夜の深みが、ふたりを静かに包んでいた。
寝台の上で、アミールの身体がサリームの腕の中にある。蝋燭の灯はすでに尽き、窓の外から夜明け前のかすかな光が差し込む。重なり合ったふたつの影は、静かに、しかし確かにひとつになろうとしていた。サリームの指先が、アミールの頬をそっと撫でる。濡れたまつ毛に唇が触れる。アミールの身体は小さく震え、息が浅くなっていく。
「……怖いか」
サリームが低く問いかける。アミールは首を横に振り、微笑む。
「いいえ。あなたと一緒なら、何も怖くない」
その言葉に、サリームは少しだけ目を細めた。手のひらでアミールの髪を梳く。そのまま、ゆっくりと彼の唇を塞いだ。
アミールは素直に受け入れ、舌が触れ合うと、胸の奥にまで熱が流れ込んできた。夜明けが近づいているはずなのに、ふたりだけの世界には夜の静寂がまだ濃く残っている。アミールはサリームの背に腕を回し、指先で王の背骨の形を確かめる。
「……サリーム、触れて」
囁きはかすれ、熱を帯びていた。サリームはそれに応えるように、ゆっくりとアミールの肌を撫で、太腿から腰へ、背中を伝って愛撫する。触れ合うたび、互いの身体から湧き上がるものが溢れて、沈黙の檻が音を立てて崩れていく。
アミールは自分が泣いているのか、喘いでいるのかさえ分からなくなる。ただサリームの名前を、心の中で何度も繰り返す。
「見て、私を……あなたのものにして」
サリームは静かに頷き、ふたりの指を絡める。そのまま深く繋がり、アミールの中へと沈んでいく。
呼吸が乱れ、吐息と喘ぎが夜の静けさを震わせる。「アミール……」
その声は、もう決して兄の影をなぞるものではなかった。今ここにいる、アミールというただひとりの存在への呼びかけ。
アミールはその名を受け取り、涙を流しながらサリームにしがみつく。快楽と幸福がいっしょくたになって押し寄せ、思考が白く溶けていく。
「サリーム、もっと…&helli
夜の帳が静かに王宮を包み込む。宴の余韻も遠く、廊下の灯火がひとつずつ消えてゆくころ、アミールは自室に戻っていた。薄暗い部屋の奥、机の上には長いあいだ使い込んだ筆記具と、古びたインク壺が並んでいる。窓の外では、風が微かに壁を撫でていた。アミールは静かに椅子に腰を下ろす。しばし何もせず、指先でペンの軸を転がし、インク壺の蓋を開けては閉じる。その動作に、どこか名残惜しさが滲む。それは、兄の死以来ずっと自分と世界をつなぐ唯一の手段だった。語ること、記すこと、言葉にして誰かに捧げること。そのすべてが、彼自身の鎧であり、同時に檻だった。机の上には未完の物語が一枚だけ置かれている。まだ語られていない王の夜、書きかけの言葉が小さな光となって紙の上に残っていた。アミールはそれをじっと見つめ、ためらいがちに手を伸ばす。けれど、指先は紙の端に触れただけで、そっと離れた。深い沈黙が部屋を満たす。その静けさの中で、アミールは自分の呼吸だけを頼りに目を閉じる。「語らなくても、ここにいられるのだろうか」ふと、そんな問いが胸の内をかすめる。だがその問いは、不思議なほど恐ろしいものではなかった。むしろ、言葉も物語も必要としない“ただの自分”が、今この空間に確かに存在している気がした。沈黙がこんなにもあたたかく、柔らかいものなのだと、初めて知った夜だった。アミールはゆっくりとペンを箱にしまい、インク壺の蓋をしっかりと閉じる。仮面や古いノート、語り部である証の小さな品々も、一つ一つ手に取ってから、引き出しの奥にしまい込んだ。自分を語るために用いたすべての道具が、いまは静かに闇の中に沈んでいく。手放すことで、自分の中に小さな空洞が生まれる。それは喪失の痛みではなく、未知の自由の予感だった。窓を開けると、夜風がふわりと部屋に入り込む。インクの香りと夜の空気が交じり合い、胸の奥まで沁みてくる。遠く王宮の塔の上に、淡い星が瞬いていた。アミールはその光を見上げる。物語に頼らなくても、王と沈黙を分かち合い、同じ夜空を仰ぐことができる。それだけで、なぜか満たされていた。
宴の余韻が去り、王宮には深い静寂が戻っていた。広間には金色の燭台がいくつか残るのみで、人々のざわめきも、笑い声もすっかり消え失せている。石の床に残る香の残り香だけが、かすかに漂い続けていた。アミールは高窓から差し込む淡い光の下、ひとり広間に佇んでいた。壁に並ぶ絵皿や装飾の影が、静けさのなかでゆるやかに長く伸びている。宴のあいだ、彼は無意識のうちに“語り部”としての自分を探していたのだと気づいた。どこかで、誰かに語りかけることで自分の輪郭を保っていた。それが兄の名を背負って生きてきた証でもあり、王に寄り添うための役割でもあった。けれど今、アミールの胸に満ちているのは不思議な静けさだった。誰のためでもなく、誰かの代理でもない。ただ、ここに自分がいること。