瑞希は朝から何も手につかなかった。アトリエのデスクに積まれた書類も、パレットに乾きかけた絵具も、すべて自分から遠ざかった風景の一部になっていた。昼過ぎ、小さな封筒が宅配ボックスに届いているとメールが入る。依頼していた探偵事務所からの封書だと気づいた瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
手のひらが冷たくなる。封筒を持つ指先は微かに震えていた。静かなアトリエに、封筒を開ける自分の呼吸だけが大きく響く。普段ならどんな契約書だってためらいなく開封するはずなのに、今は封を切るだけで、世界が別のものに変わってしまう気がした。
中には丁寧にホチキス留めされた報告書と、写真が数枚。瑞希は思わずその写真に目をやった。一枚目に写っていたのは、見慣れたビルの入り口。その前で、ふたりの男が寄り添って立っている。さらにページをめくると、仕事部屋の玄関前で向き合う須磨と塩屋が映し出されていた。
そこには、一瞬の隙もなかった。須磨の手が塩屋の肩に添えられ、ふたりの顔が近づいている。最後の写真――ふたりの唇が、重なっている。その瞬間を、カメラのレンズが鮮明に切り取っていた。塩屋の横顔はいつもの柔らかさを失っていて、瞼が伏せられ、まるで現実から目を背けるように微かに震えている。須磨の表情は、穏やかな微笑のまま、だがその目は真っ直ぐに塩屋を見つめている。唇と唇が、はっきりと重なっていた。
「見間違い…だよね」と最初のうちは自分に言い聞かせる。だが、何度見返しても、その写真が現実を裏切ることはなかった。瑞希の頭の中で、これまでの日々が波のように押し寄せては崩れていく。塩屋が家を出るときの優しい声、帰宅して「疲れた」と笑う顔、そのひとつひとつが突然べつの意味を持ち始める。
手がかすかに震える。スマートフォンを取り出し、写真を志乃に転送しようとするが、何度も操作を間違えた。ようやく送信のボタンを押したあと、深く息を吐き、「私たち、どうすればいいんだろう」とメッセージを打ち込む。その指が、泣きそうなほど冷たい。
数分後、志乃から「見た」とだけ返信が来る。彼女の言葉の短さが、すべてを語っていた。志乃は自宅のソファで、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。送られてきた写真に、最初は言葉を失い、すぐには涙も出な
正月もとうに過ぎ、街の華やぎも遠い日の記憶のようになった十五日の夜。窓の外では雪がしんしんと降り続け、街灯の光に照らされて舞い落ちる白い粒は、静かに世界を包み込んでいた。志乃と須磨の自宅リビング。壁の時計が九時を回り、暖房の効いた部屋の空気も、なぜか妙に冷えきっているように感じられた。淡いランプの明かりの下、志乃は低いテーブルの脇に並ぶように腰かけている。その隣には瑞希がいる。ふたりとも口を閉ざし、ただ自分の膝の上に手を置いている。どちらの指先も、まるで氷に触れたように強ばっていた。テーブルの上には、一枚の写真が置かれている。薄い白い封筒から引き出されたその証拠は、いまこの空間の温度をさらに下げていた。呼吸を潜めて待つこと数分、玄関のチャイムが静かに鳴った。須磨と塩屋がコートを脱いでリビングへと入ってくる。二人ともわずかに顔をこわばらせていた。志乃は表情を動かさないまま「座って」と促した。須磨も塩屋も向かい側に並び、背筋を伸ばして椅子に腰掛ける。四人の間に、重たい沈黙が横たわった。雪が降り続ける音が聞こえてくるような気がした。室内の静けさがひときわ深く感じられる。テーブルの上の写真が、ほんの少しだけ光を反射し、その影が志乃の手の甲に落ちる。やがて、志乃が低く静かな声で切り出した。「これについて、説明してほしい」声はかすかに震えていたが、決意の色があった。写真の中、仕事部屋の玄関前で唇を重ねる須磨と塩屋。