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封じられた花弁

Auteur: 中岡 始
last update Dernière mise à jour: 2025-09-03 15:48:55

仄かな灯火が石壁に揺れていた。神殿の奥、その空間には時間すらも沈殿しているかのようだった。風の届かぬ部屋には、絶えず香が満ちていた。花ではない。火と蜜と、そして肉の奥から染み出したような、濃く甘やかな香。天井の高みから垂れ下がる鎖が、まるで鐘のように空気を震わせている。

中央に横たわる影は、人か獣か、誰にも判別できぬまま語られてきた。銀の仮面を顔に装着され、両の手には爪を模した鋼の装飾が施されていた。それは生けるものというより、祀られた異形の器であった。

少年は音もなくそこに運ばれた。供物として、あるいは試みとして。少年の足元には果実が置かれていた。淡い桃の皮を剥いたような色をしていたが、香りはそれ以上に花だった。かすかに湿った黒髪は背中まで流れ、頸のあたりには白檀の香油が一筋、淡く光っていた。

獣は動かない。仮面の奥にある目も口も、少年の存在にまるで無関心なように見えた。だが、香はすでにその皮膚の下にまで染み込んでいた。鼻腔を満たしたのは匂いだけではなかった。指先が疼いた。爪の奥が痒むように、言葉のない欲望が脈を打ち始めていた。

少年は視線を上げない。ただ両の手で果実を包み、慎重にそれを差し出していた。一歩、また一歩、神に近づく者のように。その距離は、計算されたものではなかった。恐怖でもなかった。無垢とは異なる。あれは…従順という名の仮面をつけた、誘い。

仮面の内側で、ひとつの呼吸が乱れた。音にはならなかったが、胸元の金の装飾が微かに揺れた。少年の香が近づいたのだ。汗ではない。熟した果実の皮が破れたときのような、いっときの甘い圧力。それが肌に触れぬうちから、仮面の奥に熱を運び込んだ。

「…なぜ、ここに来た?」

声はなかった。だがその沈黙が、仮面の獣の脳裏に響いた。獣は言葉を持たぬ少年の沈黙に、なぜか苛立ちを覚える。何かを欲するのなら、それを言葉にすればよい。なぜ、そうしない。なぜ、何も奪わず、ただ差し出すのだ。

少年は果実をそのまま足元に置いた。仰ぐことなく、ただ一歩下がる。そしてその香が、最後に波打つように空間を満たした。仮面の獣はその香を全身で受け止める。だが、手は伸ばさなかった。果実にも、少年にも。

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