LOGIN「最初は、あなたのことが大嫌いだった。それは認める。あなたが私をあの家から救い出してくれたことも、ちゃんとわかってた。でも、好きでもないのに結婚を迫られて、強引で自分勝手な人だと思ってた。だから最初の頃は、あなたにひどい態度ばかり取ってた。でも、そのあと私の気持ちが変わっていったこと、本当に気づかなかったの?少しでもあなたの胃に負担をかけたくなくて、料理だって覚えた。失敗したものを食べさせたくなかったから、いつも凌に味見を頼んでたの。あなたがご両親と仲直りできるように、私なりに何度も間を取り持とうとしたし、修士課程も終わりに近づいた頃には、少しでもあなたの負担を減らしたくて、研究の合間にできる仕事まで探してた。私たち、生活の時間帯がまるで合わなくて、一緒にいられる時間なんてほとんどなかったでしょう?あんなに疲れ切ったあなたを見てたら、少しでも休ませてあげたいって思うに決まってる。そんなあなたに、それ以上のことまで求められるわけないじゃない」そこまで言うと、未央は頬を赤らめ、そっと俺の胸元に身を寄せた。未央の話を聞いているうちに、同じはずの記憶が、少しずつ違う意味を帯びていった。あの頃の俺は休む間もなく働き、食事の時間も不規則で、ひどい胃炎を患っていた。未央が料理を始めたのも、ちょうどその頃だった。俺はずっと、凌に食べさせる料理の練習台にされているのだと思い込んでいた。両親と縁を切ったあと、未央が一緒に謝りに行こうと言ってくれたことも、確かにあった。だが俺は、両親に会えば未央までつらい記憶を思い出してしまうのではないかと心配し、そのたびに断っていた。「あなたを失ってから一人で過ごした3000日が、どれだけ寒くてつらかったかわかる?お金なんて、なくなったってまた稼げる。でも、あなたを失ったら……私は何を支えに生きていけばいいの?」そう言うと、未央はまた堰を切ったように泣き出した。悔しさをぶつけるように俺の胸元へ顔を埋め、服で涙を拭った。「だったら、どうしてあのとき何も答えてくれなかった?俺は最後まで、お前の答えを聞けなかった」未央は一瞬きょとんとしたあと、呆然と俺を見た。「……私が見つけたときには、あなた、もう息をしてなかったよ。体を大事にしてって、あれだけ言ったのに、全然聞いてくれなかったよね。あなたが体
未央も俺に気づいた。凌の腕を振りほどいてこちらへ来ようとしたが、足元がふらつき、再び彼の胸に倒れ込む。「やっぱり、気持ち悪いよ」その一言で、俺を見つけたときの未央の喜びは消えた。未央は凌の腕からずるずると崩れ落ち、その場に座り込んで泣き始めた。俺には、その姿さえ皮肉にしか見えなかった。背後で何度も引き止められたが、振り返らず、自転車に乗って家へ向かった。信号待ちをしていると、互いの体を支え合いながら横断歩道を渡る老夫婦が目に入った。街灯に照らされた二人の白髪が、やけに穏やかに見えた。寄り添って歩く背中を見ているうちに、前の人生の俺と未央が重なった。目の前がにじむ。十数年もの時間を共にした夫婦だった。制服姿の頃に出会い、結婚までたどり着いた。ただ、結末だけが、俺の思い描いたものとは違っていた。もう未央のすることに心を揺らされることはないと思っていた。それなのに、不意に凌に抱えられた未央を見てしまった。このところ未央がしてきたことを思えば、十数年を共にした情が、彼女の中にも残っているのではないかと思いかけていた。もしかすると、未央も俺を愛したことがあったのではないか、と。頬を伝った涙は、向かい風に乾かされていった。結局、未央が選ぶのは凌なのだ。時間をかけて、そう自分に言い聞かせた。前に同じ痛みを味わったのは、死ぬ直前、未央が凌を抱き締めているところを見たときだった。