に連れ出されてからしばらく、私はずっと現実感のないまま生きていた。目の前で両親が炎に吞まれていったことが、私にとってどれほど越えられない傷になったのか、彼はよく知っていたはずだ。あの頃、彼は私を無理に慰めようとはしなかった。ただ毎日、黙って霊園まで付き添ってくれた。当時、世間では両親を「自業自得」だとする噂がひどく広まっていた。父が会社の金を不正に流用したとか、母が違法な実験に関わっていたとか。私は何度も壊れそうになった。その言葉は両親を侮辱するだけではなく、私の中にかろうじて残っていた信じる力まで、根元から揺さぶったからだ。両親のような人たちまで「自業自得」だと言われるのなら、この世に信じられるものなんてあるのだろうか。そのとき、修司は私の隣に立って言ってくれた。「お父さんに会ったことがある。立派な経営者だった。お母さんも、尊敬すべき研究者だった」私は、その言葉を信じた。それなのに今、彼は私の前に立ち、父を貶める嘘を私自身の口から言わせようとしている。父の無能がすべての不幸を招いたのだと、私に認めさせようとしている。伊織に逃げ道を作るために。ようやく我に返ったとき、もう失望すら残っていなかった。「それをしたら、私は何をもらえるの?」私が応じることを、修司は少しも意外に思っていなかった。彼にとって私は、いつだって求めれば応じる女だったのだ。「埋め合わせとして」彼は条件を出した。「別れると言ったことは、聞かなかったことにしてやる。お前は今までどおり、俺の彼女でいればいい」少し間を置いて、それでは足りないと思ったのか、彼はさらに付け加えた。「婚約者でもいい」彼は私を見ていた。私の反応を待っているようだった。「婚約者」という肩書きを、昔の私はあれほど望んでいたから。私は小さく笑った。自分でも驚くほど、冷たい笑いだった。「断ったら?」修司の目がかすかに動いた。けれど声は変わらなかった。脅すつもりさえないように、ただ淡々と言った。「そのときは、偽物の藤原夏希を用意するだけだ。俺が本物だと言えば、それが本物になる」私は目を閉じた。暗闇の
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第5話
佐伯家の記事は、数日もしないうちに沈静化した。誰が裏で手を回したのかなんて、考えるまでもない。けれど私は構わなかった。調べれば調べるほど、背筋が冷えていったからだ。あの告発文に書かれていたことは、すべて本当だった。佐伯家こそが、私の家族を壊した張本人だった。私が動くより先に、美咲から電話がかかってきた。「夏希、今夜、嘉堂オークションにアンティークのチェスセットが出るの。藤原のおじさまが昔、あなたにチェスを教えるときに使っていた、あの『雲霞』よ。行く?」私は目を閉じた。記憶がふっとよみがえった。あの年の春、父が私の手を取り、楠でできたチェスボードの上に白い駒を置いたときのように。「負けることは当たり前にある。だから、負けたときに何を学ぶかが大事なんだ」破産したあの夜、裁判所の人たちはあまりにも早く来た。私はあの書斎を、最後に一目見ることさえできなかった。この数年、昔の品々の行方をずっと探していた。まさか最初に行方が分かったのが、このセットだとは思わなかった。「うん。今夜、行く」夜になると、嘉堂オークションは眩しいほどの明かりに包まれていた。出品物はどれも目を引くものばかりで、「雲霞」はその中に混じると、かえってひっそりとして見えた。私は順調に入札を重ねた。視線はずっと、駒箱の角に向いていた。そこには、ごく細い擦り傷がある。幼い頃の私がぶつけてつけた跡だった。三度目のハンマーが下ろされようとした、そのとき。二階から女の声がした。「待って」声のしたほうを見ると、シャンデリアの光の中に、伊織が立っていた。その後ろには修司がいる。私は視線を戻し、もう一度札を上げた。何度か競り合ったあと、修司のひと言で、私がこのチェスセットを手に入れる可能性は完全になくなった。「上限なしで」「藤原さん」伊織は笑みを浮かべて言った。「私にお願いできるなら、この品、あんたに譲ってあげてもいいわ」その目に浮かぶ得意げな光は、隠しきれていなかった。私は握りしめていた手をほどき、入札札を座席に置いて立ち上がった。「佐伯さんがそこまで気に入っているなら、私は遠慮しておくわ」伊織は一瞬、固まった。私がこんなにあっさり諦めるとは思っていなかったのだろう。オーク
