로그인白河邸の一室にて。
小夜子の義姉・白河麗華は、鏡に映る自分の顔を睨みつけた。
少し前までは華やかだったはずの女性はそこにおらず、いるのはみすぼらしく顔色の悪い女だった。目元のくまをファンデーションで厚く塗り隠す。
唇には派手な赤いルージュを引いた。かつては毎月のようにオーダーしていたハイブランドの洋服も、今はクローゼットに残った数少ない過去の栄光を引っ張り出して着るしかない。 それらの服も手入れを怠っていたので、本来の美しさを失っていた。(……許さない)
麗華はルージュのスティックを握りしめた。あの薄汚いメイド――小夜子のせいで、白河家は笑いものだ。
借金取りの電話は鳴り止まず、社交界からは冷ややかな視線が注がれている。 両親は毎日怒鳴り合いの喧嘩をするばかりで、不毛な時間が流れている。かつて名門老舗旅館グループのお嬢様としてちやほやされていた自分が、今や腫れ物扱いだ。
全てはあの女が黒崎隼人に取(わかんない。服が多すぎて選べないよ。どれも同じに見えるし、なんだか重たそうだ) 返事に困って黙り込んでいると、スタッフは人の良さそうな笑みを浮かべた。「それじゃあ花婿さん役だから、これにしようか」 彼がラックの奥から引き出してきたのは、大人顔負けの黒いタキシードだった。「着替えはこっちでしようね」 理玖は別室に連れて行かれ、子供用のタキシードを着せられた。 黒い上着は肩のあたりが窮屈で、腕を動かしにくい。 首元に巻かれた蝶ネクタイの硬い布地が喉に当たって、唾を飲み込むのさえ苦しかった。「着心地はどうかな?」「苦しい……です」「そっか、ごめんねえ。少しの間だから我慢してくれる?」 そう言われれば嫌だと泣くわけにもいかない。理玖は渋々頷いた。◇ 一方の美夕は、衣装の山を前に目をキラキラと輝かせていた。 ラックの間を縫うように歩き回り、次々とドレスの裾をめくっては品定めをしている。「わたし、ウェディングドレスがいいわ」 美夕がおっとりとした、けれど芯のある声で宣言した。 スタッフは困ったように目尻を下げる。「さすがに子供用のウェディングドレスはないねえ」「そうなの?」 美夕は少しだけ唇を尖らせたが、すぐに気を取り直して別のラックを漁り始めた。「それなら、これがいいわ」 彼女が引っ張り出したのは、白を基調とした可愛らしいワンピースだった。 胸元には細やかなレースがあしらわれ、スカートの裾には小さな造花が散りばめられている。 着替えを終えて出てきた美夕は、まるで絵本から飛び出してきた花の妖精のようだった。 ふんわりとしたスカートには透けるような布が何枚も重なり、動くたびに擦れて微かな音を立てる。「どう? にあう?」 美夕がスカートの裾を軽くつまんで、理玖の前でくるりと回った。
ところが食器が割れる音は、いつまで経っても聞こえてこなかった。 理玖が恐るおそる目を上げると、そこにはテーブルクロスだけがきれいに引き抜かれたテーブルがあった。 セットされたカラトリーの位置はそのままに、テーブルクロスのみがスタッフの手にある。「すごい!」「本物の忍術だ!」 興奮した園児たちがスタッフに駆け寄り、テーブルクロスを触っている。「しっかり練習すれば、この『忍術』を使えるようになりますよ。でも失敗したら大変だから、大人の人と一緒にやってね」「はーい!」「すごかったね」 忍術を見た園児たちは、大満足して次の場所へと向かった。◇ 次に向かったのは、ウェディング部門のチャペルだった。 分厚い両開きの扉が開くと、高いアーチ状の天井が広がっていた。 正面のステンドグラスから太陽の光が入り込み、大理石のバージンロードに赤や青の光を落としている。 木の長椅子が規則正しく並び、祭壇の周りには白い花がたくさん飾られていた。甘い花の匂いが鼻をくすぐる。 引率スタッフが、箱を持って園児たちの前に立った。「ここでは特別イベントを行います。この箱の中の紙を一枚ずつ引いてください。『当たり』と書いてあったお友達に、花嫁さんと花婿さんになってもらいます。あ、もちろん、花嫁さん2人や花婿さん2人でもオッケーですよ」 ウェディング部門のスタッフが差し出した箱に、園児たちが順番に手を入れていく。 理玖も紙を1枚引いた。 二つ折りの紙を開く。 赤いペンで丸が描いてあり、「当たり」の文字があった。「あっ」 隣で同じ紙を見ていた美夕が、おっとりとした口調で言う。「りくくん、いっしょだね」「当たりは理玖くんと美夕ちゃんね。いいコンビが当たりましたね」 引率スタッフが可笑しそうに微笑んだ。「さあ、こちらへ」 ウェディング部