帰宅してからも、その光景が頭を離れず、寝返りばかり打って眠れなかった。結局、翌日から放課後講習には出ず、自宅で勉強させてもらえないか、担任に相談することにした。翌朝、まだ眠りが浅い時間に、階下から言い争う声が聞こえた。乱れた髪のまま下へ降りると、未央が朝早くから家を訪ねてきていた。両親は以前の騒ぎで未央に強い不信感を抱いており、家へ入れることをきっぱり拒んでいる。未央も引き下がらず、3人は玄関先でにらみ合っていた。騒ぎに気づいた近所の人まで、遠巻きに様子をうかがっている。俺が現れると、沈んでいた未央の顔がぱっと明るくなった。「朔!」両親が人目にさらされるのは嫌だった。二人を家の中へ戻して扉を閉めると、険しい顔で未央を見た。「場所を変えて話そう」家から少し離れた川沿いに、俺と未央は並んで座った
夕食を終えると、その夜は翌日の授業に備えて早めに休んだ。翌日の昼休み、教室の前では岳が待ち構え、にやにやしながら俺を見ていた。何のことかわからずにいると、岳が近寄ってくる。「朔、お前、相変わらずもてるな」岳の視線を追って、自分の席を見た。勉強道具で散らかっていたはずの机は、きれいに片づけられている。空いた場所には、弁当箱が隙間なく並べられていた。一目で未央の仕業だとわかった。どれも、彼女が好きな色の弁当箱だったからだ。俺は無表情のまま視線を戻し、岳を見る。岳はうれしそうに、俺と未央を交互に見ていた。だが俺が喜ぶどころか、むしろ腹を立てていることに、ようやく気づいたらしい。いつものふざけた表情を消し、真顔になった。「まさか、前に振られたくらいで、本当に恋愛そのものを諦めたのか?」岳が知る俺は、狙ったものを手に入れるまで決して諦めない男だった。それが未央に一度拒まれただけで身を引くなど、普段の俺からは考えられないのだろう。俺は岳を見て、意味ありげに笑った。「人生を一度やり直してるからな。今は勉強だけして、恋愛は遠慮したい」岳は何を言われたのかわからない顔をして、俺のあとを追って教室へ入った。俺は岳の顔の前へ弁当箱を突き出した。「食べたいなら、全部やる。俺はもう昼食を済ませた」そこで岳は、ようやく俺が未央を本気で諦めたのだと悟ったらしい。何か言いかけたそのとき、未央が駆け寄ってきた。俺と岳の間に割って入り、手渡しかけた弁当箱を強引に俺の手へ戻す。「朔の好きな海老フライを、朝から作ったの。少しだけでも食べてみて。口に合うといいんだけど」未央は期待に満ちた目で俺を見上げていた。「いらない。もう食べた。雨宮さん、時間があるなら問題集でも解いたらどうだ。俺みたいな落ちこぼれに構う必要はないだろ」前の人生で、俺は未央の言うことに逆らったことがなかった。不満を口にしたことすら、ほとんどない。これだけ言えば、未央は弁当箱を持って立ち去ると思った。だが顔を上げると、そこにはさっきよりも強い決意が浮かんでいた。「私は諦めない。朔に一度断られたくらいで駄目なら、二度でも三度でも伝える一年かけてでも、もう一度、私を好きになってもらうから」そう宣言した日から、未央は毎日のように弁当を持
家の前に立ち、何度も深呼吸をした。こみ上げる涙を、どうにか抑えたかった。それでも玄関を開け、台所に立つ父と、携帯を握り締めて俺の帰りを待っていた母の姿を見た瞬間、声が震えた。「父さん、母さん。ごめん。ただいま」ソファに座っていた母は、俺の声を聞くなり駆け寄ってきた。声を上げて泣きながら、強く抱き締められる。台所にいた父は表情を変えなかった。だが手を止め、こちらを振り返った。俺は母を支えてソファに座らせると、その場に正座して深く頭を下げた。母は驚いて立ち上がり、俺を立たせようとした。だが父が首を横に振るのを見て、ゆっくり腰を下ろした。「母さん、ここまで育ててもらったのに、本当にごめん。