LOGIN結婚して5年。子どもは作らないと決めた星山和葉(ほしやま かずは)と星山暁人(ほしやま あきと)は、穏やかで満ち足りた日々を重ねてきた。 あの日、暁人から1本の電話がかかってくるまでは。 暁人が学費を援助してきた苦学生の菅沢舞来(すがさわ まき)が、身ごもったのだという。 暁人が使った避妊具から、ひそかに中身を採取したらしい。 「彼女とは、一度だって関係を持ったことはない。 本当は、堕ろさせるつもりだったんだ」 けれど実家の者たちは、死をほのめかしてまでその子を産ませろと譲らないのだという。 和葉は涙をにじませながら、その残酷な事実を受け入れた。 だが、その日を境に、何もかもが変わり始めた。
View More和葉がその知らせを受けたときには、暁人はすでに病院をあとにしていた。看護師によると、まだ回復しきっていないのに、自分から退院してしまったという。帰国したらしい。和葉は気に留めなかった。言うべきことはすべて言ったし、やるべきこともすべてやった。誰に対しても、後ろめたいことは何ひとつない。病院を出て家に帰ると、とたんに温かな腕の中へ引き寄せられた。「また病院に行ってたんだ?」正式に恋人になってからというもの、悠真はこっそりやきもちを焼くようになっていた。和葉は少し可笑しくなった。恋をすると、どうしてこんなに子どもっぽくなる人がいるのだろう。拗ねている彼を軽く抱きしめて、説明する。「退院の手続きのことで行ってきただけ。暁人はもう帰ったわ。二度と来ないから、安心して」悠真はようやく満足げにうなずいた。「とっくに帰るべきだったんだよ。和葉ってさ、優しすぎる。病院になんか運ばず、外で倒れたまま放っておけばよかったのに」「たとえ知らない人でも、死にそうな人を見殺しにはできない。それだけよ」和葉は悠真に軽くキスをして、それから2階に目をやった。「お父さんとお母さんは?姿が見えないけど」悠真が不自然に目を逸らした。和葉はすぐに何かを察し、彼の頬をつまんで詰め寄った。「早く言って。ふたりはどこ?私に内緒で、みんなで何をしたの?」「わかった、わかった、言うよ!」悠真は降参した。「おじさんとおばさんが、僕たちに任せてたらいつまでも結婚できそうにないって……それで、うちの親に婚約の話をしに行ったんだ……あっ、和葉!」言い終わらないうちに、和葉は家を飛び出していた。両親がまさか、自分に何の相談もなしに行ってしまうなんて。悠真の両親が、自分のことをよく思っていなかったらどうするのだろう。それに自分は、子どもを産めない体なのだ。そんな重大な事情を抱えたまま、軽々しく婚約の話なんてできるはずがない。気が気ではなかった。両親に連絡する間もなく、和葉はそのまま悠真の実家へ駆けつけた。執事から、皆さん書斎にいらっしゃいますと聞き、2階へ上がる。ドアを開けようとしたそのとき、中から声が聞こえてきた。「和葉さんが妊娠できない?ええ、知ってますよ。そんなこと問題ありません。若いふたりが愛し合っていれば、それでいいんです。もし
次に目を覚ますと、そこは病院の病室だった。はっと身を起こした暁人の目の前に、和葉がいた。まるで夢のようだった。本物なのか、それとも自分の都合のいい妄想なのか、手を伸ばして確かめることさえ怖かった。暁人は目を赤くして、息を呑みながら言った。「和葉……やっと、会ってくれたんだな……」和葉は小さくうなずいた。「まだ俺のことを想ってくれてるのか?まだ怒ってるのか?本当に俺が悪かった!もう、許してくれ。もう一度だけチャンスをくれないか?もう何もいらない。舞来も、子どもも。お前さえいてくれればそれでいいんだ。和葉、和葉……」その声はひどく涙にかすれていて、今にも泣き出しそうだった。彼女の答えを、彼女の愛を、暁人は血を吐くような思いで渇望していた。けれど和葉は、最初から最後まで表情ひとつ変えなかった。見知らぬ他人を見るような冷たい目で、彼を見ていた。暁人の心臓は、動揺のあまり胸から飛び出しそうだった。いっそ本当に飛び出してくれればいいと思った。そうすれば、どれほど彼女を愛しているか、彼女なしでは生きていけないことを、和葉にわかってもらえるのに。あれほど長い間、深く愛し合ってきたのだ。どうして自分を捨てられるのか。和葉がひと言も発しないまま残酷に時間が過ぎ、暁人はとうとう崩れ落ちた。声を上げて泣きながら訴える。「和葉、俺を恨んでるのか!舞来の子どもも残さなかった。舞来にも、したことの代償を払わせた。両親だって、これからは本家から出られない。もう二度と俺たちに口出しはさせない。和葉、許してくれ、頼むから許してくれ!」悔恨に満ちた謝罪の言葉を、彼は数えきれないほど繰り返した。それでも和葉は、ずっと冷ややかに彼を見つめているだけだった。最後に、ようやく彼女は唇を開いた。「私を傷つけてきたのは、いつだってあなただった。暁人、私はもうあなたを愛してない。今は、もっと幸せな暮らしがあるの。もう二度と、私の前に現れないで」そう言うと、和葉はまっすぐに背を向けて去っていこうとした。嫌だ!行かないでくれ!暁人は弾かれたように跳ね起きた。その手は、虚空を掴んだまま震えていた。まるで、手の中から何かが決定的にこぼれ落ちていったかのように。さっきのは、夢だったのだ。暁人は怯えるように、そっと手を下ろした。だが次の瞬間、枕元に1
