小さな釜から立ちのぼる湯気が、静かな店内に淡く満ちていた。湯を注ぐときの音は、わずかに低く、柔らかな弧を描いて器へ落ちていく。佐野は茶筅を取り上げると、自然と右手が動き出す。動作は迷いなく、無駄がない。回数も、力も、決まりきったように身体に刻み込まれていた。
抹茶の泡が細やかに立ち始める頃、ふと、佐野は意識の端にひとつの気配を捉えていた。入口近く、決まった席。尾崎が、今日も変わらずそこに座っている。静かに湯呑に手を添えて、何ひとつ語らず、ただ茶の熱を受け取っている。
あの人が最初にこの店に来た日のことを、佐野はよく覚えていた。季節は違ったが、今日と同じように雨が上がったばかりで、空気には水気が残っていた。あのときの尾崎の表情は、誰にも触れさせない硬さがあった。それでも、店の中の何かにほっと息をついたような気配を見せていた。それを見逃さなかった自分を、佐野は一度も後悔していない。
静かな水面のような人。そう思ったことがある。目の奥にまで張られた薄い皮膜が、どんな言葉も届かせないような気配を醸しているのに、同時に見てはいけない深さを予感させた。
なぜ、気になるのだろう。佐野は自分に問いかけるたび、答えを拒むように目を逸らしてしまう。特別な意味を込めるには、まだ知らなすぎる。けれど、誰よりも静かにこの店の空気に馴染んでいくその姿が、佐野の中に揺らぎを生んでいるのは確かだった。
茶筅を抜き取る。白磁の中には、滑らかに泡立った抹茶が、きれいにまとまっている。それを見つめたまま、佐野は少しのあいだ呼吸を止めた。
音を立てないように膝をすすめ、湯呑を尾崎の前に置く。所作を乱さないように気をつけながら、指先がわずかに器の縁を撫でるように滑った。
「ようお越しやす。寒かったやろ」
その声は、ほかの客に向けるものよりもほんの少し低く、ゆるやかに落ち着いた響きを持っていた。意識していたわけではない。けれど、自分でもその変化に気づいたとき、佐野はほんの一瞬だけ唇を噛んだ。
尾崎は顔を上げない。いつものように、目元に影を落とし、茶の湯気だけを見つめている。その姿に、佐野はなぜか胸の奥に熱を感じる。感情というにはあまりに曖昧で、曖昧すぎて厄介だと思った。
佐野は穏やかな声で、「どうぞ」と新たな客を奥の間へと誘った。畳を踏む足音が遠ざかっていくなか、尾崎は再び椅子の背にもたれ、視線を中庭へと戻した。障子越しの光がいくらか強まり、白椿の花がひときわ鮮やかに浮かび上がっている。風が枝をゆるやかに撫で、葉のあいだから射す光が花弁に細かく散った。その瞬きのような揺らぎが、時間の輪郭をぼかしてゆく。この場所は変わらない。静けさ、茶の香り、湯気の温もり、柔らかな光。そのすべてが、初めてこの扉をくぐったあの日と変わらずそこにあった。けれど、そこに身を置く自分自身が、もう以前の自分ではないことを、尾崎ははっきりと感じていた。誰かの顔色を伺いながら、必要とされることを自分の居場所だと錯覚していた頃の自分。その癖は、今も完全には消えていない。仕事の場では、気づかぬうちに笑顔を貼りつけることもある。けれど、それでも、あの夜から少しずつ、確かに何かが変わったのだ。佐野と目を合わせるようになった。言葉にしなくても、彼の視線の先にいるのが自分だということが、確かな実感として心のなかにある。ぬるい不安を隠すために笑うのではなく、あたたかい気持ちをそのまま表に出せるようになった。そして何より、自分の未来を、他人に委ねずに選ぼうとしている。そのことが、何よりの証だった。障子の影がふと動いた。佐野が奥から戻ってくる気配がする。尾崎は振り返らずにそのまま椿を見ていたが、微かに聞こえる足音に、自然と呼吸のリズムを合わせていた。歩く音が近づくにつれ、部屋の空気に馴染むように、静かな温度が戻ってくる。佐野が再び席に戻ったとき、ふたりのあいだには言葉はなかった。ただ、お互いの存在が、ごく自然にそこにあるという事実だけが、くっきりとした輪郭で空間を満たしていた。ふと視線を向ければ、佐野の表情もまた変わっていた。目元にはあいかわらず穏やかな弛みがあるが、その奥にある深い揺らぎは、以前よりもさらに静かになっていた。「白椿、落ち始めたな」佐野がぽつりと漏らす。その声は日常の延長にある、何気ない響きを持っていたが、尾崎にはどこか名残惜しさのような感情が滲んで聞こえた。尾崎は軽く頷いた。「でも、落ちた花も、綺麗ですよ」それは彼の
