LOGINその声はひどくしゃがれ、誰なのか聞き分けることすらできなかった。私は立ち止まり、目の前を遮るその男を見つめた。拓海だった。彼は薄っぺらい黒のスーツを着ていたが、すでに雨でずぶ濡れになっており、ガリガリに痩せ細った体に張り付いていた。その手には、すっかり枯れ果てたシャンパンローズの花束が握りしめられていた。目は深く落ちくぼみ、血走った両眼で狂ったように私を見つめていた。彼の視線が私の腰を抱く蒼汰の手に落ちた瞬間、彼は全身を硬直させ、次の瞬間、獣のように飛びかかって私の手を掴もうとした。「澪、一緒に家に帰ろう!俺が悪かった!俺は結月を刑務所に送ったんだ!あの時のお揃いの品物だって全部燃やした!」蒼汰の目がスッと冷たくなり、半歩前に出て私を自分の背後にしっかりと隠した。そして片手で拓海の腕を掴み、力強く突き飛ばした。ただでさえ衰弱しきっていた拓海は突き飛ばされた勢いで水たまりの中に尻餅をついた。かつて彼が何よりもこだわっていた高価なスーツが泥にまみれたが、彼は全く気にする様子もなく、ただ這い上がり、私の目の前でドサリと土下座した。「澪、頼む……もう一度だけ、俺にチャンスをくれ」拓海は雨の中で声を上げて泣き崩れ、石畳に思い切り額を打ち付けた。ゴツン、ゴツンと重い音が響いた。「俺は毎日、お前のことばかり考えている。失ったあの子のことだって……俺は会社の権利も全部お前に譲る。他には何もいらない、ただ家に帰ってきてほしいんだ!これからは、俺と君だけの家だ。俺の愛も全部お前に捧げる。もう誰とも分け合ったりしないから。だから、頼む……」傘の下に立つ私の体は少しも濡れることなく、さらりとあたたかかった。地面で泥まみれになっている拓海を見下ろしながら、私は静かにしゃがみ込み、1歩の距離を保ったまま彼を見つめた。「拓海。あの台風の夜、あなたが私に押し付けてきた、あのコーヒーのことを覚えてる?」拓海はハッとし、呆然と私を見つめ、必死に首を縦に振った。「覚えてる!覚えてるよ!これから毎日、コーヒーを作って……」「あのコーヒー、私は一口も飲まなかったわ」私は彼の目を真っ直ぐに見据え、はっきりと告げた。「だって、吐き気がしたから。あなたは、結月を泥沼に引きずり下ろしたことで、私を特別
大使館でのパーティーが終わった翌日。国内のゴシップニュースが、大学の同窓生のグループLINEを通じて私のスマホに届いた。結月は完全に破滅したそうだ。拓海はギャラリーへの出資を引き上げただけではなく、彼女が過去に行った書類の偽造、学歴の詐称、さらには横領の証拠まですべてを警察に突き出したらしい。3000万円の借金と莫大な違約金を背負わされ、結月はブランドバッグやジュエリーをすべて売り払う羽目になった。借金取りから逃れるため、彼女は今、老朽化したアパートのじめじめとした地下室に身を潜めているらしい。昨日、再び台風が直撃し、その地下室はまたしても下水が逆流した。結月は泣き叫びながら拓海の会社に駆け込み、ロビーで土下座して助けを求めたらしい。「あんな張り合うような真似をしてごめんなさい!お願いだから、幼馴染の情に免じて助けてください!」拓海は、鉄のパイプを片手に警備室からゆっくりと姿を現した。彼は全社員の目の前で自分に手を伸ばしてきた結月の指先を鉄パイプで容赦なく打ち砕いたそうだ。「幼馴染の情だと?」拓海は狂人のように笑い声を上げたという。「お前が5つ星ホテルでコーヒーを飲んでる間に、澪は泥水の中を歩かされて死にかけていたんだぞ!お前が今まだ息をしているのは、許されたからじゃない。俺の子供への償いとして、お前が地獄を味わうためだ!」彼は結月を警察に突き出し、さらにこう宣言した。「誰であれ、結月に1円でも金を貸した奴は、この周防拓海が地の果てまで追い詰めて潰す」グループLINEでは、拓海が完全に狂ってしまった、まるで生きた閻魔大王のようだと誰もがそう言っていた。ある同級生からメッセージが届いた。「ねえ、澪さん。拓海さんが今、SNSであなたたちが結婚したばかりの頃の写真を毎日何十枚もアップし続けてるのよ。本当にかわいそうに……一度くらい戻ってきて彼に会ってあげたら?」私はその同級生が送ってきた拓海のSNSのスクリーンショットを開いた。最新の投稿は、エコー写真を手に持ち、誰一人いないベビーベッドの前に座り込む拓海の姿だった。添えられた文章はこうだ。【赤ちゃん、パパは今日、君とママにお揃いの小さなベッドを買ったよ。いつになったら、帰ってきてくれるんだい?】写真の中の拓海は