「さあ、次は広いお部屋に行きますよ」 引率スタッフに呼ばれ、みんなでもう一度通路を歩き出す。 次に向かったのは、宴会場という場所だった。 両開きの大きなドアが開く。足を踏み入れると、靴の先がふわっと沈み込んだ。 どこまで歩いても足音が鳴らない、長い毛の絨毯だ。 運動場みたいに広い部屋には、真っ白な布がかかった丸いテーブルがいくつも並んでいる。天井には、豪華なシャンデリアがキラキラと輝いていた。「わーい! ひろーい!」 興奮した男の子たちが、ぱっと手を離して走り出そうとする。「こらこら、走らない! ここはこれから、大切なお祝いをする場所だからね」 引率スタッフが慌てて子供たちを抱き止めた。 会場の中では、黒い服を着た大人たちが忙しそうに動いている。 白い手袋をして金属のメジャーをシャーッと伸ばし、椅子とテーブルの隙間を測っていた。「コップの位置、あとちょっと右にして」「了解」 耳につけたイヤホンから、短い声が聞こえてくる。 スタッフの人たちは、しゃがみこんでテーブルの上のナイフやフォークがまっすぐ並んでいるかを確認している。 手際は極めて素早い。 ふわりとテーブルクロスが広がったかと思えば、あっという間にカラトリーのセットが終わっている。 カチャリ、カチャリと金属の音が鳴った。「あのお兄ちゃんたち、忍者みたい!」 男の子が目を丸くして指を差した。理玖もこくりと頷く。(本当に忍者だ。耳の機械でこそこそ話して、一瞬でテーブルの上のものを並べ替えちゃう。僕も保育園のおもちゃの片付けをあんな風にやれたら、先生にすごいって言われるかな)「カラトリー……フォークやナイフなどの食器は、ミリ単位でセットします。細かすぎると思うかもしれないけど、お客様を最高の状態でおもてなしするのに必要なんですよ」 忍者もとい宴会場スタッフが説明した。「しつもんです! どうしてそんなに忍者みたいに動けるんですか
ウェディングケーキの前では、年配のパティシエが、先が鋭く尖ったピンセットを指先で操っていた。 ピンセットの先端には、青や紫色の極小のエディブルフラワー(食用花)が挟まれている。 パティシエは息を詰めて、ケーキの側面に花びらを配置していた。(ケーキ屋さんって、もっと楽しそうにクリームをぐるぐる塗るのかと思ってた。やってることはお医者さんの手術みたいだ。あんな小さい花をチマチマ置くなんて、ぼくなら3分で飽きちゃうよ) パティシエの指先の熱が伝われば、繊細な花びらは傷んでしまう。 だから金属製のピンセットと細いスパチュラだけを使い、ケーキ本体に触れることなく立体的な装飾を加えていくのだ。 やがて花びらがクリームの土台にピタリと吸い付くように配置された。 パティシエはふうと息を吐いて肩の力を抜く。「おじちゃん、これ、いまからたべるの?」 見学していた男の子が尋ねた。 パティシエは振り返り、目尻を下げて笑う。「これは今日の結婚式で使うケーキだよ。新郎新婦がケーキ入刀をする、一番大切な場面で登場するんだ。おいしくって、一口食べると、魔法みたいに幸せになれるんだよ」 パティシエの言葉に、子供たちは「まほう!」と声を弾ませる。 そこへ、オーブンを担当していたパティシエが、銀色の小さなトレイを持って近づいてきた。 トレイの上には、四角く切り落とされたスポンジケーキの切れ端が山積みになっている。「見学に来てくれたお礼だよ。みんなで食べてね」 引率スタッフが受け取り、園児たちに配り始めた。 理玖も小さなスポンジの欠片を受け取る。まだほんのりと温かい。 口に入れると、卵の優しい甘さがふわっと広がって、すぐに溶けてなくなった。「あまくておいしい!」「もっとたべたい!」 園児たちは大喜びで跳ね回る。理玖も口の周りについたケーキの粉を舐め取った。「すっごくおいしい。ケーキのきれはし、もっとないの?」 理玖が身を乗り出して聞くと、パティシエたちは顔を見合わ