王宮という広大な空間の片隅で、たったひとりの自分として夜を迎えている。それだけで十分だった。静かな足音が、石の床をゆっくりと進む。宴のあとの廊下を、アミールは迷わず歩いた。王の気配は遠くにある。けれど、いつもなら後ろめたさと恐れに引き戻されていたはずのこの道も、今夜だけは特別だった。どこにも“語り”を求める声はない。ただ宮殿の光が、静かに彼の背を押してくれる。小さく吐息をつく。自分のためにここにいる。その決意が胸に宿るたび、足取りは少しずつ確かなものになっていく。「アミール」不意に、背後からサリームの声が響いた。振り返ると、王は広間の入口に静かに立っていた。宴の名残を纏いながら、どこか安堵したような顔でこちらを見ている。「どうした、こんなところで」アミールは微笑み、肩をすくめる。「静けさを感じていたかったのです。もう、誰かの物語を語らなくても、ここにいられる気がして」サリームはゆっくりと近づき、アミールの隣に並ぶ。ふたりの足音だけが、大きな空間に穏やかに響いた。「おまえがここにいるだけで、私は…安心する」王の声はいつになく素直で、心の奥底からの響きをもっていた。アミールはその言葉を静かに受け止める。役割や肩書きではなく、“今ここにいる自分”に
朝焼けが王宮の窓辺を淡い紅に染めていた。長い夜の余韻を残したまま、王の部屋には静けさが広がっている。アミールは椅子に腰かけ、窓から射し込む光に手を伸ばしていた。その掌の先に、サリームがそっと近づく。手紙を胸に抱いた王は、ゆっくりとアミールの前に腰を下ろした。「アミール」サリームは静かに語りかける。その声には、これまでのどの夜とも違う透明な響きがあった。「私は、ずっと恐れていた。愛すれば、必ず失われる。そう信じることで、自分自身を罰してきた。でも…」サリームは手のひらをそっと広げ、自分の手首を見つめる。そこにはまだ、淡く痣が残っていた。しかし、その痛みもどこか遠いものになっている。「ザイードが遺した言葉を、今夜ようやく受け入れられた気がする。私は私自身を、どこかで赦したかったのかもしれない」アミールは黙って耳を傾けていた。王の声が朝の空気に溶けていく。「呪いは、本当は私の内にあった。誰にも与えられてなどいなかった。私は“愛すれば死ぬ”と物語にして、自分を閉じ込めてきた」サリームはゆっくりとアミールの手を取る。ふたりの指が重なり、手の温もりが過去の冷たい影をゆっくりと溶かしていく。「私は、これからは違う物語を生きたい。“愛することで生き直す”物語を。君と一緒に、新しく歩き始めたい」アミールの胸が静かに震える。その震えは、喜びにも似ていた。「あなたがそう言ってくれて嬉しい」小さな声だったが、確かな決意が込められていた。窓の外では、朝焼けが宮殿の塔を赤く染めている。ふたりの影が床に並び、これまでのどんな夜よりも長く、温かな形を描いていた。「私の人生が物語であるなら、私は今日からその語り手になる」サリームはそう言って、アミールの目をまっすぐに見つめる。「君と共に語り、共に生きる物語を選び直したい」アミールは、そっと王の手を引き寄せ、軽く額を触れ合わせる。「私も、あなたと歩む新しい物語を生きていきたい」ふたりの間に、
夜が更け、王宮の空気がひときわ静まりかえる。アミールの語りが終わり、ふたりの間には穏やかな沈黙が流れていた。蝋燭の灯が小さく揺れ、サリームの頬に影を落としている。その横顔はどこか安らぎを帯びていたが、瞳の奥にまだ癒えぬ痛みの色が残っていた。サリームはふと、机の奥にしまい込んでいた小さな箱の存在を思い出す。長いあいだ開けることのなかった箱。その中には、かつてザイードから託された手紙が一通だけ、封も切られぬままに眠っていた。立ち上がると、サリームは無言で箱を手に取り、机の前に座り直した。アミールはそっと王の動きを見守っていた。その瞳には、静かな祈りのようなものが浮かんでいる。封蝋を剥がし、そっと手紙を取り出す。紙は時の重みに少し黄ばんでいる。インクの染みが、ザイードの震える手の跡を思わせた。ゆっくりと広げる。ザイードの筆跡が、王の名を優しく呼びかけている。「サリームへ」その一行だけで、胸の奥が熱くなる。サリームは指先を震わせながら、静かに文を追った。「私は、君を裏切ったことはない。君の前で何も語れなかったのは、恐れと、愛のせいだった。君がもしも私を赦してくれる日が来たなら、それだけで私は満たされるだろう。君が誰かを、再び心から愛し、生きる日が来ることを願っている。呪いなどどこにもない。ただ、君自身が君を許してほしい。私もまた、君を愛している。誰よりも深く」インクの染みが、いくつもの涙の跡のように広がっている。サリームは目の奥に熱いものがこみあげるのを抑えきれず、声もなく涙を流す。長いあいだ、手紙の存在ごと心の奥底に封じ込めていた感情。ザイードの言葉は、静かにサリームの胸の檻を開いていく。「赦してくれ…私は、君を守りたかっただけだった」つぶやくように、ザイードの手紙は続いている。「どうか、愛することを怖れないでほしい。私は君の生を望んでいる。君は君のために生きてほしい。…それが、私の最後の祈りです」涙がぽたりと手紙に落ち、インクの文字をかすかに滲ませる。サリームは手で顔を覆い、しばし声を殺して泣いた。アミールはそっとその背