引き戸の木がゆっくりと動く音が、春の空気の中にわずかに響いた。微かに軋むその音に、尾崎はふと顔を上げる。佐野も同じように手を止め、そちらへと視線を向けていた。白椿の香りとほうじ茶の余韻がまだ残る中、店の入り口に立っていたのは、見慣れない若い女性だった。ショートボブの髪がわずかに揺れ、眉間にほんの僅かに緊張の影が浮かんでいる。服装は控えめで、袖口を指で掴むようにしながら、躊躇うように一歩を踏み出した。「…こちら、占いもしていただけるんですか?」その問いは思い切ったように発せられたものの、声はか細く、どこか確信を持てずにいた。店内の静けさがその声をすぐに吸い込み、空間に新しい気配だけが残された。佐野は席を立ち、湯のみを盆に戻す手を自然な動きで止めると、女性に向き直る。口元には、いつもの柔らかな笑みが浮かんでいた。光の差す方向が変わったことで、作務衣の袖が少し金色を帯び、彼の輪郭がほんのりと温かく見える。「はい。よければ、お茶でも飲んでからにしましょか」その一言に、店の空気がすっと和らいだ。女性の肩がふと下がり、眉間の緊張が溶けていく。視線を床から佐野の顔へと移した彼女は、戸惑いながらも頷き、そっと履物を脱ぐ。畳の感触に戸惑うように足を運ぶその様子は、初めての場所に馴染もうとする誰かの姿そのものだった。尾崎はそのやりとりを静かに見守りながら、茶をすすっていた手を膝に戻した。自然と目が佐野の背中を追う。細身の肩幅、静かに動く肩甲骨、客へと向かう歩幅の均整。それらすべてが、ごくあたりまえのもののように、場に溶け込んでいた。かつては少し背負いすぎていたようにも見えたその背中が、いまは肩の力が抜け、自然体に見える。女性は店内の空気に少し安心したのか、近くの椅子に腰をかけた。佐野は湯を新たに沸かしながら、声をかけるでもなく、背を向けて準備に取りかかっていた。無言のうちに伝わるものがある。湯が沸く音、茶葉を計る音、そして器を置く音。どれもが丁寧で、日常の一部としてそこに存在していた。尾崎はそっと視線を中庭に移した。椿はまだ咲き誇り、風が枝を撫でている。光が射し、影が動き、ふと風が止まると、白い花弁がひとつ、音もなく地に落ちた。その落ちる様が、何かを終わ
佐野は湯のみを卓に置くと、尾崎の隣の椅子に静かに腰を落ち着けた。窓際の障子から差し込む陽は少しずつ角度を変え、白椿の影を畳のうえに濃淡で描き出している。湯気がまだ細く立ちのぼり、ふたりの視線がその揺らぎの真ん中で柔らかく重なった。ひと呼吸置いてから、尾崎は湯のみをそっと持ち上げた。佐野もほぼ同時に手を伸ばす。口をつけるタイミングまでが不思議と重なり、湯が喉を通るわずかな時間で、短い沈黙がふたりの心拍を揃える。湯の熱が胸の奥におりる。ほうじ茶の香ばしさとほのかな甘みが鼻腔を満たし、それが静かに広がると、昨日までの緊張はどこかに滲んで消えた。佐野は湯のみを卓へ戻し、掌で器の縁を一度撫でてから窓外を眺めた。外の風が再び椿の葉を揺らし、葉陰がかすかなざわめきを立てる。その音を聞きながら、佐野は唇の端をなだらかに上げ、声をひそめるように話し始めた。「せやな、未来って、なんやようわからんからこそ、愛しいんやろな」声は掠れず、けれど低く落ち着いている。語尾にかけてわずかな吐息が混ざり、それが湯気と共に薄く消えていった。尾崎はひとつ息を吸い、湯のみを持ったまま視線を落とす。