二人が何度も言ってくれたことも、全部無視した。俺はどうかしてた。女一人のために、両親を脅すようなことまでした。最低だった」母の目には、もう涙があふれていた。父も背を向け、こっそり目元を拭っている。前の人生では十数年越しになってしまった謝罪を、ようやく二人に伝えられた。そう思うと、後悔で胸がいっぱいになった。「恋愛に反対しているわけじゃないのよ。あなたも、もうすぐ高校を卒業する。いつか自分の家庭を持つでしょう。私たちが怒ったのは、一人の女の子のために命まで持ち出して、私たちを捨てようとしたからよ」母が次第に声を荒らげると、父は台所から出てきて、その背をさすった。「今度こそ、本当にわかったのか」家に入ってから一言も発しなかった父が、ようやく口を開いた。俺は力強くうなずいた。「俺が悪かった。女のために二人と縁を切ろうとするなんて、絶対に間違ってた。雨宮未央とは、もう話をつけた。今の俺とあいつには何の関係もない。これからは勉強に集中して、大学受験に備える。二人が育ててくれた分、今度こそ親孝行する」言い終えると、泣き続けていた母が俺の手を取り、隣に座らせた。父は何も言わず、台所へ戻っていく。「おい、手伝え。料理を運ぶぞ」立ち上がろうとした俺を、母がそっと引き止めた。「あの人、平気な顔をしているでしょう。でもあなたが帰るまでは、ずっとここで待っていたのよ。あなたの好きな海老フライを作るって、ようやく台所へ行ったの。あなたから連絡が来たとき、すぐ気づけるようにって、私にはここで待っていろと言ったの。何でもないような顔を
未央の言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。指一本、動かせなかった。信じていないと思ったのか、未央は俺の叔母のことまで話し始めた。叔母は、前の人生で唯一、俺と未央の結婚を応援してくれた身内だった。両親と絶縁してからも、俺は叔母とだけは連絡を取り続けていた。だが未央が叔母の存在を知ったのは、大学受験が終わってからだ。固まったままの俺に焦れたのか、未央が不満そうに袖を引いた。それは前の人生で、未央が俺に甘えるときによくしていた仕草だった。俺は笑みを浮かべる未央を見返し、乾いた唇をなめた。どうりで、俺が戻ってきてからの未央は別人のようだった。未央の選択は何もかも前の人生と正反対で、ことごとく俺の予想を外れていた。初めは、俺が過去へ戻ったことで生じた変化だと思っていた。だが未央も、同じように人生をやり直していたのだ。黙り込んだ俺を見て、未央の目に不安が浮かぶ。言葉も次第に早口になった。「私は本当に、あなたの妻だったの。朔、あなたは私のために家族まで捨てた。ご両親が海外留学のために用意した2000万円を持ち出して、私を大学へ行かせてくれた」未央は都合の悪い部分を避けながら、必死に俺の信頼を得ようとしていた。わからなかった。未央も人生をやり直しているのなら、真っ先に初恋の相手のもとへ行くはずではないのか。二人の仲を引き裂いた大悪人である俺を、なぜ追いかけてくる。どうにか動揺を抑え、俺は静かに告げた。「お前の話を信じる。俺も、前の人生の記憶を持っているからだ。お前も覚えているなら、わかるだろう。前の人生で、俺がお前を愛したために何を失ったのか。だから今度は、同じ過ちを繰り返さない」未央の顔から血の気が引いた。信じられないものを見るように、俺を見つめている。俺は苦く笑い、首を横に振ってその場を離れた。未央が背後から何度も名を呼んだが、一度も振り返らなかった。二人そろって同じ過去へ戻ってきたなど、常識では考えられない。俺の頭の中も混乱したままだった。教室へ戻ると、紬に弁当を渡した。紬は眉を寄せた。「今日は遅かったね」弁当が遅くなって怒っているのだと思い、俺は慌てて謝った。「悪い。途中で少し面倒なことがあって」「余計なことに振り回されて、勉強をおろそかにしないで」紬は
