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灰になった妻は、遠い空の下で新しい愛を知る

灰になった妻は、遠い空の下で新しい愛を知る

By:  朱音Completed
Language: Japanese
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結婚して5年。子どもは作らないと決めた星山和葉(ほしやま かずは)と星山暁人(ほしやま あきと)は、穏やかで満ち足りた日々を重ねてきた。 あの日、暁人から1本の電話がかかってくるまでは。 暁人が学費を援助してきた苦学生の菅沢舞来(すがさわ まき)が、身ごもったのだという。 暁人が使った避妊具から、ひそかに中身を採取したらしい。 「彼女とは、一度だって関係を持ったことはない。 本当は、堕ろさせるつもりだったんだ」 けれど実家の者たちは、死をほのめかしてまでその子を産ませろと譲らないのだという。 和葉は涙をにじませながら、その残酷な事実を受け入れた。 だが、その日を境に、何もかもが変わり始めた。

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Chapter 1

第1話

子どもは好きじゃないと言っていたはずの暁人が、妊娠や出産の本を熱心に読み込み、舞来の妊婦健診には毎回付き添って、ベビールームまで心を込めて整えるようになった。

そして火事が起きたあの日も。暁人は迷うことなく舞来を抱き上げ、炎の中を駆け抜けていった。

「暁人――ッ!」

和葉はかすれた声で夫の名を叫んだ。けれどその声は、燃え盛る炎の轟音にかき消されていく。

「助けて……私、ここにいるの……」

暁人の足が、一瞬止まったように見えた。立ち込める黒煙の向こうで視線が交錯し、その瞳に明らかな躊躇いがよぎるのを、和葉は確かに見た。

だが次の瞬間、舞来が彼の手をぎゅっと握りしめた。

「星山社長、早く外に出ましょう?私、怖くて……」

「大丈夫だ」

暁人の声は、残酷なほど優しかった。

「俺がついてる。家族3人で、必ず無事に出られる」

家族3人。

その一言が鋭い刃となって、和葉の胸を深々と貫いた。

暁人が舞来をかばいながら玄関へ走り出したそのとき、燃えさかる梁がまた1本崩れ落ち、今度は和葉の背中を直撃した。

薄れゆく意識の中、彼女の脳裏をよぎったのは、5年前の事故だった。

ひどい雨の日だった。レストランを出たばかりのふたりに向かって、制御を失ったトラックが歩道へ突っ込んできた。和葉はほとんど本能で、暁人を突き飛ばしていた。

下腹部から全身へと激痛が広がり、暁人が喉も裂けんばかりに自分の名を呼ぶ悲痛な声が聞こえた。

目を覚ますと、医師から冷酷な宣告をされた。子宮の損傷がひどく、もう一生妊娠は望めない、と。

「別れよう」

退院の日、和葉は目を赤くして暁人に告げた。

「あなたは星山家の一人息子でしょう。跡継ぎが必要なはずよ」

あのとき、暁人はなんと答えたのだったか。

彼は和葉を病室の壁に押しつけ、息もできないほど激しく口づけた。

「和葉、俺はお前だけでいい!子どもがいないなら、ふたりで生きていけばいい!家のことは俺がなんとかする」

一族を説き伏せるため、暁人は本家の仏間で一昼夜正座を続け、家のしきたりに従って数えきれないほど竹刀で背中を打たれた。

母親は泣きながら嘆き、父親は怒りに任せて湯呑みを3つも叩き割った。

最後には祖父が深々とため息をつき、好きにしろと折れたのだった。

熱風の中、結婚式の日の光景がよみがえる。ベールを上げた暁人の目は、真っ赤に潤んでいた。

「和葉、俺が生涯愛するのはお前ひとりだ」

それなのに今、暁人は別の女を抱きかかえて「家族3人」と口にしている。

炎が、和葉の最後の意識を完全にのみ込んでいった。