その絵が、すべてを物語っているのは明らかだった。志乃の手はじっと膝の上で組まれていたが、指の関節が白くなるほど力がこもっていた。須磨は最初、何か言いかけて言葉を飲み込む。塩屋もまた、小さく喉を鳴らしながら視線を下げた。喉仏が上下し、息を呑んでいるのが遠目にも分かる。「これ…、これは…」と須磨が口を開く。言い訳にもならない言葉が途中で切れる。唇が乾いているのか、何度も舌で潤そうとする。しかし、次の言葉が出てこない。「説明できるなら、してほしい」と瑞希が静かに言う。その声は張りつめているのに、どこか哀しげでもあった。須磨はうつむき、写真をじっと見つめる。
瑞希は朝から何も手につかなかった。アトリエのデスクに積まれた書類も、パレットに乾きかけた絵具も、すべて自分から遠ざかった風景の一部になっていた。昼過ぎ、小さな封筒が宅配ボックスに届いているとメールが入る。依頼していた探偵事務所からの封書だと気づいた瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。手のひらが冷たくなる。封筒を持つ指先は微かに震えていた。静かなアトリエに、封筒を開ける自分の呼吸だけが大きく響く。普段ならどんな契約書だってためらいなく開封するはずなのに、今は封を切るだけで、世界が別のものに変わってしまう気がした。中には丁寧にホチキス留めされた報告書と、写真が数枚。瑞希は思わずその写真に目をやった。一枚目に写っていたのは、見慣れたビルの入り口。その前で、ふたりの男が寄り添って立っている。さらにページをめくると、仕事部屋の玄関前で向き合う須磨と塩屋が映し出されていた。そこには、一瞬の隙もなかった。須磨の手が塩屋の肩に添えられ、ふたりの顔が近づいている。最後の写真――ふたりの唇が、重なっている。その瞬間を、カメラのレンズが鮮明に切り取っていた。塩屋の横顔はいつもの柔らかさを失っていて、瞼が伏せられ、まるで現実から目を背けるように微かに震えている。須磨の表情は、穏やかな微笑のまま、だがその目は真っ直ぐに塩屋を見つめている。唇と唇が、はっきりと重なっていた。「見間違い…だよね」と最初のうちは自分に言い聞かせる。だが、何度見返しても、その写真が現実を裏切ることはなかった。瑞希の頭の中で、これまでの日々が波のように押し寄せては崩れていく。塩屋が家を出るときの優しい声、帰宅して「疲れた」と笑う顔、そのひとつひとつが突然べつの意味を持ち始める。手がかすかに震える。スマートフォンを取り出し、写真を志乃に転送しようとするが、何度も操作を間違えた。ようやく送信のボタンを押したあと、深く息を吐き、「私たち、どうすればいいんだろう」とメッセージを打ち込む。その指が、泣きそうなほど冷たい。数分後、志乃から「見た」とだけ返信が来る。彼女の言葉の短さが、すべてを語っていた。志乃は自宅のソファで、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。送られてきた写真に、最初は言葉を失い、すぐには涙も出な
冬の空気は日に日に鋭さを増していった。瑞希は厚手のコートの襟を立て、事務所のビルの前で深呼吸をした。ここへ来るまでに何度も「やめよう」と思った。信じたい気持ちと、疑いが限界まで膨らんだ現実が、胸の奥で渦を巻いていた。ビルのエントランスのガラス戸に自分の顔が映る。化粧はきちんとしているはずなのに、どこか頼りない表情に見えた。受付で名前を告げ、細長い廊下を進む。事務的な白いドア。中には、無機質なデスクとパーテーション、資料の束が整然と並ぶだけ。担当者の女性は冷静で、穏やかに微笑む。「ご相談内容をうかがえますか」と促され、瑞希はかすかな震えを帯びた声で「夫について、調査をお願いしたいんです」と切り出した。淡々とした説明が続く。「どのような調査をご希望ですか」「証拠となるものはどの程度必要ですか」。