ログイン十数年が過ぎ、幸子は明るく愛らしい少女になっていた。彼女は母の手を引いて海辺へ貝殻を拾いに行き、甘えた声で陽子姉さんのことを尋ねた。深雪と幸平のこめかみには、わずかに白い髪が混じるようになったが、笑顔は変わらず温かい。寄り添う二人の影は夕日に長く伸びていた。よく晴れた、風の優しい午後のことだった。深雪は娘と夫を連れ、いつものように崖の上の墓を訪れた。幸子は慣れた手つきで花を墓前に供え、幼い声で言った。「陽子姉さん、またパパとママと来たよ。今日ね、カモメの絵を覚えたんだ。今度はそれを描いてあげるね」深雪は娘の頭を優しく撫で、それから幸平と共に、静かにしばらくそこに立っていた。潮風が彼女の長い髪とスカートの裾を揺らす。その顔には、静けさと、心からの安らぎがあった。ちょうどその時、壁の外で、春樹の、もはやうっすらとしか見えないほどに薄れた魂が、かすかに、最後の微かな揺らぎを見せた。そこには、強い感情のかけらもなかった。ただ虚ろな、それでいて悟りと、ごくわずかな、解放とも言える何かがあった。彼は、陽だまりの中の幸せな家族の姿と、陰りが完全に消え去った深雪の瞳を見つめ、ようやく理解したのだ。寧々は、本当に過去から抜け出したのだ。遠くまで歩み、幸せに生きている。彼の執着も、後悔も、存在そのものも、彼女にとっては、とうに何の意味も持たなくなっていた。彼が執着ゆえに留まり続けた、苦しみに満ちた残りの魂は、そろそろ完全に消え去る時なのだ。おそらく、それこそが彼女にとって、そして自分自身にとって、最後で唯一の解放というものなのだろう。天地を揺るがすような音も、まばゆい光景もなかった。朝の光に消える露のように、音もなく、静かに蒸発した。春樹の魂は、ほとんど見えない微かな光となって、果てしない虚空の狭間に完全に消え去った。優希の魂は、何かを感じ取ったかのように、微かに震えた。彼は父が消え去った方を見つめ、次に、墓前の、あの温かな光景に目を移した。母が、妹に何かを語りかけている。その笑顔は、彼の麻痺した感覚を刺すほどに優しかった。彼は、ふと、ひどく疲れを覚えた。彼を引きずり、解放することのなかった重いものが、父の消滅と共に、わずかにほどけるような気がした。彼は最後に、母を見た。彼に命を与え
深雪の生活は、穏やかな幸福に包まれながら、静かに時を刻んでいた。一方、結界の外では、あの二人にとって永遠とも思える苦しみの時が、ゆっくりと、しかし確実に、その身を蝕んでいった。深雪と幸平の間に生まれた娘は、広瀬幸子(ひろせ さちこ)と名付けられた。心に願うまま、思い通りに幸せでありますように、と、そんな願いが込められていた。深雪は、すべての愛と優しさを、この子に注いだ。けれど同時に、崖の上にあるあの小さな墓のことを、決して忘れたわけではなかった。幸子を抱きしめながら、海を指さして教えた。そこには、お母さんをとてもとても愛してくれた、でも遠くへ行ってしまったお姉さんがいるんだと。幸子は摘んだ花を、そっと墓のそばに置いた。幸平は、妻が触れたがらない過去があることを知っていた。彼はその沈黙を尊重し、それ以上に深い愛情と気遣いで、彼女が心安らぐ、温かな居場所を築いていた。彼は、深雪の持つ静かな強さを愛した。そして、彼女が時折見せる、少女のような無邪気な甘えや喜びの表情も愛した。二人の生活は、質素でありながらも豊かで、日常の幸せと、詩を読むようなロマンに満ちていた。深雪の仕事も、順調に歩みを進めていた。彼女の絵は小規模ながら展示されるようになり、何人かのコレクターから注目を集めるようになった。彼女は、生命への想い、海への想い、そして愛別離苦について、自身の経験を通して深く理解したことを、絵筆に乗せて表現した。その画風は、静けさの中に力強さをたたえ、同じような経験を持つ多くの人々の心を癒やした。絵本の挿絵に挑戦することも始めた。温かな色と、子供の視点から見た無邪気な世界観で、勇気や友情、許しや受け入れについての物語を紡いだ。彼女は、自分が心から愛し、そして得意とする仕事を、ようやく見つけることができた。自己の価値を実現できる場所を、手に入れたのだ。時折、夜が更け、誰もいなくなった時や、娘の眠る顔をじっと見つめている時、深雪は、あの遥か遠く、霞んでしまったような攻略の世界のことを思い出した。裏切りや傷つき、病や死、それらは確かに記憶の中に存在していた。けれど、もうそれらには、彼女を傷つけることができない。むしろ色あせた写真のように、あるいは読み終えたつまらない小説のように、心の奥の片隅に、きちんと