わかった。それなら今度こそ、あなたたち「家族3人」の望みを、完全に叶えてあげる。

次に目を開けたとき、視界に映ったのは無機質な白い天井だった。

「……和葉、目が覚めたか」

すぐ横から暁人の声がした。顔を向けると、血走った目と深く寄せられた眉が見えた。

「まだ痛むか……?」

張り詰めた声でそう言いながら、暁人はそっと和葉の頬に触れた。

「軽いやけどと脳震盪だそうだ。でも心配いらない。フロアごと貸し切って、最高の医療チームを呼んである。絶対に傷跡など残させない……」

気遣うようなその眼差しを見つめているうちに、和葉はふと可笑しくなった。

火の海の中で迷わず「家族3人」を選んだ男が、今さら何を愛情深いふりをしているのだろう。

口を開くと、喉が焼けつくように痛んだ。

「暁人、私たち、離……」

「和葉」

暁人が不意に言葉を遮り、1枚の書類を差し出した。

「俺たち、離婚しよう」

和葉の全身がこわばった。

自分から切り出すつもりだったのに、まさか彼に先を越されるとは思ってもいなかった。

「といっても、あくまで一時的なものだ」

あらかじめ用意していたかのように、暁人は早口で続けた。

「舞来はあと1か月で出産する。生まれてくる子を嫡出子として届け出るには、実の両親が籍を入れていないといけないんだ。子どもが生まれたら、彼女とはすぐ離婚する。そうしたら俺たちはまた……」

「再婚するって?」

和葉は静かに言葉を返した。見えない手に、心臓をきつく握りつぶされるようだった。

「その通りだ!」

ほっとしたように、暁人の目が輝いた。

「彼女とはもう話がついてる。産んだら金を受け取って出ていく約束だ。子どもは……これから俺たちの子として育てよう。な?」

動き続ける彼の唇を見つめながら、和葉の体は芯から冷えていった。

「和葉?」

暁人が急かす。

「早くサインしてくれ。弁護士が手続きを待ってるんだ」

ペンを受け取る指先が震えた。

ペン先が紙に触れた瞬間、ひと粒の涙が「離婚」の二文字の上に落ち、じわりと滲んでいった。

暁人は気づかなかったらしい。

サインを済ませた書類をしまうと、身をかがめて額に口づけようとした。和葉は顔を背けてそれを避けた。

彼の動きが一瞬止まる。けれど何事もなかったように身を起こし、「和葉、もう少しだけ待っててくれ」とだけ言った。

ドアの閉まる音はごく小さかったのに、重い槌のように和葉の胸を打ちのめした。

待つ?

いや……もう、待つつもりなんてない。

和葉は点滴の針を引き抜き、痛む体を引きずって退院の手続きへ向かった。

産婦人科病棟の前を通りかかったとき、暁人の声が聞こえてきた。

「ゆっくりな。段差に気をつけて」

聞き慣れないほど優しい声だった。

「赤ちゃんは順調に育ってるって、先生も言ってたぞ」

「星山社長、ほら、聞いてみて……」

舞来の弾んだ声が続く。

「今、お腹を蹴ったんです!」

「どれどれ」

暁人の声には笑みがにじんでいた。

「こんなに元気なら、きっと丈夫な子になるな」

「もう名前まで考えてるんですか?」

「もちろん」

暁人は穏やかに言った。

「いくつか候補はあるよ。顔を見てから決めたいと思ってる」

和葉は冷たい壁にもたれかかり、爪が食い込むほど手のひらを強く握りしめた。

5年前のあの雨の夜を思い出す。全身ずぶ濡れで和葉の家の前に立ち尽くした暁人は、血がにじみそうなほど目を赤くしていた。

「和葉、子どもができないならそれでいい。俺はお前さえいればいいんだ!

本当だ。子どもなんて好きじゃない」

それが今、暁人は別の女の前にひざまずき、期待に満ちた目で胎動に耳を澄ませている。

名前まで決めて……

暁人。子どもが好きだったのなら、どうしてあのとき私を選んだの……?

どうして、私じゃなきゃ駄目だなんて言ったの?

どうして……私を騙したの?

