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階段を下りる者たち

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-09-21 16:10:07

神殿の奥に静けさが戻った。淡い光の帯が床を撫で、冷たい石の壁に溶けていく。サリームはしばしその場に立ち尽くし、胸に残る震えを押しとどめていた。バハールの姿はもう見えない。聖水の瓶だけが、床に仄かな銀色の影を落としていた。

アミールの横顔が、ほのかな光の中で浮かび上がっている。彼の瞳には涙の名残があった。けれど、その表情は不思議と澄んでいた。痛みと安堵が折り重なり、まるでひとつの物語の終わりと始まりが同時にそこにあるようだった。

サリームは深く息を吸い込む。過去は変えられない。だが、それを認めて生きていくことなら、今からでも始められるのではないか。自分の記憶が歪みを生み、愛を呪いへと変えてしまったのなら、今ここからもう一度、違う形で愛を選び直すことはできるのだろうか。

沈黙のまま、サリームはアミールに手を伸ばした。アミールは迷うことなく、その手を受け取る。二人の指が絡み合い、冷えた石の感触のなかに、微かな温もりが生まれる。

ゆっくりと階段を下り始める。祭壇の聖域から、石段を一段ずつ。昇ってきたときとは違う、わずかに軽くなった歩み。足元に朝焼けの色が差し込む。薄紅色の光が、ふたりの影を長く伸ばしていく。

階段を降りるたび、サリームの胸にひとつずつ新しい感情が芽生えていく。哀しみも、後悔も、安堵も、すべてが確かに自分のものだと受け止めることができる気がした。横を歩くアミールもまた、心のどこかに新たな灯りを抱えているようだった。

「…行こう」

サリームが呟く。アミールは小さくうなずき、ふたりの歩調は自然と重なる。門へと向かう途中、壁に刻まれた古い祈りの文字が淡く浮かび上がり、過ぎ去った夜を見送っている。

神殿の門が、朝の光を受けて静かに開く。外には広大な砂漠と、昇り始めた太陽が待っていた。朝焼けがすべてを照らし出し、砂の一粒一粒さえも色づいて見える。ふたりは門をくぐり抜け、まだ冷たさの残る砂の上に立った。

サリームは立ち止まり、アミールの手をもう一度しっかりと握り直す。その手はこれまでより少し強く、けれど優しかった。

「私は…あなたとここから始めたい」

声は微かに震えていたが、嘘はなかった

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