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沈黙の恋人

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-08-23 15:38:25

燻香が薄く立ち昇り、銀の砂時計の中で細かな粒が静かに落ち続けていた。時を告げる鐘は鳴らない。夜は、ただ闇と香りに溶けて、王の私室を覆っていた。

アミールは、再び跪いたまま静かに口を開く。

「今宵は…昨日語られた処刑囚が、かつて誰を愛したのか。その話を、お聞きいただけますか」

サリームは頷かない。ただ、うっすらと目を伏せ、椅子の肘掛けに腕を置いたまま、何も言わない。それは、許可だった。あるいは、容認以上の何か。

アミールは、燭火を背にして語りはじめた。

「青年はまだ、王都の外れに住むただの書記でした。昼は公文書に墨を落とし、夜は詩を写し取るような…人の影をまとわぬような生活をしておりました。ある日、ひとりの男が、風のように彼の前を通り過ぎました」

王のまぶたがわずかに揺れる。アミールはそれを見ない。

「男は言葉を持たぬ者でした。声を失ったのか、もとより話すことを知らぬのか、それすらもわかりません。ただ、目を合わせると、音もなく心を撫でるような何かがそこにあったのです」

「名は?」

サリームが唐突に問う。問いは低く、冷たい。

アミールはそっと首を横に振った。

「名前は、ありませんでした。青年は、彼をただ“恋人”と呼んでおりました。顔も、どこか曖昧なのです。目の色も、髪の色も…記憶の中では、いつも夢の中の霞がかかっておりました」

「ふざけているのか」

「いいえ。覚えていることよりも、覚えていないことのほうが、時に真実を語ることがあります」

その言葉に、王の指が一瞬止まる。肘掛けに置かれた手が、握りしめられることなく緩く丸まる。

「恋人は、いつも面をつけておりました。舞踏会のような仰々しい仮面ではありません。白い、無表情の面です。まるで、顔を奪われぬために…何かから守るように」

「なぜ、そんな者を愛した」

「沈黙の中にこそ、青年は自由を見たのです。言葉にされぬものの方が、時に心を深く抉ります」

言葉が静かに重なるたびに、室内の温度が下がるような錯覚を覚える。燻香はいつの間にか夢の花の香りに変わり、ざくろの甘さは影をひそめていた。

「彼らは、夜にしか会いませんでした。恋人は、夕暮れと共に現れ、夜明け前に去っていく。面を外すことは一度もなく、声を発することもなかった。それでも青年は、触れる指先と、重なる温度だけで…愛を知ったのです」

「愚かだな」

サリームはぽつりと呟いた。だがその声に混じっていたのは、侮蔑でもなく、ましてや優越でもなかった。もっと…遠い痛みだった。

「ある夜、恋人は来ませんでした。理由も、言葉も、何も残されずに」

「そして青年は…それからずっと、夜のたびに夢を見たのです。面をかぶった恋人が、自分の前で何かを言おうとして、唇を震わせる夢です。しかし音は届かず、ただ砂のようにこぼれ落ちてゆく」

アミールはそこまで語ると、少しだけ間を置いた。王の顔を見ようとはしない。ただ、指先を胸元に重ねて、まるで誰かの記憶を撫でるように、語りを継ぐ。

「青年は、何年も待ち続けました。恋人が戻ってくると信じて。けれど戻らぬまま、罪に問われ…牢に落とされたのです」

「その罪とは」

「“沈黙の者”と関わったこと。それ自体が、王命に背くことだった」

「…それで処刑か」

サリームは立ち上がる。だが足元の絨毯を蹴り飛ばすこともなく、ただ、少しだけ部屋の中を歩いた。背を向けたまま、顔を見せない。

アミールは伏せた視線の奥で、王の靴音を静かに数える。その足音に、彼はひとつの確信を持った。

「恋人は、もういません。ただ、青年の中で永遠に声を失ったまま、面の下で何かを告げようとし続けているだけです」

「その声は、王には届かない」

王の背がびくりと動いた。

「けれど、もしその声を聞こうとする者がいるならば。夢の中の沈黙も…真実を語ることがあるでしょう」

沈黙が落ちた。

砂時計の最後の一粒が、静かに底へ落ちる音が響く。王は背を向けたまま、その音を聞いていた。

やがて、何も言わずに扉を開け、外へと去っていった。

残されたアミールは、深く息を吐く。

その頬に、汗でも涙でもない、水のような何かが流れていた。

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