睫毛の影が頬に落ち、眼鏡のフレーム越しに見える瞳がゆっくりと細くなる。今ではその伏し目は、人目を避けるためではない。静かな照れと、佐野の言葉を胸の内で噛みしめるための所作だった。頬はうっすらと赤みを帯び、それが春の光と相まって柔らかな色を生み、佐野に小さな満足を与えた。尾崎は湯のみを卓へ戻し、卓を挟んでいるにもかかわらず、指先がほんのわずかに佐野の手の近くをかすめる。触れたわけではない。しかし、それで充分だった。ふたりの間にはもう、占いも説明も要らなかった。未来はカードに描かれるものではなく、いま重ねた呼吸の中に、すでに芽吹いているのだと知っている。尾崎は低く笑った。声はほとんど漏れず、喉の奥でころがるだけのかすかな笑い。それでもその音色は、佐野の胸に柔らかな弦の震えを走らせる。湯気が二人の間を漂い、淡い陽がそれを透かして虹色の輪郭を与える。佐野はその靄を指先で掬うように、卓の上で軽く手を動かす。その仕草は茶を点てるときのように滑らかで、尾崎はその動きを視線で追う。追いながら、心の中でそっと呟く。過去も未来も、いまは一度脇に置い
湯の沸く小さな音が途切れ、ほうじ茶の甘い香りがふわりと漂った。奥の厨房から佐野が現れる。淡い藍の作務衣の袖を肘まで軽く捲り、木の盆に湯のみ二客と急須を載せている。歩みは静かで、畳を踏むたびに布の擦れる音がわずかに揺れた。盆から立ち上る湯気は細く白い筋となり、差し込む春の光に触れてほどけ、やがて空気へ溶け込んでいく。尾崎は窓際で帳簿を閉じ、視線を佐野へ向けた。湯気が流れる先で、佐野の輪郭がやわらかく歪む。その影が近づくたび、ほうじ茶の香ばしさがいっそう濃くなる。佐野は盆を卓に置くと、湯のみをひとつ尾崎の前へ滑らせ、もうひとつを自らの席に据えた。湯面に映る椿の白がゆらりと揺れて、淡い金の縁が微光を返す。「白椿、よう咲いとるな」佐野の声は相変わらず穏やかだったが、目尻の皺がいつもより深く、頬の緊張も少しゆるんでいた。長い睫毛の先で光を受け、瞳がほんのりと濡れた茶色にきらめく。尾崎は頷きながら視線を中庭へと戻した。白椿の花弁が朝日を透かし、淡い影を石畳に落としている。緩やかな風が枝を揺らすたび、椿の花はふわりと首を傾け、葉に落ちた露を細く弾いた。「まるで、ここだけ冬と春の境目みたいですね」尾崎はそう言いながら湯のみを持ち上げた。湯気が眼鏡のレンズを曇らせ、彼はゆっくりとまぶたを閉じる。鼻腔に満ちる焙じ茶の香ばしさは土の匂いを帯び、それが温度を伴って胸に降りていく。かつては熱い飲み物でさえ急いで飲み干そうとしていた自分が、いまはこうして香りだけを味わっている。指先に伝わる器の温もりがささやかな安堵となり、肩の力がじわりと抜けた。佐野も湯のみを傾け、軽く唇をつけた。彼は飲み込む前に一度息を含むように口内で湯を転がし、喉へ送る。動作は滑らかで、湯を置く音もわずかだった。盆の縁に指を添え直す仕草がゆるやかで、そこに昨夜まで纏っていた気負いはない。佐野が視線を白椿へと移すと、薄い唇の端がほんのわずか上がった。それは笑みともため息ともつかぬ小さな動きだったが、尾崎にははっきりと伝わった。「椿は冬に咲く花やと思われがちやけど、ほんまは春先に咲く花やね。、季節が混ざり合う瞬間みたいやな」佐野の言葉は、湯気の中で溶けるように静かだった。尾崎は湯のみを卓に戻し、
