Share

第417話

Author: 青山米子
言吾が部屋に閉じこもってからというもの、飲まず食わずの状態が続いており、獅子堂家の人々はもともと彼の身を案じていた。

使用人の悲鳴を聞きつけ、宗厳も文江も、そして紫苑も、何事かとすぐに駆けつけた。

そして、言吾の髪が一夜にして真っ白に変貌してしまった様を見て、三人は揃ってその場に凍りついた。

あまりの衝撃に、しばらく誰も我に返ることができない。

目の前の光景が信じられなかった。

本当に、人が一夜にして白髪になるなどということがあるのか、と。

いったい……いったいどれほどの絶望を味わえば、人は、たった一晩で全ての髪が白くなってしまうというのだろう。

例えば、文江にとって。

長男の烈は、まさに彼女の命そのものだった。

自分が死んでもいい、あの子にだけは指一本触れさせたくない、と本気で思っていた。

その息子の突然の訃報に、彼女は本気で生きる気力を失った。

気が狂うほどの痛みと、死を願うほどの絶望に苛まれた。

だが、その耐えがたい、生きているのがやっとというほどの苦痛ですら、せいぜい一晩で白髪が数カ所増える程度だったのだ。

それなのに、言吾は。

この男は……!信じられない!

たかが、女と一度寝ただけではないか。

それしきのことで、ここまでする必要があるのか。

世の男というものは、百パーセントとは言わないまでも、九十九パーセントは、他の女に手を出す機会があれば、忠誠など守れはしない生き物だ。

それなのに、この男は……!

文江には全く理解できなかった。なぜ、言吾がこれほどまでに取り乱すのか、まるで理解できない。

紫苑もまた、同じだった。

彼女もまた、言吾のこの反応が全く理解できなかった。

そして、その理解不能な感情の後に、彼女の胸の奥から込み上げてきたのは、自分を飲み込んでしまいそうなほど強烈な屈辱感だった。

この私、紫苑は、容姿なら誰にも引けを取らない。家柄も申し分ない。スタイルの良さにも自信がある。

それなのに、この言吾という男は、一体何を根拠に。何を根拠にこれほどまで私を嫌悪するというのか。

私の気を引くためなら、命さえ差し出すという男がどれほどいるか、彼は知らないのか。

どうして、こんなことができる。

私と関係を持ったというだけで、どうしてこんな姿になってしまうのか。

これは、あまりにも、人を侮辱しすぎている。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第457話

    慎也との食事が終わりに差しかかった、その時だった。一葉のスマートフォンが鳴ったのは。画面に表示されたのは、親友である千陽の名前だった。電話の向こうから、弾んだ声が聞こえる。「今日は仕事が早く終わったの。一葉ちゃんはもうご飯食べた?まだなら何か買っていこうか?」本来ならもう桜都を離れているはずの千陽だったが、急遽、博物館の文化財修復プロジェクトに召集されたのだ。そのせいで地元に帰る機会を逃したばかりか、ここ最近は目の回るような忙しさで、連日、深夜まで作業に追われているという。そんな彼女にしては、珍しく早い帰りだった。どんな時も自分を気遣ってくれる親友の優しさに、一葉の胸は温かくなる。自然と、口元に柔らかな笑みが浮かんだ。「今、家にいないの。外で食べてて。千陽ちゃんはもう食べた?もしまだなら、何かお土産に持って帰ろうか。ほら、あなたが大好きな、あの『椿亭』の料理とか」まさか一葉が外に、しかも自分のお気に入りの店にいるとは夢にも思わなかった千陽は、即座に食いついた。「食べてない!お願い、買ってきて!」そう言うが早いか、千陽は立て板に水のごとく、次から次へとお目当ての料理名を挙げていく。一葉はそれを一つ一つ記憶に留めると、そばに控えていた店員を呼び、持ち帰りの支度を頼んだ。仕事に忙殺されるあまり、最近の千陽はろくに食事も摂れていないようだった。だからこそ、食いしん坊の彼女にとって、今夜のご馳走は格別なものに違いない。きっと今頃、胸を躍らせて自分の帰りを待っていることだろう……そんなことを思いながら、一葉は勘定を済ませた。その頃、千陽は春の宵に咲く遅桜を眺めようと、庭に出ていた。ひらひらと舞い落ちる花びらを目で追いながら、一葉の帰りを待つ。そして、彼女はその目で見てしまったのだ。一葉を家まで送り届けてきた、慎也の姿を。恋愛経験が豊富で、男女の機微に聡い千陽の目はごまかせない。慎也と軽く挨拶を交わした、ただそれだけで、彼女は二人の間に流れる空気の変化を確かに嗅ぎ取っていた。慎也の車が見えなくなると、千陽はすぐに一葉の腕に自分の腕を絡ませてきた。「ねえ、どういうこと?あの桐生さん、あなたを見る目つきが、なんだか妙に生々しいんだけど!」「あの人、前はあなたと旭くんをくっつけようとしてなかったっけ?」そのあまりに的確な指摘に