半月後。メルボルンの午後は、あたたかな日差しに満たされていた。私は川沿いのオープンテラスのカフェに座り、温かいオーツミルクラテが入ったカップを両手で包み込んでいた。流産で傷ついた体はまだ完全には癒えていない。だが、拓海と同じ空気を吸わずに済むというだけで、体が静かに浄化されていくような心地よさがあった。「ここは風が強いね。膝が冷えてしまうから、これを掛けておきなさい」カシミヤのブランケットが、そっと私の膝の上に掛けられた。藤原蒼汰(ふじわら そうた)が向かいの席に座り、風で乱れた私の髪を自然な手つきで耳にかけてくれた。彼は国内トップクラスの法律事務所の弁護士であり、私の大学時代の先輩でもある。今回の離婚に関するすべての手続きを彼が取り仕切ってくれたのだ。「離婚の手続きはほぼ片付いたよ」蒼汰はブリーフケースから財産分与の確認書を取り出した。「周防さんは市役所の前で君を3日間待ち続けていたらしい。最後は俺が君の離婚届を持って行って手続きを済ませたよ。書類にサインする時、彼の手が震えて自分の名前すらまともに書けてなかった。ずっと、君がどこに行ったのかって俺に聞き続けてたよ」私はコーヒーを一口すすり、淡々と告げた。「……財産は全部放棄するって言ったはずだけど?」「放棄するのは君の自由だ。でも、弁護士として、君に損をさせるわけにはいかない」蒼汰の瞳の奥に甘やかすような愛おしさと強引な光が一瞬よぎった。「俺は彼の個人名義になっている都心の一等地の高級マンション3つと会社の株式の15%をすべて君の名義にさせた。それは彼が君に支払うべき慰謝料だ。たとえ君がそのお金を全額どこかに寄付しようとも、彼からはしっかりむしり取らなきゃいけないんだよ」私は蒼汰の真剣な横顔を見て、思わずふっと笑ってしまった。私が病院に入院したあの日、蒼汰が病室に駆けつけてきて以来、彼はほとんど片時も離れずに私の世話を焼いてくれた。彼は私がパクチーを食べられないことや、45度の白湯しか飲まないことをすべて覚えていた。病室に飾る花束を一つ買うにしても、花屋で適当に見繕ったありきたりなものではなく、私が一番好きなデイジーを探して街中を走り回ってくれた。ある時、私は無意識に彼に聞いてしまったことがある。「
夜の9時、拓海は狂ったように家中のものをひっくり返していた。彼は結月の服、化粧品、そしてあのハイヒールに至るまで、すべての私物を玄関の外の廊下に放り投げた。結月は泣き叫びながら玄関のドアを叩いたが、拓海が呼んだ警備員によって強引につまみ出された。部屋はようやく静かになった。拓海はゲストルームに入った。かつて私が使っていた私物をまとめて病院へ届け、私の機嫌を取ろうと考えたのだろう。だが、クローゼットを開けた瞬間、彼はその場に釘付けになった。クローゼットの右側半分は空っぽだった。そして左側半分には、彼がこの5年間、「公平」と称して私に買い与えてきたすべての服が綺麗にハンガーに掛けられていた。数十万円もするジャケットから、数万円のスカーフ、そしてタグすら切られていない限定モデルのバッグまで、すべてが手つかずのまま残されていた。ドレッサーの引き出しの中には、12個のジュエリーボックスが整然と並べられていた。中に入っているのはすべて、彼が「公平」のために結月にジュエリーを買うついでに私に買い与えたものだった。私が普段から身につけていたのは、自分で稼いだお金で買った数千円のジーンズと、結婚した時に買った数万円のシンプルな結婚指輪だけだった。その結婚指輪は今、ドレッサーのど真ん中に置かれた離婚協議書のコピーの上に置かれている。拓海の喉の奥から得体の知れない血の味が込み上げてきた。彼はここでようやく思い知らされたのだ。私が言った「要らない」ということは、決して単なる意地を張ったわけではなく、何年もかけて積み重なった完全なる決別の意志なのだと。半分に分けられた愛なんて、私には要らない。だからこそ、私は彼から与えられたものすべてをそっくりそのまま突き返したのだ。拓海は目を赤く血走らせ、狂ったようにアシスタントに電話をかけた。「調べろ!あの台風の夜、結月が一体どこにいたのか、徹底的に調べ上げろ!」30分後、アシスタントから防犯カメラの映像と位置情報のGPSデータが送られてきた。映像の中の結月は、台風が上陸したあの日の午後、下水が逆流した古いアパートの屋上などにいなかった。彼女は拓海の会社の向かいにある5つ星ホテルのラウンジで、優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいたのだ。外の浸水がひどくなってい