日が沈みきらぬうちに、王の部屋には柔らかな薄明かりが満ちていた。絹のカーテンがゆっくりと風に揺れ、壁に淡い模様を投げかけている。サリームは椅子に腰を下ろし、窓辺に背を向けて静かに目を閉じていた。その横顔は朝よりも少し穏やかに見えたが、どこか不安げな影を引いている。アミールは王のそばにそっと歩み寄り、低く優しい声で語りはじめた。「あるところに、深い孤独を抱えた王がいました。その王は大切なものを何度も失い、そのたび心に傷を重ねて生きていました」サリームはその声を聞きながら、膝の上で両手を重ねる。アミールの語りが、空気を震わせるように部屋の中を満たしていく。「王のそばには、物語を語る者がいました。兄を亡くし、傷だらけの心を抱えながら、それでも王の痛みに寄り添おうとした語り部がいたのです」その語りは、かつて王とザイードが分かち合った夜の思い出に触れる。月明かりの下、神殿の階段、互いの手のぬくもり。サリームの記憶が、語られる物語とゆっくりと重なり合っていく。失ったと思い込んでいたもの、傷としか感じられなかったものが、少しずつ違う形で思い起こされていく。「その語り部は、兄の死を背負いながらも、王の孤独に自分の孤独を重ねていきました。やがて、兄の影から抜け出し、初めて自分の愛を王に捧げるようになったのです」サリームは目を開け、静かにアミールを見つめた。アミールの声は小さく、けれどひとつひとつの言葉が、王の胸の奥を震わせていく。「王は、ずっと呪いに囚われていました。けれど、それは外から与えられたものではありませんでした。王自身が選び、信じた物語。その物語こそが王を閉じ込めていたのです」窓から差し込む光が絹のカーテンを透かし、ふたりの影を床に溶かしていく。アミールはそっとサリームの手を取り、その上に自分の手を重ねた。「あなたが、どんな物語を選んだとしても、私はこうしてあなたの隣にいます。今夜、私はもう一度あなたの物語を語り直したい。新しい物語を、ふたりで生きていきたいのです」サリームはその手のぬくもりに、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。記憶にこびりついていた痛
薄明のなかで、王の寝室には静寂が広がっていた。夜明けの光が厚いカーテンの隙間から差し込み、床に淡い帯を描く。サリームは寝台の端に座り、左の手首を見つめていた。赤黒い痣は、夜の熱とともに少し色を薄めている。それでも、触れるとまだそこに痛みが残っていた。アミールは静かに目覚め、寝台の端から王の背中を見守っていた。ふたりの間に交わされた言葉、ぬくもり、涙と喘ぎの名残が、まだ身体の奥に静かに残響している。けれど、今朝の王の背はどこか遠く、窓から差し込む光に溶けかけているように見えた。サリームはそっと痣を指でなぞる。「これは、いつまで私に残り続けるのだろうか」小さく呟く。答えは求めていない。ただ、朝の静けさが自分の声を吸い込んでいくのを感じていた。ザイードの死。あの夜の光景が、今も鮮明に脳裏に焼きついている。血の気配、祈りの声、抱きしめたまま冷えていく身体。サリームはまるで水の底に沈められたような圧迫感を覚えながら、そのすべてが自分の罪であり、罰であると信じてきた。アミールがゆっくりと身を起こし、寝台から降りる。裸足の足が床に触れる音が微かに響く。王の後ろ姿を見つめながら、何を言うべきか、何も言わないべきかを迷っていた。サリームは手首を膝の上に置き、もう一度痣を見つめる。「これは呪いだ。愛すれば、また誰かを失う」その囁きに、アミールは静かに近づき、王の横にそっと座る。ふたりの影が朝の光の帯のなかで重なり合う。「本当に、それは呪いなのでしょうか」アミールはゆっくりと尋ねる。サリームは驚いたようにアミールを見つめ、そしてすぐに視線を落とす。痣の上に浮かんだ朝の光が、まるで水面のように揺れていた。「私は、ずっとあなたの苦しみを見てきました。でも、昨夜…あなたと触れ合って、私もまた、自分が何に縛られてきたのかを考えました」アミールの声は静かだった。サリームは黙って聞いている。鏡の中に映る自分の顔を思い浮かべる。記憶のなかで何度も同じ問いを繰り返し、そのたびに答えを恐れてきた。「私は、あなたを守れなかった自分を赦せていない。ザイードも、君も、私が愛すれば