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第456話

    わずかなリスクさえも、今は冒すことができなかった。それなのに、未だに言吾と似た人物は見つかっていない。どうしようもない焦燥感が、一葉の心を締め付ける。脳裏に、桐生慎也の言葉が蘇った。一晩中、ベッドの上で考え続けた。そして翌朝、一葉は意を決して、慎也の番号を呼び出した。会って、詳しく話がしたい、と。約束の場所は、神堂市で最も名高い、会員制の料亭だった。美の粋を集めたような、伝統的な桜国建築。一歩足を踏み入れるごとに、計算され尽くした庭の景色が広がる。しかし、そのいかなる絶景も、窓辺に腰掛け、静かにお茶を啜る男の存在感の前では色褪せて見えた。その男――桐生慎也の、人を惹きつけてやまない美しさ。それは、対峙する者に、思わず自らの至らなさを恥じ入らせてしまうほどの、絶対的なものだった。まるで、この世のすべての最も美しいものが、彼のためにこそ存在しているかのようだ。そんな彼を前にして、普段は気後れなどしないはずの一葉でさえ、自分は彼に相応しくない、と感じてしまう。彼には、彼だけのための、唯一無二の愛が与えられるべきだ。そう、一葉は思った。昨夜、一晩考え抜いた末、彼との協力関係を受け入れるという結論に至っていた。それが、旭に自分を諦めさせ、彼の新しい人生を始めさせるための一番の近道であり、そして何より、お腹の子たちを守るための、最善の策であると。だが、それはあくまで利害の一致に基づく協力関係。彼と本当に結ばれ、真の夫婦になるなどという考えは、一葉の頭には微塵もなかった。一葉の姿を認めると、慎也は穏やかに微笑んだ。そして、習慣的に彼女のためにお茶を淹れようとして、ふと、その手を止める。妊娠初期の彼女の体を気遣い、代わりに白湯を注いでくれた。そのさりげない優しさに、一葉は胸が詰まる思いだった。席に着き、慎也と向かい合う。ここまで来る道すがら、何をどう話すか、何度も頭の中でシミュレーションを重ねてきたはずだった。それなのに、彼の深く、すべてを見透かすような瞳に見つめられると、言葉が喉の奥でつかえて、何から切り出していいのか分からなくなってしまった。慎也は、そんな一葉を急かすことなく、ただ静かに、そして優しく、彼女を見守っていた。手の中のグラスを握りしめる。一葉はしばらくの間、その冷たい感触を確かめるように強く

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第455話

    そんな息の詰まるような日々が、彼の奔放な生への渇望を、ますます掻き立てていった。そんな折に出会った、あの犯罪組織。そこは、彼が心の底から求めていた生き方ができる、まさに楽園のように思えた。だが、日の当たらぬ生き方が、所詮は日の当たらぬものであることも、彼は理解していた。闇に生きるということは、多くの楽しみを諦めることであり、いつかは破滅の時が訪れる。だからこそ、飽きた後には、すべてを捨てて元の場所へ戻れる、完璧な逃げ道が必要だった。しかし、組織の頂点に立ちながら、何のリスクも負わずに身を引くなど、そう簡単なことではない。完璧な方策が見つからず、途方に暮れていた、まさにその時。偶然にも、自分と瓜二つの双子の弟がいることを知ったのだ。その瞬間、すべての問題が一気に解決した。彼は、周到な計画を練り始めた。組織に一葉を狙わせ、彼女と彼女の恩師を公海へと拉致させたこと。言吾が救出に向かい、クルーザーが爆発したこと。言吾が一葉を救うためにしんがりを務め、そして自分が、その言吾を救うために命を落とした、という筋書き。そのすべてが、彼が緻密に仕組んだ壮大な芝居だったのである。彼は分かっていた。自分の「死」の後、獅子堂家は彼の名義の株が流出するのを防ぐため、救出された言吾に、自分の身代わりをさせるだろう、と。こうして彼は、獅子堂家で己のために働く「ただの駒」を手に入れた。そればかりか、言吾の身分を隠れ蓑に、闇の世界で望むままの奔放な人生を謳歌できるようになったのだ。そして、彼がこの遊びに飽きる頃には、組織が稼いだ莫大な富も、獅子堂家の財産も、すべてが彼のものとなる。その一方で、言吾は、彼の罪をすべて背負わされ、死んでいく――ただの生贄として。思考を巡らせていた紫苑の頭の中で、すべてのピースがカチリと嵌まった。烈の描いた、あまりにも狡猾で完璧な計画の全貌を、彼女は完全に理解したのだ。その謀略を前にして、紫苑はもはや言葉を失っていた。ただただ、感服するしかない。その冷酷無比な手腕に。その悪魔的なまでの計画性に。ただ、気まぐれに違う人生を送りたいという欲望のためだけに。己の内に潜む悪を、思う存分解き放ちたいという身勝手な理由のためだけに、実の弟である言吾の人生を、こうも無惨に踏み躙るとは……!なんという男だ