ある日、薄い色のシャツを着た、穏やかで品のある男性が、何冊もの本を抱えてその本屋にやって来た。その男はどうやら深雪と知り合いらしかった。二人が言葉を交わすと、深雪は笑った。その笑顔は明るく自然で、曇りがひとつもなかった。男が帰り際、二人は週末に新しくオープンした美術展に一緒に行く約束をした。春樹の魂はたちまち歪み、嫉妬と狂おしいほどの独占欲が、まるで毒蛇のように彼に絡みついた。「あいつは誰だ!よくも!寧々は俺のものだ!俺の妻なんだ!」彼は壁にぶつかろうとしたが、またしても無情に跳ね返された。ただ深雪が笑みを浮かべ、その男を見送るのを、指をくわえて見ていることしかできなかった。彼女の目には、久しぶりの、人と交わることの喜びが輝いていた。それからの日々、その男が現れる頻度はますます高くなっていった。彼の名は広瀬幸平(ひろせ こうへい)、フリーのイラストレーターで、本屋の常連でもあった。彼は深雪の物静かさと、時折見せるセンスの良さに惹かれていた。彼女が焼くお菓子を気に入り、本や絵の話を交わし、一緒に海を見に行ったり、スケッチに出かけたりした。深雪は最初こそ、礼儀正しく距離を保っていた。しかし幸平の気遣いや尊重、そして絶妙なユーモアに触れるうち、過去の傷ゆえに築かれた彼女の心の氷は、最後の一欠片まで静かに溶かされていった。彼女は彼が来るのを待ち望むようになった。新しいお菓子を焼けば彼のために取り分け、最近読んで心に残った文章を彼と共有し、彼に励まされて、今までよりも大胆で明るい色を使うようになった。優希は、母の顔に笑顔が増えていくのを見た。見知らぬ男と母の間に、自然に流れている心の通い合いと温かさを見て、自分の魂が引き裂かれそうな思いだった。「お母さん……どうして……どうしてあの人と……お父さん!見てるのか!お母さんは僕たちを見捨てるんだ!あの人と新しい家族を作ろうとしてる!」彼は春樹に向かって泣き叫んだ。しかし春樹もまた、同じように取り乱し、引き裂かれそうになっていた。優希に応える余裕などなかった。それから一年後のことだ。深雪と幸平の関係は自然な成り行きで結婚へと至った。式はごくささやかに、海辺で行われた。親しい友人が数人いるだけだった。深雪はシンプルな白いロングドレスをまとってい
そのシステムの結界は、まるで固い嘆きの壁のように、ふたつの世界を完全に隔てていた。深雪にとって、その壁は安寧を意味していた。不快な視線も、不気味な幻聴も、悪夢も、すべて消え去った。春樹と優希の魂も、彼らの後悔と執念も、その壁の向こう側にしっかりと封じ込められ、もはや彼女に触れることはできなかった。彼女は再び生活のリズムを取り戻し、自由な空気を吸い込み、健康な身体がもたらすひとつひとつの喜びを感じていた。しかし、壁の向こう側にいるふたりにとって、それは業火に焼かれるよりも過酷な、果てしない地獄のような日々だった。彼らは、奇妙な、灰色がかった狭い空間に閉じ込められていた。そこには実体も、時間の流れもなかった。ただ、どこまでも広がる虚無と死の静寂だけがあった。彼らには、深雪のいる新しい世界が見えていた。それは、巨大で透明だが、決して通り抜けることのできないガラスのようなものだった。その世界の光も色も音も、そして深雪の動き、笑顔までも、はっきりと見えた。しかし、彼らは外側に隔てられている。まるで映画館の中に永遠に閉じ込められ、スクリーンを見つめるだけの観客のように。最初のうち、深雪が目を覚まし、健康な様子で海辺を散歩し、太陽の光の下で体を伸ばすのを見て、春樹と優希の魂は興奮し、希望に満ちていた。彼女は生きていた。しかも、あんなにも健康で、活力に満ちている。きっと自分たちを許してくれる、少なくとも、自分たちの方を見てくれるのではないか?彼らは必死に見えない壁を叩き、ありったけの想いを込めて叫び、懇願し、悔やんだ。しかし、彼らの声も想いも、虚しく空を切るばかりで、壁は微動だにせず、深雪はまつ毛すら震わせなかった。それから、彼らは彼女が新しい生活を始めるのを見た。彼女が絵画を学び、筆先から自分たちの見たことのない明るい色を溢れ出させるのを見た。彼女が焼き菓子を作り、隣人と分かち合うとき、顔に浮かべる温かな笑顔を見た。彼女が涼しげなワンピースを着て、本屋で本を整理し、訪れる客に絵本を優しく勧める姿を見た。彼女はあんなにも穏やかで、満ち足りていて、全身からは、生き延びた者の、静かな強さが漂っていた恨みも、悲しみも、過去の面影さえも、ほとんど感じられなかった。まるで、裏切りと傷つけと死に満ちたあの人生を