白椿が中庭の陽に透けて、ひとつ、またひとつと花弁に光を集めていた。枝先に宿ったその白は、雪の名残のようであり、けれどもう確かに春の色を帯びていた。椿の葉が、やわらかな風を受けて微かに揺れる。そのたびに陽射しと影が入り混じり、地面に淡い模様を描き出していく。空気は清らかで、どこかに冬の湿り気を残しつつも、ふと鼻先を撫でるものは春そのものの匂いだった。尾崎は窓際の席に静かに腰掛けていた。膝の上には閉じたままの帳簿とペン。すっかり冷めたほうじ茶の湯呑みに、手を添えている。思考は仕事のことから遠く離れ、ただ外の庭を眺めていた。カフェの扉越しに、町のざわめきが遠く微かに伝わってくるが、この小さな空間にはまるで別の時間が流れているかのようだった。奥からは、茶葉を煎る音が小さく響いてくる。香ばしさを伴った湯気が、廊下を伝ってこちらに届く。佐野の動く気配が、誰よりも自然なリズムでこの店の空気をゆるやかに満たしていく。その音も、香りも、今の尾崎にとっては特別な意味を持っていた。ふと尾崎は、窓の外に咲く椿へと目をやった。かつての彼なら、こうしてゆっくりと外の景色を眺める余裕などなかったはずだ。人の目線を避けるように伏し目がちで、静かに呼吸を整えてばかりいた日々。だが今は違う。眼鏡越しに見る白椿は、柔らかい輪郭でそこに咲いていた。尾崎の目元も、ほのかに細められ、そのまなざしには静かな肯定が宿っていた。椿の白が、まぶしくて、けれど痛くはない。生きてここに在ること、ただその事実だけで、こんなにも心が穏やかになるのだと、尾崎は不思議な感慨を覚えていた。店の中を流れる空気はあたたかく、静かで、誰の言葉も要らない。佐野の気配が奥でゆるやかに動き、その音に耳を澄ますだけで、なぜか安心できるのだった。湯呑みを口元に運ぶ。ほうじ茶の温度はもうほとんど失われているが、その香りは変わらずやさしい。飲み干すことなく、ただ少しずつ舌先にのせる。そのたびに心の奥の静かな場所が、ゆっくりと満たされていく。庭の椿は、相変わらず凛とした姿を保っていた。ふと、小さな風が吹く。白椿の花弁がほんのわずかに揺れ、光の粒がそれに踊る。尾崎はそのささやかな揺らぎを、じっと見つめていた。自分の内側にも、確かに新しい風が吹いていること
障子の外から差し込む光が、畳に淡い影を落としていた。朝はすでに深まりかけているのに、奥の間にはまだ夜の余韻がわずかに残っていた。湯の沸く音も、鳥のさえずりも、今はここには届かない。ただ、ふたりの間を満たす静けさがある。少し前までそこにあった不安も、ためらいも、何か大きな流れのなかに溶けてしまったようだった。佐野はそっと目を細めた。口元に浮かぶ笑みは、いつものようにやわらかい。けれどその奥にあるまなざしは、明らかに変わっていた。占い師として他人の人生を読み解くときの冷静さや、誰かを包み込むような距離感はそこになかった。彼はただ、ひとりの男として、尾崎をまっすぐに見つめていた。「ほんま、不思議やな……カードなんかよりも、あんたの声の方がずっと、俺の胸に響くんや」その言葉に、尾崎は目を伏せかけた。だがすぐに、ゆっくりと顔を上げる。答えは言葉では返さなかった。ただ、息を整えるようにひとつ深く呼吸をし、小さく頷いた。その仕草には、何も飾られていない、けれど確かな想いがこもっていた。佐野は尾崎の頷きを、丁寧に受け止めた。ふたりのあいだには、すでに占いやカードの意味を超えたものがあった。これから先、何が待っているかは誰にもわからない。だが、それでもいいのだと、そう思える瞬間だった。障子の向こうでは、春の光がいっそう明るくなってきていた。まるでふたりの時間に呼応するように、日差しがゆっくりと部屋を満たしていく。畳の目に沿って落ちる影が、柔らかく伸びていく。その光景を、尾崎は静かに見つめた。何も語らなくても、今ここにあるものがすべてだと思えた。佐野の手が、そっと尾崎の手を探しに来る。その指先は、昨夜よりも少しだけ力を込めて、尾崎の指を包んだ。まるで、これからの道を共に歩くための確かな意思を込めるように。その感触に、尾崎は自然と微笑んだ。口元だけでなく、目の奥からゆっくりと笑みが広がっていった。どちらからともなく、ふたりは少しだけ体を寄せ合った。触れ合う肩と肩の温もりが、言葉以上の約束を交わしていた。未来には名前がない。答えもない。だが、それを恐れる気持ちさえ、今はどこか遠くに感じられた。「もう、カードに頼らんでもええかもしれへんな」佐野