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第454話

    この双子は、女の双子ならば富と名誉に恵まれる。男女の双子であれば、それは吉兆。獅子堂家は末永く繁栄するだろう。だが、男の双子となれば、それは大凶。一人は善、一人は悪。兄弟は殺し合い、必ず一方が死ぬことになる、と。獅子堂家に嫁いで初めてこの話を聞いた時、紫苑は心の中で一笑に付したものだ。こんな子供騙しのような話を、一族揃って信じ込んでいるとは、とんだ迷信だと。本当に徳の高い高僧とやらなら、なぜ腹の中の赤ん坊の性別すら見通せないのか。なぜそういう曖昧な言い方をするのか、と。だが、今。高僧の言葉は、恐ろしいほどに現実のものとなりつつあった。この二人は、まさしく善と悪、そのものだ。紫苑の驚愕と、そして微かな恐怖が入り混じった視線を受け、烈は鼻で笑った。「お前だって善人じゃあるまい。俺に怯えたような演技はやめろ」紫苑は「……」言葉に詰まった。その言葉を、否定することはできなかったからだ。しばしの沈黙の後、紫苑は意を決して烈を見据えた。「……なぜ私に、自分の正体を気づかせようとしたの」状況から察するに、烈は意図的に、紫苑に自分の正体を見抜かせたのだ。そうでなければ、死んだはずの彼が生きているなどと、気づくはずもなかった。「今の深水言吾は、成り代わるには都合がいい。奴の生活圏と職場に、高画質のピンホールカメラをいくつか仕掛けておけ。至近距離から狙えるものをな。奴に成りすまして、奴の女に近付く。……少し、働いてもらわんとな」紫苑は情報通だ。特に一葉の動向には常に注意を払っていたため、彼女が、とある犯罪組織から研究プロジェクトへの参加を執拗に求められていることも知っていた。そして、烈が死を偽装した場所が、まさにその組織の所有するクルーザーの上だったことも。点と点が繋がり、一つの線を結ぶ。「……あなた、あの組織の一員になったの」烈は気だるげに椅子の背に身を預けたまま、嘲るように言った。「一員、か。訂正しよう。俺は、あの組織の指導者だ」その言葉に、紫苑の瞳が激しく揺れた。上流階級に身を置き、強固な情報網を持つ彼女は、その組織についても、ある程度の知識はあった。彼女の知る限り、組織のトップはX国の人間であり、底知れぬ力を持つ人物のはずだった。かつての烈は、宗厳が裏社会との繋がりを断固として許さなかったた