和葉は踵を返した。こぼれた涙が磨き上げられた床に落ち、音もなく砕け散った。

タクシーの中で、和葉は両親に電話をかけた。

「お父さん、お母さん。私、そっちに行こうと思うの」

電話の向こうで、両親はひどく驚いた様子だった。

「どうしたの?暁人くんとうまくいってたんじゃないの?まさか、何かひどいことをされたの?」

和葉は言葉に詰まった。

「ううん……ただ、もう愛してないだけ」

和葉は静かに付け加えた。

「だから、綺麗に終わりにしたいの」

電話を切ると、タクシーは役所の前で止まった。

「国外転出の手続きをお願いします」

和葉は窓口で必要書類を差し出した。

職員は内容を確認しながら尋ねる。

「転出日はこの日付でよろしいですか?」

「はい」

和葉は静かにうなずいた。

これで、国内の住民票からは住所がなくなる。

けれど戸籍まで消えるわけではない。ただ、ここで暮らしていた自分の生活に、ひとつ区切りをつけたような気がした。

これから先、この街に和葉という人間はもういない。

暁人、あなたの望みどおりにしてあげる。

私はあなたたち「家族3人」の世界から、跡形もなく消えるから。

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第1話
子どもは好きじゃないと言っていたはずの暁人が、妊娠や出産の本を熱心に読み込み、舞来の妊婦健診には毎回付き添って、ベビールームまで心を込めて整えるようになった。そして火事が起きたあの日も。暁人は迷うことなく舞来を抱き上げ、炎の中を駆け抜けていった。「暁人――ッ!」和葉はかすれた声で夫の名を叫んだ。けれどその声は、燃え盛る炎の轟音にかき消されていく。「助けて……私、ここにいるの……」暁人の足が、一瞬止まったように見えた。立ち込める黒煙の向こうで視線が交錯し、その瞳に明らかな躊躇いがよぎるのを、和葉は確かに見た。だが次の瞬間、舞来が彼の手をぎゅっと握りしめた。「星山社長、早く外に出ましょう?私、怖くて……」「大丈夫だ」暁人の声は、残酷なほど優しかった。「俺がついてる。家族3人で、必ず無事に出られる」家族3人。その一言が鋭い刃となって、和葉の胸を深々と貫いた。暁人が舞来をかばいながら玄関へ走り出したそのとき、燃えさかる梁がまた1本崩れ落ち、今度は和葉の背中を直撃した。薄れゆく意識の中、彼女の脳裏をよぎったのは、5年前の事故だった。ひどい雨の日だった。レストランを出たばかりのふたりに向かって、制御を失ったトラックが歩道へ突っ込んできた。和葉はほとんど本能で、暁人を突き飛ばしていた。下腹部から全身へと激痛が広がり、暁人が喉も裂けんばかりに自分の名を呼ぶ悲痛な声が聞こえた。目を覚ますと、医師から冷酷な宣告をされた。子宮の損傷がひどく、もう一生妊娠は望めない、と。「別れよう」退院の日、和葉は目を赤くして暁人に告げた。「あなたは星山家の一人息子でしょう。跡継ぎが必要なはずよ」あのとき、暁人はなんと答えたのだったか。彼は和葉を病室の壁に押しつけ、息もできないほど激しく口づけた。「和葉、俺はお前だけでいい!子どもがいないなら、ふたりで生きていけばいい!家のことは俺がなんとかする」一族を説き伏せるため、暁人は本家の仏間で一昼夜正座を続け、家のしきたりに従って数えきれないほど竹刀で背中を打たれた。母親は泣きながら嘆き、父親は怒りに任せて湯呑みを3つも叩き割った。最後には祖父が深々とため息をつき、好きにしろと折れたのだった。熱風の中、結婚式の日の光景がよみがえる。ベールを上げた暁人の目は
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第2話