私は看護師の手からスマホを取り返し、そのまま通話を切って、その番号も着信拒否に設定した。スマホを裏返してナイトテーブルに置き、私は目を閉じて布団を肩まで引き上げた。午後3時、病室のドアが乱暴に開けられた。ずぶ濡れの拓海がドアの前に立っていた。スーツのジャケットは歪んで着崩れ、その目は真っ赤に血走っていた。彼は激しく肩で息をしており、4人部屋の病室の中を狂ったように見回した。一番奥のベッドに寄りかかり、シーツよりも真っ白な顔をした私を見つけた瞬間、彼は全身の力が抜けたようによろめきながらこちらへ駆け寄ってきた。「澪……」彼が手を伸ばして私の頬に触れようとしたが、私の手の甲に残る痛々しい注射の跡を見た瞬間、その手がピタリと止まった。「医者が言ってたことは……本当なのか?お前、本当に……妊娠してたのか?」私はベッドの奥へと身を引き、彼の手に触れるのを避け、見知らぬ人を見るような冷たい視線を向けた。「手術の同意書なら、その引き出しの中よ。私が嘘をついてると思うなら、産婦人科に行ってカルテでも確認して行けば?」拓海は震える手で引き出しを開けた。そこには血のついた同意書が置かれていた。「流産」、「出血性ショック」、「緊急子宮内容除去術」……そこに書かれた文字を目にした瞬間、頭を殴られたような衝撃が彼を襲った。「なぜだ……なぜ、もっと早く言ってくれなかったんだ?」彼はドサリとベッドの脇に膝をつき、私の布団の端を握りしめ、絶望に満ちた嗚咽を漏らした。「もし、妊娠しているって知ってたら、俺が迎えに行かないわけないだろう?お前一人で、あんな水浸しの道を何キロも歩かせるわけないだろう!?」「拓海、私はあの日、あなたに3回も電話したわ」彼の濡れそぼった髪から床へと滴り落ちる雨水を見つめながら、私は淡々と告げた。「1回目、あなたは結月が雷を怖がってるから構っていられないと言った。2回目、あなたは私が気を引くために仮病を使っている、ワガママだって言った。3回目、台風の中で結月とホテルのディナーを楽しみながら、私にデリバリーを食べて部屋を掃除しろと言い放った」拓海の顔色は一瞬にして土気色になり、唇は激しく震え、一言も発することができなかった。彼は突然手を振り上げ、自分自身の頬を容赦なく2度
手術が終わってから4時間後、私はベッドの背もたれに体を預けながら、あらかじめ用意しておいた離婚協議書を拓海に送信した。財産分与で揉めるつもりはない。私は、自分名義の給与口座のキャッシュカード1枚だけを持っていくつもりだ。彼が「公平」と称して私に押し付けてきた、お揃いのブランド品なんて要らなかった。メッセージを送信してわずか30秒後、拓海から電話がかかってきた。「澪、お前、いい加減にしろよ!」その声には苛立ちと皮肉がにじみ出ていた。「救急車なんか呼んで、あてつけがましく大騒ぎした挙句、住人たちに俺たちを笑い者にしようって魂胆か?今度は離婚協議書だと?一体どこで何やってるんだよ!」点滴のボトルからぽたりと落ちる雫を見つめながら、私は淡々と答えた。「拓海、離婚協議書はメールで送ったわ。プリントアウトしてサインしておいて、来週の月曜、朝9時に市役所の前で会いましょう」「離婚を盾に取れば俺が慌てて機嫌を取るとでも思ってんのか!」電話の向こうで、拓海が声を荒げた。「結月はうちで少し雨宿りしただけだろう。お前が不機嫌そうにしてたから、わざわざ外に泊まりに行ってくれたんだぞ。それなのにまだ騒ぎ立てる気か?さっきお袋からも連絡があったぞ、いつも通りにお袋の薬を届けに行かなかったそうだな?お前、妻としての最低限の役割すら果たす気がないのか?澪、よく聞いておけ!音信不通にすれば俺が焦って謝ってくるなんて、そんな甘い考えは今すぐ捨てろ」電話の向こうから、車のエンジン音とワイパーの音が聞こえてきた。「さっき花屋の前を通ったから、シャンパンローズの花束を買ってやった。結月がギャラリーに採用されたお祝いに買ってやったのとまったく同じものだ。ついでに、結月と全くお揃いのネックレスも注文しておいてやったぞ。だから、少しでも頭が冷えたら、大人しく家に帰って結月に謝れ。そうすれば、この件は水に流してやる。それが嫌なら、そのまま外で野垂れ死ね!二度と俺に泣きついてくるな!」彼の独りよがりな言葉を聞いて、私は心の底から呆れ果てた。「拓海、そのネックレスは結月にでもあげて、日替わりで着けさせれば?私はもう、そんなもの要らないから。それから、これからはお義母さんへの薬も、その優しい幼馴染にでも