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沈黙の檻を破る

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-22 16:10:36

夜が深まるにつれ、王宮の廊下はしんと静まり返っていた。アミールは自室の窓辺に腰かけ、闇の底から湧き上がるような孤独に身を任せていた。窓の外には、かすかな月の光が中庭の石畳に模様を描いている。誰もいないはずの廊下から、時折風の音が微かに響いては消えた。

手元の鏡に、ぼんやりと自分の顔が映る。蝋燭の炎が揺れ、そのたび影も揺れる。鏡のなかの自分は、どこか他人のようだった。目の奥に宿る翳りも、口元に残る震えも、自分のものだと信じきれない。

ザイードの弟。王の語り部。代わりでしかなかった。

そう思い込むことで、ずっと何かを守ってきた気がしていた。だが、それが何だったのか、もううまく思い出せない。

王の寝顔や、苦しむ手首、夜ごとの対話が胸の奥で何度も反芻される。王が自分を見るたび、どこか遠い場所を見ている気がした。兄の影を通してしか見られていないのではないか。

それでも、王の苦しみを和らげたいと願う気持ちは消えなかった。

アミールは静かに目を閉じた。語り手として、王に物語を捧げてきた日々。

そのすべてが、兄の死に絡め取られていた。

「救いたい」と願うたび、自分が“誰かのための犠牲”でいることに安堵していたのかもしれない。語ることで自分を隠し、仮面のままで王のそばにいたかっただけなのかもしれない。

月の光が鏡の端に反射し、壁に淡い斑模様を落とす。

自分は何のために、王のそばにいたのか。何を伝えたいのか。

誰かの代理としてではなく、「アミール」として、ただひとりの自分として、王に何を届けられるのか。

部屋の片隅には、かつて兄が残した仮面が置かれていた。それは、彼がまだ生きていたころ使っていたものだ。

手に取ると、仮面の裏には古い汗の匂いが微かに残っていた。兄のものとして受け継ぎ、身につけていたはずのそれが、いまは異物のように感じられる。

王は、兄ではなく「自分」を見ているのか。自分は、兄の影のまま王を愛し続けるのか。

蝋燭の火が小さく揺れた。アミールはその炎を見つめ、静かに自分の胸に手を当てる。

これまでの沈黙は、語り手としての役割と、兄の代理としての自己犠牲が混ざり合っ
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