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第6話
人がすっかりいなくなった。あれほどざわついていた会見場が静まり返るまで、十分もかからなかった。青白い照明が、私と、手の中にある軽すぎるUSBメモリを照らしていた。場違いな拍手が響いた。ハイヒールの音が、大理石の床に乾いて響く。伊織が脇の扉から、ゆっくりと入ってきた。「さすが、あの二人の娘ね。その頑固なところまでそっくり。どちらも最後の最後まで諦めが悪いんだから。実はね、あんたが記者会見を開くって聞いたとき、修司が私に、止めようかって聞いてきたの。彼なら一言で済む話だったわ。でも考えたの。希望を持たせてから、それを目の前で握り潰してあげるほうが、ずっと気持ちいいって」彼女は顔を上げた。笑みはいっそう深くなっていた。けれど口にした言葉は、あまりにも残酷だった。「そうそう。あんたのご両親、死ぬ前に二人とも私に頼んだのよ。あんたには手を出さないでくれって」その瞬間、理性の糸がぷつりと切れた。私は手を振り上げた。風を切った掌は、けれど途中で誰かにつかまれた。驚くほど強い力だった。指の関節が、骨に食い込む。「何をしてる」修司がかすかに眉をひそめていた。その顔には、責めるような色があった。怒りで、私の声は自分のものとは思えないほど鋭くなっていた。「何をしてるって?佐伯家が何をしたか、あなた分かって――」言い切る前に、伊織が目を細めた。その声は、楽しそうだった。「修司が知らないとでも思っていたの?」彼女の目には、隠そうともしない憐れみが浮かんでいた。急ぐことなく、ゆっくりと続ける。「修司は最初から、全部知っていたわ。あんたを助けたのも、いつかこの件が表に出たとき、あんたを私の盾にするためよ。私がいたから、あんたは彼のそばにいられたの。そうでなければ、あんたは今もあの泥沼の中でもがいているだけだった。分かった?あんたは特別なんかじゃない。ただの駒だったのよ」もう想いは終わったはずだった。それでも、最初からすべて伊織のためだったなんて、どうしても信じられなかった。私はぎこちなく首を動かし、修司を見た。彼の顔には、何の表情もなかった。目をそらすことさえしない。「修司」自分の声が、途切れ途切れに聞こえた。「あなたは最初から、私の両親が佐伯家に死
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第7話
修司は澄香邸の書斎に座り、渡せないままになったベルベットの指輪ケースを、指の腹でゆっくりとなぞっていた。机の上には、伊織から買い戻したチェスセットが置かれている。窓の外では、ブランコが風に揺れていた。夏希は、必ず戻ってくる。今まで喧嘩をしたときと同じように。口をきかなくなって三日目になると、彼女はいつも唐突にメッセージを送ってきた。胃薬、どこに置いたっけ、と。七日目には、手作り弁当を持って会社の前に現れ、目を伏せて「私が悪かった」と言った。前に澄香邸を出ていったときでさえ、半月もすれば、また柔らかい声で電話をかけてくると、彼は信じて疑わなかった。まして今回は、伊織が流したあの悪質な噂を、彼が揉み消してやったのだ。記者会見を開いたことさえ、責めていない。彼女は昔から頑固だ。少しくらい好きにさせておけばいい。行き詰まれば、そのうち自分から戻ってくる。けれど三日経っても、スマホは、まるで死んだように何の反応もなかった。彼は連絡先を端から見ていき、「藤原夏希」の名前のところで指を止めた。指先はしばらく宙に浮いたままだったが、結局、発信ボタンを押すことはなかった。書斎の扉が開き、執事がお茶を運んで入ってきた。何か言いたげに口を開いた。