静まり返ったフロアに、職員がキーボードを叩く音だけがやけに大きく響いていた。しばらくして、職員が書類を確認しながら顔を上げる。「お手続きは以上です。転出日以降は、国内の住民票から住所が抜ける形になります」和葉は返された書類を受け取り、静かにうなずき、その場をあとにした。家に戻ると、クローゼットを開けて、ひとつずつ荷物を片づけ始めた。1枚取り出すたびに、古い傷口を無理やりこじ開けるようだった。このシャツは、暁人の誕生日に贈ったもの。これを着た彼に連れられて、山頂まで日の出を見に行った。あのマフラーは、夜更けまで起きて編んだもの。これを巻いているとお前の匂いがする、と彼はいつも言っていた。引き出しには、期限切れのコンサートチケットが2枚眠っている。あの日は大雨で、ふたりはソファに寄り添い、一晩中レコードを聴いて過ごしたのだった。手はかすかに震えていた。それでも和葉は迷わず、それらをすべてゴミ袋に放り込んだ。日が暮れかけたころ、最後のゴミ袋を引きずって玄関へ向かうと、ドアの外から聞き慣れた足音がした。ドアが開き、大きなお腹の舞来を支えるようにして、暁人が立っていた。「ふふ、あとで絶対来てくださいね」舞来は甘ったるく微笑むと、和葉に意味ありげな視線を向け、そのままのんびりとゲストルームへ歩いていった。「和葉」暁人は数歩近づき、声をひそめた。「舞来はもうすぐ臨月だ。医者から、そばに誰かついていないと危ないって言われてる。だから……しばらく彼女と同じ部屋で寝て、様子を見ようと思う。でも安心してくれ」暁人は慌てて付け加えた。「彼女とは、何もしないから」暁人は、泣いてわめかれる覚悟をしていた。なだめる言葉まで、頭の中で何度も練習してあった。ところが意外にも、和葉はただ静かにうなずいただけだった。「好きにすればいいわ」暁人は虚を突かれたようだったが、すぐに安堵の息をついた。口元には満足げな笑みさえ浮かんでいる。「あと1か月の辛抱だからな」和葉は答えず、そのまま寝室へ向かった。辛抱?もう、辛抱なんてしない。その夜のうちに、暁人は自分の服や身の回りの物をすべてゲストルームへ運び込んだ。ドアにもたれながら、行き来する彼の背中を眺めていると、和葉にはふと、彼が自分の人生から少しずつ
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第3話
その夜、邸宅には一晩中煌々と明かりが灯っていた。医師や看護師、使用人たちが慌ただしく行き来し、皆が舞来につきっきりだった。和葉はベッドに横たわったままその騒がしさを聞いているうちに、3年前のことを思い出した。包丁で少し指を切っただけなのに、暁人はまるで和葉が不治の病にでもかかったかのように取り乱し、夜中に家庭医を呼びつけたうえ、手当てまで自分でやると言って聞かなかった。「ただのかすり傷よ?」あのとき、和葉は苦笑するしかなかった。けれど暁人は彼女の手を取り、傷口にそっと口づけた。「いや。お前は、髪の毛1本だって欠けちゃいけないんだ」あのときと同じ気遣いを、今の暁人は別の女に向けている。和葉は寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。涙が布地を濡らしていく。それでも唇を噛みしめ、声だけは漏らさなかった。そうして一晩じゅう泣き続け、空が白み始めたころ、和葉は心の中で静かに自分に言い聞かせた。涙が涸れたら、今度こそきっぱり手放そう、と。翌朝、階下へ降りると、暁人がダイニングテーブルで根気よく舞来に朝食を食べさせていた。「これ、どうしても食べられなくて……」舞来が甘えた声を出す。「あとひと口だけ。な?」暁人の声には、和葉がよく知る甘やかすような響きがあった。「お腹の子のためだからと思ってくれ」和葉は無表情のまま、ふたりのそばを通り過ぎようとした。顔を上げた暁人は、和葉の額にかさぶたになった傷があることにようやく気づき、慌てて立ち上がった。「和葉、その額、どうしたんだ?」和葉は皮肉げに口の端を上げた。「あなたが突き飛ばしたんでしょ?」暁人ははっとして、ようやく昨夜のことを思い出したらしい。その顔に後ろめたさがよぎる。「あっ……悪かった。昨日は頭に血が上ってて……薬を塗ってやるよ」和葉が断ろうとした矢先、舞来が口を挟んだ。「この朝ごはん、どれもあまり食欲がわかなくて……和葉さんの作る長芋の雑炊がすごく美味しいって聞いたんですけど、作ってもらえませんか?」暁人は明らかに言葉を失った。喉仏が上下する。「和葉……」やがて、彼は口を開いた。「頼めないか」見えない手に、心臓をきつく握りしめられたようだった。長芋の雑炊……その言葉は鈍い刃物のように、和葉の記憶を無理やり切り開い