瑞希は一つ一つに、短く頷いていく。ペンを持った指が、契約書の欄に差し掛かったとき、ごく小さく震えた。自分で自分の手が思うように動かない。ペン先が紙を走る音が、なぜかやけに耳に残った。自分が「夫を疑う妻」として書類にサインしている事実が、他人事のようにも、現実のすべてのようにも感じられた。説明が終わると、担当者は「ご不安なことがあれば、いつでもお電話ください」と言った。その優しささえも今の瑞希には重すぎた。帰り道、ビルを出ると、いっそう冷たい風が頬を打つ。どこかで誰かがクリスマスの飾りつけをしている。けれど、その色と光は瑞希の胸にまったく届かなかった。同じ頃、志乃は家の中で須磨の帰りを待っていた。壁時計が十時を回る。スマートフォンの通知は鳴らず、静かなリビングだけが時間を引き延ばしていく。やがて玄関の鍵が回り、須磨が帰ってくる。志乃は深呼吸してドアを開けた。目の前に立つ須磨の顔は、疲れたような微笑を貼り付けている。「おかえり」「ただいま」それだけのやり取りで、ふたりの間に空白が生まれる。志乃はスリッパを差し出し、須磨は「ありがとう」と受け取る。その指がわずかに冷たい。須磨がコートを脱ぐ間、志乃は何か言いたくてたまらなかった。「今日はどうだった?」と声をかけてみる。でも、須磨は「まあ、普通」とだけ短く返し、リビングへと向かう。ソファに腰掛けた須磨の背中
家の中の灯りがすっかり落ち、静けさだけが寝室の空間を支配していた。カーテン越しに差し込む街灯の明かりが、ぼんやりと天井に影を映している。ベッドの上には、志乃と須磨のふたりきり。リビングでの余韻がまだ肌の奥に残っている。互いの身体は隣り合っているのに、心の距離だけが、これまでになく遠く感じられた。須磨は背中を向けてベッドに横たわり、志乃は枕元の淡い明かりを頼りに、その後ろ姿を見つめていた。時計の針が静かに進む音が、妙に大きく感じられる。志乃は何度も言葉を飲み込んだ末に、とうとう小さく呟いた。「ねえ、さっきのことなんだけど…」須磨は寝返りも打たず、肩だけがわずかに動いた。「さっきのキス。…あなた、まさか、本気だったりするの?」その瞬間、寝室の空気が凍る。志乃の声は自分でも驚くほど細く、そして震えていた。しばらくの沈黙。須磨は枕に顔を埋めたまま、すぐには何も返さない。やがて、振り向くことなく「冗談だよ」と低い声で答えた。「冗談にしか見えなかった?私には…あの目が本気に見えたよ。塩屋さんの…あなたの目も」志乃は、自分でも知らないうちに涙をこぼしていた。温かい雫がシーツの上に落ちて、染みを作る。その音が、静かな部屋に微かに響く。須磨は、その音を聞いているのかいないのか、手を伸ばしかけては止め、もう一度迷うように宙を彷徨わせる。「本当に、何もないのよね?」問い詰める声が、必死で平静を装う。でも、もうどこにも「信じたい」という気持ちの余裕がなかった。須磨はその問いに曖昧な笑みを浮かべるだけだった。彼の横顔には、否定の色があるようで、どこにも決定的な言葉は落ちてこない。「当たり前じゃいか。大したことじゃないよ。酔ってただけ。みんなの前で、ふざけてただけだ」その言葉の端々が、まるで薄い氷の上を歩く足音のように危うく響いた。志乃はもう何も言えず、ただシーツに涙を落とし続けた。須磨の手が再び宙を彷徨い、ついにそっと志乃の肩に触れた。しかしその手の温もりは、かつてのような安心を与えてはくれなかった。一方、同じ夜。瑞希は洗面所でメイクを落とし
