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その目が、すべてを語る

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-15 16:30:58

食事が終わると、リビングにはケーキの甘い香りと、ワインとシャンパンの残り香が混ざり合っていた。子どものようにはしゃいだ時間の後にふいに訪れる静けさ。志乃は手際よく食器を重ね、キッチンへと運ぶ。その後ろから須磨も皿を持って続いてきた。瑞希と塩屋はまだリビングに残り、ソファの上でなにげなくグラスを傾けていた。

キッチンのシンクに食器を置きながら、志乃は須磨の横顔を盗み見る。彼は黙ったまま洗い物に手を伸ばし、淡々と作業を始める。いつもなら、ふたりきりになった時だけこぼれるような笑顔や親しみの言葉があるのに、今夜はどうにも間が持てない。その沈黙がやけに耳につく。

志乃は洗剤を手に取りながら、思い切って切り出す。「さっきのキス、どういうつもりだったの?」

自分の声が、思っていたより高く、そして途中でわずかに震えていた。須磨は洗いかけていたグラスの中に少しだけ力を込め、それから志乃のほうを見た。その瞳には一瞬だけ戸惑いが浮かぶ。だがすぐに、彼は肩をすくめてみせた。

「冗談だよ。みんなノリでやってたし」

そう言いながらも、須磨の視線は志乃の顔に真っ直ぐ落ちてこない。何かを探しているように宙をさまよい、すぐに食器のほうへと逸れていった。その不自然な間が、志乃の心に冷たい針を刺す。

「…本当に、冗談?」

「当たり前だろ。こんな場だし。心配しなくても、俺たち、友達だから」

軽い調子を装っているのに、その声にはどこか硬さが混じっていた。志乃は、深く息を吸い、なるべく落ち着いたふりをしてグラスを水でゆすいだ。けれど、胸の奥ではさっきのキスの情景が繰り返しフラッシュバックする。須磨と塩屋の唇が触れた瞬間の、塩屋の濡れたまなざし。冗談のはずなのに、あの目の中には熱が宿っていた。ごまかしきれない、本当の気持ちが。

「…でも、塩屋さんの顔、あのとき本当に…」

志乃が言いかけると、須磨は少し強い口調で遮った。「そんなに深く考えなくていいって。大人同士の悪ノリだよ」

「そうかもしれないけど…」

言葉がそこで詰まった。水の流れる音が二人のあいだに落ちる。須磨はグラスを丁寧にタオ

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