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第4話
仏間はしんと冷え切っていた。和葉は畳の上で長時間正座させられ、膝から下はとうに痺れて感覚がなくなっている。仏壇の灯明がかすかに揺れ、その奥に並ぶ先祖の位牌が、まるで無言のまま自分を責めているように見えた。「毒なんて、入れてないのに……」和葉はうわごとのように呟いた。こぼれた涙が床に落ちる。過去の記憶が、次々と脳裏によみがえってきた。大学時代、急性胃腸炎で入院したときは、暁人が3日間も授業をさぼってつきっきりで看病してくれた。結婚してからは、生理痛がひどい日には、いつも温かい飲み物を用意してくれた。包丁で指先をほんの少し切っただけでも、ひどく取り乱したものだった……それなのに今、自分が暗闇と寒さを何より怖がると知りながら、暁人はこんな場所で一晩じゅう正座させておくのだ。夜が明けるころ、ついに限界に達した。和葉は仏間の冷たい床に崩れ落ち、そのまま意識を手放した。次に目を覚ますと、寝室のベッドに寝かされていて、額には冷たいタオルが載せられていた。傍らに座っていた暁人は、和葉が目を開けたのに気づくと、すぐに身を乗り出した。「和葉、気がついたか?まだ痛む?」和葉は顔を背け、かすれた声で言った。「私、あなたの子どもを殺そうとしたことになってるんでしょ。だったら、今さら何しに来たの?」暁人の表情がこわばり、弁解するように答えた。「それは……調べたらわかったんだ。舞来が自分で、傷んだ魚介類を食べてたらしい……」和葉は鼻で笑った。「はっ。私の作った雑炊しか口にしてないって、言ってたんじゃなかった?」「あいつはわざとじゃないんだ」暁人は眉を寄せて言った。「妊婦は記憶が曖昧になることもあるらしくて……」和葉は目を閉じた。これ以上聞きたくなかった。舞来のやり口なら嫌というほどわかっている。稚拙だが、なぜか暁人にはてきめんに効くのだ。けれど、嘘を暴く気にもなれなかった。どうせ暁人は信じないのだから。黙り込んだ和葉を見て、暁人はますます罪悪感を募らせたらしい。それからの日々、彼はあの手この手で和葉の機嫌を取ろうとした。限定モデルのバッグ、ハイジュエリー、オーダーメイドのドレス……ウォークインクローゼットは贈り物で埋め尽くされた。そしてついには、気晴らしに豪華客船で開催されるオークショ
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第5話
「ふぅ……」舞来が満ち足りたような吐息を漏らした。「星山社長の体、あったかい……っ」その瞬間、和葉の世界は音を立てて崩れ去った。閉まりきらないドアの隙間の向こうで、ふたりが素肌のまま抱き合っていた。暁人は舞来をきつく抱きしめていた。肌を重ね、体温を分け合うその姿は、まるで本物の夫婦のようだった。ふと、ずっと昔のことを思い出した。暁人は、他人に触れられるのをひどく嫌う人だった。一度、会社の女性アシスタントがうっかり暁人の手に触れたことがある。彼はすぐさま手を3回も洗いに行き、戻ってくるなり顔をしかめて言った。「和葉、お前以外の人間に触られると、どうにも気味が悪いんだ」それが今、舞来のためなら迷いなく服を脱ぎ、自らの肌で彼女を温めている。口の中に血の味が広がるまで、和葉は唇をきつく噛みしめていた。踵を返して救急外来で解熱剤を出してもらうと、ひとりで家に帰った。その夜は、たくさんの夢を見た。夢に出てくるのは、16歳の暁人ばかりだった。放課後、校則で寄り道は禁止されていたのに、こっそりコンビニまで行って、和葉の好きなミルクティーを買ってきてくれた暁人。バスケットコートの真ん中で「和葉、好きだ!」と叫んだ暁人。雪の中でひざまずいて「結婚してくれないか」と言った暁人。やがて16歳の暁人は16歳の和葉の手を引き、どんどん遠ざかっていく。そしてすべての思い出が、風に吹かれて散っていった。……暁人が帰ってきたのは、それから3日後のことだった。リビングで目が合った瞬間、空気が凍りつく。和葉が2階へ上がろうとすると、暁人がその手首をつかんだ。「和葉、海に落ちたときのこと、ちゃんと説明させてくれ……」「彼女を選んだのは、お腹に子どもがいるからでしょう」和葉は静かに言葉を遮った。「わかってる」暁人は一瞬きょとんとしたが、すぐに安堵の息をついた。本当に気にしていないのだと思ったらしい。彼は微笑んで、口調も軽くなった。「わかってくれてるならよかった。そうだ、もうすぐ誕生日だろ。盛大にパーティーを開こう」和葉が断ろうとしたときにはもう、彼は手を離し、電話で手配を始めていた。誕生日パーティーの当日は、例年どおりの華やかさだった。シャンデリアがきらめき、シャンパンタワーが光を弾き、招