昼休みが終わり、弁当箱を手に廊下を歩いていると、何人もの生徒がこちらを見ながらひそひそ話していた。俺は足早に通り過ぎた。そんな視線は気にならない。人生をやり直せるのなら、まずは前の人生で犯した過ちを償いたい。他人の目など気にしている場合ではなかった。先日の告白を皆の前で断ったせいで、校庭へ出ても好奇の目を向けられた。「あれが星野?別に大した男にも見えないのに、よく雨宮さんを振れたよな。何様なんだよ」「雨宮さんは学年首席だぞ。星野みたいなやつを好きになるわけがない。きっと、うまいこと言ってだましたんだ」「わざと焦らしているだけじゃない?内心では喜んでるくせに。感じ悪い」もっと心をえぐる言葉をいくらでも聞いてきた俺には、そんな噂を相手にする気などなかった。立ち去ろうとしたとき、背後から未央の怒った声が飛んできた。「もうやめて!朔はそんな人じゃない。これ以上ひどいことを言うなら、先生に報告するから!」未央は生徒会長だ。その言葉には、生徒たちを黙らせるだけの重みがあった。集まっていた生徒は、気まずそうに少しずつ散っていった。広い校庭に、俺と未央だけが残される。未央がこちらを見つめていたが、俺は表情を変えずに歩き出した。助けてもらったつもりもなければ、感謝する気もない。前の人生で、俺が働いて稼いだ金を学費として渡すたび、未央は見下すような顔をした。金で愛情をつなぎ止めようとする汚い人間だと、面と向かって罵られたことさえある。だが大学へ通うにも、大学院で研究を続けるにも金はかかる。未央は金に執着しない清廉な人間のつもりでいて、生活を支えた俺だけを卑しい人間として責めた。未央の中で、俺はその程度の男だったのだ。いちばん深い傷をつけるのは、たいてい、いちばん愛した人だ。頭では納得できることでも、やっぱり悲しくなることはある。一度深く傷つけられたら、もう許すことはない。時間がすべてを消してくれるわけじゃない。その傷跡は、死ぬまでずっと、俺の心に残り続ける。だから今さら未央に優しくされても、嫌悪感が増すだけだった。彼女を無視して通り過ぎようとすると、腕を強くつかまれた。泣きそうな声が耳に届く。「朔、本当に……もう一度だけでも、チャンスをくれないの?」未央の声は震えていた。目はひどく赤く腫
再び目を開けると、大学受験の3か月前に戻っていた。この日は、俺が学園のマドンナ、玲奈に告白し、プロポーズするために2000万を準備した日だった。銀行のカードを引き出しの中で見つめながら、俺は自分にひたすら平手打ちをしたいと思った。他の人は彼女を雌犬のように扱い、彼女が望むものはすべて持っていたが、俺は死ぬ前にまだ自分が玲奈を愛しているかどうかで悩んでいた。もしかしたら、俺があまりにも惨めだったので、神がそれに耐えられなくなり、生まれ変わるチャンスをくれたのかもしれない。前世では、玲奈の家が貧しかったため、両親は彼女に学校を中退させ、花嫁代として結婚させた。しかし、玲奈と
今日の玲奈は清潔な制服を身に着け、ちょうどいい高いポニーテールが彼女を清潔で可愛らしく見せている。班の中は静まり返っており、俺だけが冷たい目で変わり果てた玲奈を見つめて、心の中でほのかに推測を抱いていた。他の人の表情なんて気にせず、玲奈は自分の世界に入り、俺に向かって歩いてきた。「新しい隣の席、これからよろしくね!」担任は玲奈の言葉に賛同していなかったが、それでもニコニコと笑っていた。結局、クラスに秀才であり、しかも学園のマドンナが加わったことで、クラスの平均点がどれほど上がるか分からない!玲奈の俺に対する熱狂的な追求は、クラス中で議論を巻き起こした。誰もが知っている、