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幻影の庭

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-08-23 15:37:58

夜の帳が宮殿を覆い、銀の燭台に灯された火が、絹の天蓋に淡い影を揺らしていた。王の私室は、沈香に月桂樹の樹脂を混ぜた燻香で満たされている。煙は静かに流れ、寝台に跪くアミールの髪に絡んだ。その姿はあまりに静かで、まるでこれから語られるものが、この世のものではないことをすでに知っているかのようだった。

「語ってもよろしいですか」

そう告げてから、アミールは一息の間を置いた。まるで、王の息遣いに合わせて語り出すタイミングを測っているように見えた。

サリームは何も返さず、片肘を肘掛けに乗せたまま、目を細める。

アミールは目を伏せたまま、声を落とす。

「昔、ある国の牢に、一人の青年が囚われておりました。彼は罪人でした。盗みを働いたのでもなく、誰かを傷つけたのでもない。…けれど、王にとって許されざる“沈黙”を持っていたのです」

「沈黙が罪とは」

サリームが呟いた。嘲りとも、関心とも取れぬ声だった。だがアミールはその言葉を飲み込み、再び口を開いた。

「青年は、牢の床にじっと座りながら、毎夜同じ夢を見ました。夢の中で彼は、花に満ちた庭を歩いています。足元の草は露に濡れ、誰かの足音が、その後ろを追ってくるのです」

燻香が、ざくろの皮を焼いたような甘さを帯びはじめた。

「振り向いても、誰もいない。けれど、香りだけが残っているのです。熟れたざくろの香り。青く光る月の石を首にかけた恋人が、そこにいるとわかるのです」

サリームの指が、無意識に膝の上の布をなぞった。その動きはわずかだったが、アミールのまつげがかすかに揺れる。王の反応を、彼は見逃さなかった。

「恋人は、もうとっくにこの世にはいません。処刑されたのか、毒を盛られたのか、それすらもわからない。ただ青年の記憶の中では、彼は笑っていました。首にかけた月の石が、陽の光の下では灰色だったのに…夢の中では、青白く光るのです」

サリームの視線が、ひとつ上がる。まっすぐアミールを射抜くその瞳は、すでに遊戯ではなく、探るような静かな怒りを含んでいた。

「なぜその話を語る。偶然だと?私の記憶を探ったのではないと?」

「これはただの物語です」

「あなたが知るかどうかなど、関係のない話でございます」

「ふん…」

サリームは椅子の背にもたれ、唇をゆがめた。怒りを抑えたとき、彼はいつもそうする。アミールの語りが、表面ではなくもっと奥底に届いている証だった。

「青年は、夢の中で毎晩、恋人と出会います。しかし、顔が見えない。声も聞こえない。ただ、花を踏む音だけが、いつも後ろからついてくるのです」

「その花は、なんだ」

サリームが低く問いかけた。

「…紅い花です。名も知らぬ、香りだけを残して崩れる花。踏めば香りが強まり、消える。まるで、命のように」

その瞬間、サリームの背に汗がにじんだ。記憶の奥に封じた光景が、唐突に開きかける。処刑場の朝、血の匂いに混じった果実の香り。ザイードが最後に香をまとっていた理由など、あのときは考えもしなかった。

「処刑の朝、青年は夢の中の恋人に告げます。“会えてよかった”と。そして恋人は、彼の目の前で指を一本差し出すのです。…“これが最後の罪だ”と」

アミールの声は、細く、しかし確かに空気を裂いた。彼は視線を上げなかった。ただその言葉だけで、王の喉元に刃を当てるように、確実に語り切った。

サリームは立ち上がりかけ、そして留まった。全身に張り巡らされた神経が、どこかで「それを認めてはならぬ」と告げていた。

アミールはそこで語りを終えた。

静寂が流れる。蝋燭の火がひとつ、はぜた。

「…つまらぬ話だった」

サリームはようやく言葉を吐き捨てた。だがその声には、明らかに苛立ちとは異なる、恐れにも似た不安が混じっていた。

「次はもっと愉しませろ。さもなくば、次の夜はない」

そう言って背を向けた王の足音に、アミールは静かに頭を下げた。

彼の瞳は、月の石のように、光を宿していた。

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