搬入口の騒々しさを背に、引率スタッフが先頭を歩く。 一行は従業員専用の通路を通ってホテルの奥へと進んだ。 理玖は自分の背丈よりも何倍も高いコンクリートの天井を見上げる。グレーに塗られた太い配管が縦横に這い回っていた。「次は、ケーキやお菓子を作っている場所へ行きますよ。みんな、はぐれないように手をつないでね」 引率スタッフが声を張り上げる。コンクリートの天井に声が反響した。「はーい!」「ケーキだって。たのしみ!」 引率スタッフの案内に、園児たちが元気よく返事をする。「美夕ちゃん、手つなご」「ええ」 理玖は隣を歩く美夕と手を繋いだ。 美夕と手を繋ぐのはいつものことなのに、見知らぬ場所のせいかドキドキする。 やがて行く先に大きな扉が見えてきた。 分厚いステンレスの扉が開く。途端、焼きたてのバターの香ばしさと、焦がしキャラメルの濃厚な甘い匂いが鼻をくすぐった。「うわぁ……」 理玖は声を漏らした。口の中に溜まった生唾をごくりと飲み込む。 室内には、銀色に磨き上げられた巨大な作業台がいくつも並んでいた。「こちらがパティスリー部門です。大きい作業台とケーキが見えますね! 作業台はひんやりしているんですよ。チョコレートや飴細工が手の熱で溶けないための工夫です」 引率スタッフが言う。 園児たちは順に手を伸ばして、ステンレスの作業台を触らせてもらった。「ほんとだ。つめたい!」 純白のコックコートと高いコック帽を身につけたパティシエたちが、それぞれの作業台で作業に没頭している。 手前の台では、若いパティシエが自分の胸ほどもある金属製のボウルに向かっていた。 巨大なホイッパーで、卵と砂糖の混ざったもったりとした黄色い生地を力強くかき混ぜている。 シャカシャカというリズミカルな音が室内に響いた。 奥のオーブンからは、熱気とともにスポンジケーキが焼き上がる匂いが漂ってきた。 分
ホテルの断面図のようなグラフィックに、各フロアのネットワークトラフィックや使用電力が色分けされて表示される。「こうして色分けして表示しておけば、状態がひと目で分かる。便利でしょう?」 青は通常、黄色はやや多めといった具合だった。 今はほとんどが青色の表示になっていた。「最近はセキュリティも重要になっている。外部からの不正なアクセスを防ぐために、常に監視の目を光らせているんだ」 子供たちはモニターの青白い光に照らされながら、翔吾の説明に聞き入っている。 美夕は翔吾のデスクに近づき、キーボードの配列を興味深そうに眺めた。「しょうごおじさん、ここでぜんぶわかるの?」「うん、分かるよ。分かるだけじゃない、トラブルの対応もできる。どこかの部屋でWi-Fiが繋がりにくくなったら、すぐにアラートが出る仕組みになっている。お客様からクレームが来る前に対処するのさ。それが快適な滞在に繋がるからね」 翔吾は少し得意げに答えた。 説明を続けているうちに、棒読み口調の固さは取れている。 理玖は父の顔を見つめた。 モニターの光が眼鏡のレンズに反射している。 指先一つで、この巨大なホテルの隅々までを把握し、制御しているのだという。 その姿は、まるで絵本に出てくる魔法使いのように見えた。(父ちゃん、毎日ここでホテルの全部を見てるんだ。パソコンの画面だけで、何が起きてるか全部分かっちゃうなんて、かっこいいな。家でジャージ姿でゴロゴロしてる時とは大違いだ) 理玖は胸の奥から、温かい誇らしさが込み上げてくるのを感じた。「魔法使いみたい。でも魔法じゃない」 ホテルという巨大な建物を動かしているのは、魔法ではなく、こうした裏方のプロフェッショナルたちの技術なのだ。理玖は5歳なりに理解し始めていた。 ふと、サーバー室の冷気で少し肌寒くなり、理玖は両手で自分の二の腕をさすった。 周囲を見れば、寒そうにしている子供たちが何人かいた。 そうと気づいた翔吾が言った。「ここは寒いからね。