海辺の穏やかな潮の流れのように、日々は静かに過ぎていった。寧々はこの世界で、園田深雪(そのだ みゆき)と名を改めた。そして、この世界での暮らしにも少しずつ慣れていった。だが、ある執念は、生と死の境界さえ、空間の壁さえも越えて、まとわりついてくるものだった。深雪は、胸が締め付けられるような息苦しさで目を覚ました。勢いよく起き上がると、寝室の陰に、ぼんやりと半透明の人影が二つ立っているのを目にする。一つは身長が高くて、もう一つは少し痩せていた。その見慣れた輪郭に、全身の血が凍りついた。春樹と優希だった。彼らは生前のような、派手な装いの大人の姿でも、反抗的な少年の姿でもなかった。そこにあるのは、不気味なまでに実体のない、半ば透けたような姿だ。顔色は青白く、目は虚ろで苦しみに満ちていた。体には、炎に焼かれた痕がまだ生々しく残っているように見える。彼らはじっと深雪を見つめ、唇を動かしている。しかし声は聞こえてこない。ただ、後悔と懇願と無念に満ちた強い想いだけが、冷たい潮のように幾重にも深雪の感覚へと押し寄せてくる。「寧々……許してくれ……」「お母さん……僕が悪かった……本当に間違ってた……」「戻ってきて……お願いだ……」「俺たちが間違ってた……ちゃんと報いを受けたんだ……」「ほら、僕たちは死んだんだ……もう死んだんだ……だから許してくれないか……」無数の負のエネルギーに満ちた想いが、無理やり深雪の脳裏へ流れ込んでくる。激しい頭痛と吐き気が襲った。それは声ではない。精神そのものを直接えぐるような衝撃だった。深雪は耳を塞いだ。しかし、その想いはあらゆる隙間から入り込んでくる。彼女は恐怖に後ずさり、背中が冷たい壁に当たった。「どいて!」彼女はありったけの声で叫んだが、その声は雷の音にかき消されそうになる。「出てって!近づかないで!もうあなたたちとは関係ないの!」二人の影がわずかに震える。だが消えはせず、かえって少しだけ近づいてきた。その意志はさらに明確になる。彼らは深雪に近づき、触れ、許しを求めている。そして、自分たちがいる後悔と苦しみに満ちたあの地獄へと、彼女を再び引きずり込もうとしているのだ。「いやっ!」激しい眩暈と、魂を引き裂かれるような痛みが深雪を襲った。このまま
寧々が目を覚ますと、最初に感じたのは陽光だった。温かく、明るく、遮るものなく顔に降り注いでいる。瞼を通して、世界は柔らかな色に染まっていた。消毒液の匂いも、機械の電子音も、そしてかつては付きまとっていた、頭が割れそうな激しい痛みも、どこにもない。そっと目を開けると、見覚えのない、質素で上品な天井が目に入った。体が信じられないほど軽い。長い間忘れていた、健康な人間が持つ活力にあふれている。指を動かし、手を上げてみる。自分の指示通りに、身体は力強く応えた。脳腫瘍の末期がもたらしていた、息苦しいほどの重圧と、死の間際の感覚が消えている。娘の骨壺を抱いたまま、寧々は体を起こして辺りを見回した。簡素だが、心地よい部屋だ。広くはないが、日当たりは良く、窓辺にはいくつかの、生き生きとしている鉢植えが置かれている。空気には、日光と布団から漂う、ほのかな清潔な香りがする。「宿主様」システムの、感情のない音声が頭の中に響いた。「契約に基づき、健康な身体と新しい身分をお渡しします。最低限の生活に必要な物資は、ベッドサイドの引き出しに用意してあります。新たな生活をお楽しみください」寧々はベッドを降り、窓辺へ歩いていき、窓を開けた。そよ風が頬を撫ぜる。潮の香りがする。遠くには、どこまでも続く紺碧の海が、日差しを受けてきらめいている。近くには、整然とした通りと、明るい色の家々が並ぶ。ここは、海辺の静かな小さな町だった。そこには、春樹も、優希も、真紀も、菅野家の邸宅も、そして、息が詰まるような裏切りや、傷、憎しみの数々も、何もない。あるのは、健康と自由、そして、真新しく、未知の世界だけだ。何の前触れもなく、涙がこぼれ落ちた。悲しみではなく、大きな衝撃の後に訪れた、解き放たれた感情だ。生き延びたことへの安堵、そして枷から解き放たれた、身軽さだ。本当に、新しい形で……生き続けられるのだ。真っ先に心に浮かんだのは、新しい世界を探索することでも、新しい生活を計画することでもなかった。彼女の娘、陽子のことだった。この世界をちゃんと見る間もなく、儚く去っていった小さな天使だ。それは、彼女の心において最も柔らかい記憶で、そして最も痛む傷跡だ。骨壺の表面を撫でながら、娘のために、永遠で静かな、そして母娘だ