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第6話
暁人の顔色が一変し、弾かれたように立ち上がった。「和葉ッ!」和葉は身を翻して駆け出した。「待ってくれ!」追いかけてきた暁人が、廊下で和葉の手首をつかむ。「話を聞いてくれ!」「何を聞けっていうの?」和葉は力いっぱい振りほどいた。声が詰まる。「……私の誕生日を祝いながら、あなたの子の母親の誕生日も祝ってたことの言い訳?」和葉は身を翻して階段を駆け下りた。暁人がすぐあとを追ってくる。夜の闇の中、ふたりは前後して車道へ飛び出した。「和葉、違う!」暁人が再び彼女をつかんだ。「お前が思ってるようなことじゃないんだ!」そのとき、目を射るようなヘッドライトが突然光った。制御を失った乗用車が曲がり角から猛スピードで飛び出し、ふたりめがけて突っ込んでくる。間一髪、暁人が和葉を思いきり突き飛ばした。鈍い衝撃音とともに、耳をつんざくブレーキ音が響いた。地面に投げ出された和葉は、暁人が撥ね飛ばされ、数メートル先の路面に叩きつけられるのを、ただ見ていることしかできなかった。白いシャツが、みるみるうちに血に染まっていった。暁人は緊急搬送され、和葉は血まみれのまま、病院の廊下に立ち尽くしていた。「この疫病神!」美郷の甲高い声が空気を切り裂き、平手が和葉の頬を激しく打った。「自分が子どもを産めないだけならまだしも、今度はうちの息子まで殺す気なの!?」暁人の父も怒りをあらわにした。「出ていけ!二度と息子の前に顔を出すな!」和葉はぎゅっと目を閉じ、背を向けて立ち去ろうとした。ちょうどそのとき、看護師が慌ただしくドアを開けて出てきた。「患者さんがずっと『和葉』と呼び続けていて、その方に会えないなら手術は受けないと言い張っているんです。どなたですか、すぐに中へお願いします!」美郷は顔を真っ青にし、唇を強く噛み締めた。「まったく、なんてことなの……!」結局、ふたりは和葉を病室へ通すしかなかった。ベッドの上の暁人は、紙のように白い顔をしていた。額には包帯が巻かれ、酸素マスクの下の呼吸はか細い。やっとの思いで目を開け、和葉の姿をとらえた瞬間、彼の指がかすかに動いた。何かをつかもうとするように。和葉が近づくと、その冷たい手に握られた。「和葉……」弱々しい声で、それでも彼は必
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第7話
すべてを諦め果てたような和葉の横顔を見ているうちに、暁人の胸に得体の知れない不安がこみ上げてきた。暁人は焦燥に駆られるように椅子を蹴立てて立ち上がると、食事会が終わるのも待たずに和葉の手を引き、部屋へ連れていった。「和葉!」ドアを閉めるなり、暁人は急き立てられるように弁明を始めた。「舞来は最近、かなり情緒不安定になっているんだ。精神的な不安定さはお腹の子にも影響すると医者から言われている。だから、刺激しないように機嫌を取って、無事に子どもを産ませたいだけなんだ……」両手で和葉の頬を包み込み、ほとんど懇願するような声で言う。「もう少しだけ我慢してくれ。すぐに終わるから。子どもが生まれたら彼女を追い出して、家族3人で仲良くやり直そう。な?」家族3人?焦りをにじませたその顔を見ていると、和葉の口から乾いた笑いが漏れた。舞来を追い出す必要なんてない。今度出ていくのは、自分のほうなのだから。「……いいわ」和葉は静かに言った。「わかった」暁人は肩の荷が下りたように、和葉をぎゅっと抱きしめた。声が弾んでいる。「やっぱりな。和葉ならわかってくれると思っていたよ!」