「修司様、佐伯様から届いたお品物ですが、お受け取りになりますか」彼は気のない声で「そこに置いておけ」と答えた。彼の視線が、机の隅に置かれた、整理したばかりの書類の束をかすめた。それは、当時の佐伯家の不正を裏づける資料だった。どのページにも、藤原家が払わされた犠牲の跡が残っている。そもそも夏希をあの泥沼から連れ出したのは、佐伯家の意向だった。藤原家は潰れ、夏希はただ一人残された生き証人になった。生かしておけば、いつか使える。彼は、自分はただついでに手を貸しただけだと思っていた。幼い頃から、彼は嫌というほど多くの女たちを見てきた。誰も彼もが修司の前でか弱く振る舞い、好意を示す声は、今にも甘く溶け出しそうだった。けれど結局、欲しいのは彼自身か、彼の持つものか、そのどちらかだった。そんな駆け引きには、とっくに飽きていた。女に甘い?そんなものは、世間知らずの男の趣味だ。彼にとって、女の涙などいちばん価値のないものだった。欲しい
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第8話
佐伯邸は広いが、内装はどこか悪趣味だった。修司が玄関に入ると、正臣が自ら出迎えに出てきた。顔いっぱいに笑みを浮かべている。「修司くん、よく来たね。さあ、中へ」修司は軽くうなずいた。それで挨拶は済んだ。食卓につくと、正臣はしばらく仕事の話をした。そして話題を変えると、笑みをさらに深くした。「修司くん、君と伊織はもう長い付き合いだ。私と君のお父さんも昔からの仲だから、回りくどい話は抜きにしよう」彼は湯呑みを持ち上げ、表面に浮いた茶葉をそっと吹いた。「君と伊織の結婚だが、いつ頃がいいと思う?」修司は目を上げて彼を見た。何も言わない。正臣は、修司が考えているのだと思ったらしい。そのまま話を続けた。「君のおじいさまにも話はしてある。まだはっきり了承をいただいたわけではないが、反対もされていない。伊織のことは、君もよく分かっているだろう。あの子は小さい頃から君のことが好きだった。昔、式の前に逃げ出したのは、まだ考えが浅かったからで、本人もあとになってずいぶん後悔して――」「佐伯さん」修司が言葉を遮った。声は大きくない。けれど正臣の話は、そこでぴたりと止まった。「俺には恋人がいます」正臣は一瞬、固まった。すぐに笑う。その笑みには、場数を踏んだ人間の余裕と、どこか軽んじる色があった。「藤原家のあの娘のことか?」彼は湯呑みを置き、軽い口調で言った。「落ちぶれた家の娘だろう。わざわざ口に出すほどの相手か?修司くん、遊ぶのは構わない。だが結婚は別だ。藤原家はとっくに潰れた。父親の評判も地に落ちた。母親だって――」「佐伯さん」修司の声が、一気に冷えた。正臣の笑みが顔に貼りついたまま固まる。修司は彼を見ていた。その目は静かだった。けれど、背筋が冷えるほどの圧があった。「藤原夏希は俺の恋人です。いずれ婚約者になり、妻になる人でもあります。佐伯さんが彼女にその程度の敬意も払えないのなら、うちとそちらがこれ以上付き合う必要はありません」正臣の表情が何度も変わった。怒鳴りつけたいのを、無理にこらえているようだった。商売を始めて三十年、たいていの場面はくぐってきた。それでも、修司という若い男の目は、若い頃の高城家の先代当主を思い出させた。一度口にしたことは曲げず、
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第9話