「彼が誰か、知りたい?」和葉は暁人の目をまっすぐに見つめた。暁人がすがるようにうなずく。次の瞬間、和葉は悠真の後頭部をぐっと引き寄せ、背伸びをして迷いなく唇を重ねた。「今は、私の恋人よ」目を見開いたのは暁人だけではなかった。愛する女がほかの男と口づけるのを、胸を抉られるような思いで見つめる暁人の傍らで、悠真もまた驚いていた。けれど彼はすぐに我に返り、片手で和葉の細い腰を抱き寄せると、より深く、より熱いキスで応えた。何か月も想いを伝え続けてきた答えが、まさか今日この場でもらえるとは思っていなかった。まるで空から宝物が降ってきたような気分で、このまま和葉を自分の中に閉じ込めてしまいたいほど、愛しさが込み上げた。すぐそばに人がいることも構わず、悠真は和葉をきつく抱きしめ、彼女が息もできなくなるまで唇を離さなかった。名残惜しそうに、ようやく顔を離す。和葉は小さく息をついた。赤くなった唇には、まだキスの余韻が残っていた。「……これでわかったでしょう。もう、会いに来ないで」その光景に、暁人の心は今にも砕け散りそうだった。信じられないというように何度も首を振る。「嘘だ!それは俺を遠ざけるための芝居なんだろう!?俺を追い返したいだけなんだ。和葉、俺は帰らない。もう一度俺の気持ちを証明してみせるから!」「好きにすれば。そこをどいて」これ以上、彼と意味のない言葉を交わすつもりはなかった。和葉は悠真の手を引き、立ちふさがる男の横を冷たくすり抜けて、家の中へ戻っていった。その扉が、暁人に向かって開かれることは二度となかった。外に立ち尽くす彼の耳に届くのは、家の中の楽しげな声だけだった。「今夜は悠真くん、泊まっていくの?まあ、嬉しいわ」一実が弾んだ声で支度を始める。「うん、ゲストルームの用意は家政婦さんに頼むから、お母さんはゆっくりしてて」和葉の声には、少し困ったような、でもまんざらでもない響きがあった。さっき暁人に向けた氷のような冷たさは、ひとかけらもない。「今夜は雨が降りそうですね。洗濯物、取り込むのを手伝いますよ」晴れて恋人の座を手に入れた悠真は、やけに張り切っていて、家族みんなの笑いを誘った。和やかな笑い声が響く家の外で、暁人はひとり立ち尽くしていた。ほどなくして、予想どおり激しい雨が降り出し
和葉は、悠真とつないでいた手を静かに離した。外にいるうちに、母親から電話で知らされていた。暁人がずっと家の前で自分を待っている、と。それを聞いた悠真は、今日は自分の家に避難したらどうかと言ってくれた。けれど、和葉はすべて断った。後ろめたいことをしたのは自分ではない。逃げ隠れする理由などなかった。同じように、悠真に想いを寄せられていることも、暁人に隠すつもりはなかった。自分が何をしようと、もう暁人に口を出す資格はないのだから。和葉は、目の前の男を冷ややかに見つめた。「彼が誰であろうと、あなたには関係ないわ」その瞬間、暁人の胸を無数の針で刺されたような痛みが走った。機内で数えきれないほどの感動的な再会を思い描いていた。けれど、再び会えた和葉がこんなにも冷たく、しかも隣に新しい誰かがいるなんて、想像もしていなかった。息苦しさが四方八方から押し寄せ、首を締め上げてくる。このまま絞め殺されそうだった。その冷たい瞳を長いこと見つめたあと、暁人はようやく声を取り戻した。「……和葉、怒ってるのはわかってる。俺が間違ってた。舞来のことも、両親のことも、全部片をつけた。一緒に帰ろう。もう一度結婚しよう。二度とお前を傷つけたりしないから」震えながら、暁人は手を伸ばした。和葉はそれを避けた。「私たち、もう離婚したのよ、暁人」ひどく冷ややかな声だった。「してない!」暁人は叫んだ。「あれは偽物だ。本気で別れようなんて一度も思ってなかったんだ。和葉、本当に俺が悪かった。償う機会をくれないか?約束する。もう二度と、お前を悲しませるようなことはしない!」叫ぶ暁人の目には、後悔と絶望が渦巻いていた。けれど、和葉は何の反応も見せなかった。ただ静かにうなずいた。「わかった。でも、私はあなたを許さない。もう帰って、暁人」かつて、彼女の言葉にはいつもあふれるほどの愛がこもっていた。それが今は、もうどこにも感じられない。暁人はうろたえ、すがるように和葉を見た。「和葉、すまなかった。俺が悪かった。子どもがほしいばかりに、ずっとお前をないがしろにしてた。お前を信じなきゃいけなかったのに……許してくれないか?」和葉の態度は変わらなかった。恨みもなければ、喜びもない。「わかった。でも、もうどうでもいいの」暁人の心が沈んだ。鋭い刃