結婚式の準備は、慌ただしく進められていった。舞来は毎日浮き足立った様子で結婚指輪やドレスを選び、わざわざ式場のパンフレットを手に和葉の意見を聞きに来ることさえあった。「和葉さん、この式場どう思います?」甘い笑顔の奥に、見え透いた挑発の色が隠れている。「ふふふ。星山社長が、最高のものを用意してくれるって」和葉は淡々とパンフレットをめくった。「どれも素敵ね」手応えがないと悟った舞来は、悔しそうに唇を噛んだ。最後まで決まらなかったのは、ウェディングドレスだけだった。舞来は暁人の腕に絡みつき、甘えた声を出す。「星山社長、私、和葉さんが着たあのドレスがいいんです。駄目ですか?」そのドレスは、暁人が億単位の費用をかけ、世界的なトップデザイナーに一から仕立てさせたものだった。ふたりの愛の確かな証だった。暁人の顔色がかすかに変わり、反射的に断ろうとした。ところが、和葉が先に口を開いた。「いいわよ」暁人は弾かれたように振り向いた。信じられないという顔だった。「……和葉?」和葉の表情は落ち着き払っていた。
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第8話
満足げに暁人の腕を取った舞来は、式の流れを確認するため、祭壇への階段を上がっていった。だが、彼女が振り返ったその瞬間。ビリッ!ドレスのウエストラインが突然裂けた。次の瞬間、ドレス全体が雪崩のように崩れ落ちた。悲鳴を上げた舞来は慌てて裾を押さえようとしたが、足を踏み外し、そのまま階段を転げ落ちていった。「舞来ーッ!」暁人は血相を変えて駆け寄り、彼女を抱き起こした。すぐさまジャケットを脱いで、露わになった体を包み込む。だが、もう遅かった。リハーサル会場には記者たちが詰めかけていた。無数のフラッシュが嵐のように焚かれ、ほとんど裸同然の姿で転げ落ちた舞来は、一瞬で写真に収められた。その日のうちに、【#星山グループの花嫁、公衆の面前で半裸に】【#菅沢舞来、挙式リハーサルで大失態】といったハッシュタグが、SNSのトレンド上位を独占した。病院は、大混乱に陥っていた。和葉がボディーガードに無理やり病室へ連れてこられたとき、暁人は窓辺に立っていた。指には煙草が挟まれ、灰皿には吸い殻が山のように積もっている。振り返ったその目には、痛みの色が浮かんでいた。「和葉、お前、どうかしてるんじゃないか?」和葉は静かに見返した。「何のこと?」「ドレスのことだよ!」暁人は煙草を乱暴に灰皿へ押しつけた。押し殺した怒りが、声の底でくすぶっている。「本当にもう気にしてないんだと思ってた。なのに、ドレスに細工するなんて!」和葉は一瞬ぽかんとして、それから笑った。「は……私がやったと思ってるの?」「お前以外に誰がいるんだ!」暁人は和葉の手首を強くつかんだ。「人前であんな恥をかかせるなんて、最低のやり方だろ!しかも、舞来のお腹には俺の子がいるんだぞ。大量に出血して、赤ちゃんまで危ない状態なんだ。舞来はお前と同じ珍しい血液型で、病院の血液だけじゃ足りない。お前、今すぐ献血してくれ」激昂する彼の顔を見ていると、和葉はあまりの馬鹿馬鹿しさに可笑しくなった。問いただしもせず、暁人は最初から自分の仕業だと決めつけている。「私じゃない」と言いかけて、和葉は口をつぐんだ。どうせ断ったところで、力ずくで連れていかれるだけだ。もうすぐ、ここを去る。今さら余計な波風は立てたくなかった。和葉は目を伏せ、小さく言った。
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第9話
キーン、と頭の中で何かが鳴り響いた。目の前がぐらりと揺れる。和葉が、死んだ?そんな馬鹿な……!暁人はすぐにスマホを取り出し、和葉に電話をかけた。けれどつながらない。無機質なアナウンスが、何度も同じ言葉を繰り返すばかりだった。彼は震える指で、何度も、何度もかけ直す。返ってくるのは「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません」という言葉だけ。暁人はスマホを壁に投げつけた。耳障りな音声はようやく止んだ。けれど、どこへ行けば和葉を見つけられるのだろう。