修司は答えなかった。伊織は数歩進んでから、ふいに足を止めた。「修司、あなた、まだ私のこと恨んでるの?」「何を」「逃げたことよ」伊織は彼を見つめた。その目には、珍しく真剣な色があった。「五年前、私は式の前に逃げ出した。あなたはみんなに笑われて、私は高城家の顔に泥を塗った。あなた、ずっとそのことを根に持ってるんでしょう。だからさっき、わざと私の前であんなことを言ったんじゃないの?」修司は足を止め、彼女を一瞥した。ひどく淡い目だった。「いや」彼は言った。「あの件は、もう終わったことだ」伊織は彼の表情をじっと見た。本心ではない証拠を探そうとした。けれど、何も見つからなかった。彼は本当に気にしていない。寛大だからではない。どうでもいいからだ。「じゃあ、どうして断るの?」彼女は問い詰めた。「父が縁談を持ち出したのに、あなたが受けないのは、まだ私を恨んでるからじゃないの?」修司は振り返り、彼女と向き合った。街灯の光が彼の顔に落ち、くっきりとした陰影を浮かび上がらせていた。そのせいで、かえって表情は読めなかった。「言っただろ。俺には恋人がいる」伊織は鼻で笑った。「やめてよ。あなた、あの女のことが好きなの?それなら、どうしてまだうちと組んでるのよ。うちはあの女の家をめちゃくちゃにした張本人なのよ?本当に好きなら、普通、彼女のために復讐しようとするんじゃないの?」修司は彼女を見たまま、すぐには答えなかった。その目が、伊織には不愉快だった。見下ろすような、品定めするような目。自分では賢いと思っているだけの、何も分かっていない子どもを見るような目だった。「行くぞ」彼は視線を外し、そのまま歩き出した。伊織はその場に立ち尽くし、しばらくしてから我に返って追いかけた。「まだ答えてないわ」修司はすでに車のドアを開けていた。その言葉に、顔だけを少し彼女へ向ける。その目には、気だるげな無関心が浮かんでいた。この話に答える気すらない、というように。彼は車に乗り込み、ドアを閉めた。車は佐伯邸を出て、夜の中へ溶けていった。窓の外では、ネオンの光が次々と流れていく。修司はシートにもたれ、目を閉じた。それでも頭の中では、さっき伊織が投げた問いが何
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第10話
「西山の別邸の改装が終わりました」執事は修司の顔色を慎重にうかがいながら言った。「すべてご指示どおり、藤原様のご実家の設計図をもとに仕上げております。当時、裁判所に差し押さえられた品々も、一つずつ買い戻し、配置まで済ませてあります。いつでもお住まいいただけます」修司はうなずいただけで、何も言わなかった。執事が下がると、彼は立ち上がり、窓辺へ向かった。西山の別邸は、二年前に彼が買ったものだった。その頃、夏希がふと話したことがある。子どもの頃、実家の庭に金木犀の木があって、秋になると庭中が甘い香りでいっぱいになったのだと。彼は「そうか」とだけ返し、その話を続けなかった。けれどそのあと、街中の金木犀を探させ、樹形のいちばんいい一本を選んで、西山の別邸の庭に移させた。別邸の改装も、かつて藤原家の屋敷を手がけた設計会社に頼んだ。何十年も前の図面を引っ張り出し、寸分違わず再現させた。リビングのシャンデリア。書斎の飾り棚。廊下の突き当たりにある床の間。細部に至るまで、記憶の中にある藤原家の屋敷そのままに再現させた。裁判所に差し押さえられて散り散りになった家具や調度品、書画も、彼は大金をかけて一つずつ買い戻した。もう行方が分からなくなっていたものは、当時の姿に合わせて作り直させた。修司は、甘い言葉を言うのが苦手だった。気持ちを伝えるのも得意ではない。言葉にできないものは、形にして見せればいいと思っていた。彼女がここに移り住み、このすべてを見れば、きっと伝わるはずだった。彼女が帰る場所を望むなら、彼が用意すればいい。彼女が両親を恋しがるなら、彼が失われた子ども時代を取り戻してやればいい。修司はスマホを手に取り、秘書に電話をかけた。「夏希は今どこにいる。戻るよう伝えろ。西山の別邸の改装が終わった。連れて行って見せる」電話の向こうで、数秒の沈黙があった。秘書の声には、ためらいが混じっていた。「高城社長、藤原様は……もうこちらにはいらっしゃいません」修司は眉をひそめた。「どういう意味だ」「一か月ほど前に、藤原様は東区を離れられました。会社の海外赴任で、メルボルンへ異動されたそうです。任期は三年です」スマホが手から滑り落ち、机に当たって鈍い音を立てた。その夜、修司は一睡もし
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