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沈黙の涙

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-19 15:06:35

佐野はひとつだけ、瞬きをした。ゆっくりと、まぶたを閉じて、再び開けるまでに少しだけ時間がかかった。それはまるで、何かを胸の内で呑み込み、言葉に変わる寸前で諦めた人の動作のようだった。

そのまま、もう一度まばたきが落ちる。今度は睫毛の先に、かすかな光の粒が浮かんでいた。光でも、雨でもない。尾崎は息を詰めたまま、それが静かに零れ落ちるのを見ていた。

ひと粒の涙が、佐野の睫毛の端から滑り落ち、頬をゆっくりと伝っていく。彼自身は、それに気づいたのか、それとも見て見ぬふりをしているのか、どちらとも言えない表情を浮かべていた。手を上げることはなく、拭おうともせず、ただそのままに流させていた。

口元には、まだかすかな笑みがあった。穏やかで、ほんの少し形の崩れた笑み。だがそれが、むしろ尾崎にはひどく切なく映った。何も言わないその微笑が、言葉以上に痛みを伝えていた。許しを乞うわけでも、何かを訴えるわけでもない。ただ、誰にも見せないようにしようとする穏やかな表情のまま、彼は涙を流していた。

尾崎は、その横顔から目を逸らせなかった。泣くことができる人は、強いと思った。誰にも見せずに泣く人は、なおさらだと。けれど、いま佐野が見せているのは、隠そうとして隠しきれなかった涙だった。

静かに、佐野の肩がほんのわずかに上下する。声はない。ただ、呼吸のひとつひとつが長くなっていた。身体の奥で感情を押しとどめるような、その律した呼吸に、尾崎の胸がきゅうと締めつけられる。

頬を伝った涙が、あごの先まで滑り落ちた。それでも、佐野は拭わなかった。まるでそれが自分にとって不要なもののように、あるいは、許されたもののように。

尾崎は、手を伸ばすべきかどうか、一瞬だけ迷った。けれど、何もせずにそばにいるという選択を、今は選びたいと思った。

それが、佐野にとっての救いになるかどうかは分からない。だが、少なくとも“見る”ことはできる。これまで誰にも見せなかったであろう涙を、今ここで受け止めることだけはできる。

「泣いていいんですよ」

そう言いかけて、尾崎は言葉を飲んだ。声に出してしまったら、何かが壊れてしまう気がした。だから代わりに、そっと呼吸を整えた。沈黙のまま、目を閉じ

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