彼女に何かあるなんて、そんなはずがない。暁人はよろめきながら目の前の秘書を押しのけ、外へ飛び出そうとした。だが、舞来がその前に立ちはだかった。「暁人さん、今は私たちの結婚式の最中なのに、どこに行くの!?」伸ばされた手を、暁人は力いっぱい振り払った。すると、今度は両親が行く手をふさいだ。「暁人、何をする気だ!何があったにせよ、式を終わらせてからにしなさい。これだけの招待客の前で、星山家の顔に泥を塗る気か!」父親の顔には怒りがにじんでいた。けれど暁人にはもう、そんなことはどうでもよかった。頭の中にあるのは和葉のことだけだ。彼女の無事を確かめるまでは、とても落ち着いてなどいられない。暁人は父親を押しのけた。「和葉を捜しに行くんだ。誰も止めるな、俺は和葉を捜しに行くんだ!」タクシーに飛び乗って空港へ向かう間も、頭の中はずっと混乱したままだった。和葉が死ぬなんて、そんなことがあるはずない。空港に着くと、職員たちが慌ただしく行き交っていた。何か大変なことが起きたらしい。けれど暁人はそれに構う余裕もなく、手近な職員をつかまえて問い詰めた。「S国行きの便は無事なんだよな!?何も起きてないって、乗客は全員無事だって言ってくれ!」一刻も早く答えがほしかった。けれど職員は、痛ましげな表情を浮かべた。「申し訳ございません、お客様。本日のS国行きの便は、墜落したとの情報が入っております。現在、館内放送でもお知らせしておりまして……」そこで暁人はようやく気づいた。頭上のスピーカーから、その大事故のニュースが繰り返し流れていることに。「速報です。本日、当空港を出発したS国行きの旅客機が、離陸からおよそ15分後に消息を絶ち、その後、
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第10話
たちまち、暁人の視界がぼやけ始めた。体の震えが止まらない。足元がぐらつき、次の瞬間、全身の力がすっと抜けた。壁に背を預けたまま、ずるずると床へ崩れ落ちる。頬に冷たいものが伝うのを感じて、手を当ててみて、それが自分の涙だと気づいた。「和葉……和葉……っ」ひどくかすれた声だった。名前を呼ぶたびに、胸が引き裂かれるように痛んだ。暁人は気づいていなかった。空港には、自分と同じように悲しみ、嘆く人々がすでに大勢いることに。どうしてこんな事故が起きたのかと職員を問い詰め続ける人がいれば、声を上げて泣き崩れる人もいる。なぜ愛する人がこんなふうに死ななければならなかったのか、どうしてなのかと、虚空に問い続ける人もいた。その問いに答えられる者は、誰もいなかった。どれほどそうしていたのかわからない。やがて館内放送が新しい案内を告げた。暁人は放送に従って、和葉の遺品確認に向かった。手渡されたのは、わずかに残った遺灰だった。受け取ろうと手を伸ばした瞬間、職員がそれをすっと引き戻した。困ったような顔をしている。「お客様、申し訳ございません。確認したところ、武内和葉様はすでに離婚されているようです。元のご主人にはお渡しすることができません。申し訳ありませんが、後ほどご遺族に改めてご連絡いたします」差し出した手が、宙で止まった。暁人ははっと思い出した。自分と和葉は、もう離婚しているのだ。彼女の遺品さえ、受け取ることができない。頭の中が真っ白になった。その場に長いこと立ち尽くしていたような気もするし、ほんの1秒だったような気もする。やがて、干からびた喉から声が漏れるのが聞こえた。「あれは本当の離婚じゃない。俺はまだ和葉の夫なんだ。形だけの離婚なんだ……!俺たちは、まだ夫婦なんだよ……!」「申し訳ございません。法律上は、すでに配偶者ではいらっしゃいません。ご遺族の方にご確認いただくことになっております」職員は沈痛な面持ちでうなずくと、次に並んでいる人の名前を呼んだ。暁人は呆然と、その場に立ち尽くしていた。周りの人々が、ひとり、またひとりと、かけがえのない人の遺品を受け取っていく。なのに自分は、あの馬鹿げた形だけの離婚のせいで、和葉とのつながりさえ完全に失ってしまったのだ。「ああ……和葉……っ!」苦しげ
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