食事が終わると、リビングにはケーキの甘い香りと、ワインとシャンパンの残り香が混ざり合っていた。子どものようにはしゃいだ時間の後にふいに訪れる静けさ。志乃は手際よく食器を重ね、キッチンへと運ぶ。その後ろから須磨も皿を持って続いてきた。瑞希と塩屋はまだリビングに残り、ソファの上でなにげなくグラスを傾けていた。キッチンのシンクに食器を置きながら、志乃は須磨の横顔を盗み見る。彼は黙ったまま洗い物に手を伸ばし、淡々と作業を始める。いつもなら、ふたりきりになった時だけこぼれるような笑顔や親しみの言葉があるのに、今夜はどうにも間が持てない。その沈黙がやけに耳につく。志乃は洗剤を手に取りながら、思い切って切り出す。「さっきのキス、どういうつもりだったの?」自分の声が、思っていたより高く、そして途中でわずかに震えていた。須磨は洗いかけていたグラスの中に少しだけ力を込め、それから志乃のほうを見た。その瞳には一瞬だけ戸惑いが浮かぶ。だがすぐに、彼は肩をすくめてみせた。「冗談だよ。みんなノリでやってたし」そう言いながらも、須磨の視線は志乃の顔に真っ直ぐ落ちてこない。何かを探しているように宙をさまよい、すぐに食器のほうへと逸れていった。その不自然な間が、志乃の心に冷たい針を刺す。「…本当に、冗談?」「当たり前だろ。こんな場だし。心配しなくても、俺たち、友達だから」軽い調子を装っているのに、その声にはどこか硬さが混じっていた。志乃は、深く息を吸い、なるべく落ち着いたふりをしてグラスを水でゆすいだ。けれど、胸の奥ではさっきのキスの情景が繰り返しフラッシュバックする。須磨と塩屋の唇が触れた瞬間の、塩屋の濡れたまなざし。冗談のはずなのに、あの目の中には熱が宿っていた。ごまかしきれない、本当の気持ちが。「…でも、塩屋さんの顔、あのとき本当に…」志乃が言いかけると、須磨は少し強い口調で遮った。「そんなに深く考えなくていいって。大人同士の悪ノリだよ」「そうかもしれないけど…」言葉がそこで詰まった。水の流れる音が二人のあいだに落ちる。須磨はグラスを丁寧にタオ
リビングに音楽が流れ、テーブルの上のケーキやグラスがきらめく夜。ワインのボトルが空く頃、誰からともなく「ゲームでもしようか」という流れができた。瑞希が持ち出した小さな箱に手作りのくじが入れられ、子供じみたルールに大人たちが素直に従う。順番にくじを引き、引いた紙に書かれた指示を実行するだけのシンプルな遊びだった。「外れ!」と笑う声が響き、誰かが無難なお題でその場を盛り上げる。そんななか、ひときわ賑やかな声で瑞希が読み上げた。「あっ、これ“好きな人とキス”だって」志乃と瑞希は顔を見合わせて「はいはい、私たちならキスできるよねー」と、まるで十年来の親友らしく無邪気にふざける。ふたりが頬に軽く唇を寄せ合うと、周囲に小さな笑い声が広がる。「ほら、男同士もやってみたら?」と茶化す瑞希の声が空気を揺らす。須磨は笑顔のまま「じゃあ、いっちょやりますか」と冗談っぽく言い、塩屋も「えー、罰ゲームですよ、志乃さん」と苦笑してみせた。だがその声の奥には、ごく小さな揺らぎがあった。テーブルの向こう側で視線が合う。須磨は、誰にも見せない種類の微笑を浮かべる。グラスを置いた指がわずかに緊張しているのを、志乃は見逃さなかった。「いいよ、早く早く!」と志乃と瑞希がせかす。ワインのせいで頬を染めた塩屋が、須磨のほうに顔を向ける。その頬が赤くなっているのはアルコールのせいだけではなかった。塩屋の唇がほんのり震え、目元が濡れて見える。須磨が、いたずらっぽくウインクをする。テーブルの下で二人の膝が少しだけ触れ合う。「さあ、冗談キス、いってみようか」と声を上ずらせながら、須磨はゆっくりと塩屋に顔を近づけた。部屋に一瞬、妙な静けさが降りる。塩屋の睫毛がわずかに伏せられ、視線だけがまっすぐ須磨に向く。須磨は、その目の奥にどんな光があるか確かめるようにじっと覗き込んだ。そのまま、二人の唇がそっと触れ合う。長いキスではない。ほんの一秒、演技のような、軽いタッチ――けれど塩屋の目はその間、ずっと須磨を見ていた。その瞳の奥が濡れて光り、口元に震えが走る。誰かが「きゃー、本気?」と茶化し、すぐに笑いと拍手が湧き起こる。志乃と瑞希は口元を押さえて爆笑し、