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第453話

    烈はゆったりと椅子の背にもたれかかると、一本の葉巻に火をつけた。紫煙の輪を一つ、吐き出してから、ようやく重い口を開く。「決まってるだろ。深水言吾という『ただで使える駒』と、ついでに奴の身分を利用させてもらうためさ」紫苑と烈の夫婦仲は、決して熱烈なものではなかったが、それなりに良好ではあった。数年間、夫婦として過ごしてきたのだ。夫のことは十分に理解しているという自負があったし、そうでなければ、仮面越しの彼を本人だと見抜けるはずもなかった。だが、今、目の前にいるこの男を、自分は全く知らなかったのだと、紫苑は思い知らされていた。彼女とて、愚かではない。烈が言吾を「ただで使える駒」と呼んだ、その真意はすぐに理解できた。言吾は今、「獅子堂烈」として生きている。つまり、彼がいかに有能さを発揮し、どれほど身を粉にして宗厳に認められようと、その功績のすべては、最終的に本物の「獅子堂烈」のものとなるのだ。本物の烈が現れさえすれば、彼は指一本動かすことなく、言吾が血のにじむような努力の末に手に入れたすべてを、いとも容易く奪い取ることができる。しかし、それでも紫苑には理解できなかった。なぜ、ただ言吾を利用するためだけに、「死」を偽装する必要があったのか。自分にさえ打ち明けなかったのは百歩譲るとして、実の母親にまで黙っているなど、正気の沙汰とは思えなかった!紫苑は、思わず声を荒らげた。「あなたが死んだせいで、お義母様がどれほど苦しまれたか、分かってるの!」紫苑は、常に己の利益を第一に考える女だ。しかし、そんな彼女でさえ、文江と共に過ごすうちに、彼女からの深い愛情に触れるうちに、情が移ってしまっていた。心から、彼女に健やかでいてほしいと願うようになっていたのだ。それなのに、文江が手の中の珠のように慈しみ、育ててきた実の息子である烈は、自分の命よりも大切に思ってくれている母親に対し、これほどまでに酷い仕打ちができたというのか!「私がお義母様のそばに付きっきりでいなければ、あの方はとっくに、後を追って死んでいたわ!」烈の訃報が届いてからの数週間、紫苑は文字通り寸歩も離れず文江に付き添い、死のうとする彼女を必死に引き留め続けたのだ。これだけ言えば、さすがの烈も少しは罪悪感を滲ませるだろう。紫苑はそう思っていた。だが、彼の反応は、彼女の予想を遥かに

  • 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた   第452話

    言吾の苦痛をよそに、紫苑は内心、ほくそ笑んでいた。根っからの性悪なのかもしれない。自分が手に入れられないものを、他人が手にしているのが許せないのだ。たとえ自分に利がなくとも、自分がずぶ濡れならば、他人が傘をさすことすら許さない。そんな歪んだ性根の持ち主だった。だが、その愉悦も束の間、紫苑の脳裏をある懸念がよぎった。――青山一葉が、妊娠しているかもしれない。その可能性に思い至った途端、背筋が凍るような感覚に襲われた。自分の計画に綻びが生じることは、断じて許せない。ましてや、自分の胎内にいる子以外に、獅子堂家の血を引く子供が存在することなど、絶対に認められなかった!しかし、今の自分が厳しく監視されていることも、紫苑は熟知していた。下手に動いて一葉に何か仕掛けようものなら、すぐに言吾に感づかれてしまうだろう。その時こそ、すべてが水の泡と化す。そのリスクを考えれば、軽率な行動はできなかった。だが、考えれば考えるほど、あの夜、一葉が身籠ったのではないかという恐怖が、じわじわと心を蝕んでいく。その恐怖は、帰宅してからも紫苑を苛み、彼女はベッドの上で幾度となく寝返りを打つばかりで、一向に寝付けなかった。自分では動けない。しかし、何かしなければならない。どうすべきか葛藤の淵で喘いでいた、その時だった。紫苑の脳裏に、あの夜の「仮面の男」の姿が閃いたのだ。別れ際に彼が言った言葉を思い出す。――今後、お前の手に負えないことがあれば、いつでも俺を頼るといい。紫苑は、ばっとベッドから身を起こした。あの仮面の男が、なぜあれほど自分に協力し、あのような言葉を残したのか、その真意は測りかねる。しかし、彼の言葉に嘘はないと、紫苑は本能的に感じていた。本当に困った時に頼れば、彼は必ず手を貸してくれる、と。彼と自分の利害は、一致しているはずだ!それに、彼は……仮面の男から感じた、あの不思議な既視感。そこまで思い至り、紫苑の瞳が、すっと昏い光を宿した。彼女は迷いを振り払うようにスマートフォンを手に取ると、男に「明日、会いたい」とメッセージを送った。翌日、紫苑は仮面の男から指示された通り、神堂市の中心部にそびえ立つ高級マンションの一室で、再び彼と対面した。男は前回と同じ仮面で顔を覆っていた。紫苑が部屋に入った時、

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status